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目を背けることができない重要な問題で移植医療とは切り離せない課題でもあります。我が国では今だ成熟した議論が尽くされたとは言えず、欧米の倫理観を追認しているのが実態ではないでしょうか。
辞書で「倫理」を引くと「人として守り行うべき道。善悪・正邪の判断において普遍的な規準となるもの。道徳やモラル・・」と記述してあります。
地域・文化・民族・宗教などで倫理感は異なってきます。私達はこれ・これ・この様に思うのであなた達も同様にしなさいと主権が及ばない他国にまで同一の価値観を求めるのは無理がある様に思います。短的に申せば漢民族の人達は「死刑囚は殺人や強姦など悪いことしたのだから死ぬ時ぐらいは良い事をすべきだ」との解釈が大勢を占め死刑囚からの臓器摘出はむしろ肯定的に思う人が大半です。
貧しいアジア地区では「自分の体の一部をどうするかは他人の干渉を受けたくない。それで大金が手に入り幸福になれるならそれで良いではないか」と・・・日本人的感覚からすると、とんでもない話に聞こえます。しかし、貧しい農村部に暮らし子供を学校にも行かせられない人達には人生の転機となり得るのです。
イスラエルの国では海外渡航移植に対しての助成金が腎臓で 8万ドル肝臓で 12万ドル支給されます。まるで渡航移植を奨励するかの国策を日本の医療関係者が聞けば目をむく様な話です。日本では透析患者 1人に医療費や障害者年金など合算すると毎年 700万円前後の税金が投入され、しかもそれが毎年必要となります。透析の平均寿命(日本 9年半)から計算するとイスラエル政府は合理的な判断をしているとも思え、また何よりも患者自身が健康を取り戻せ幸な生活が送れるのだからと考えるのも一理ある様にも思えます。(ユダヤ人はアラブ人、韓国人に次いで多くの方が移植治療に見えられています)
中国では死刑判決が確定すると死刑囚に臓器提供の署名を求めます。その見返りとして 3万元(約 45万円)が遺族に払う仕組みになっています。どうせ死刑から逃れられないのなら、せめて妻子に生活費を残したいと大抵は署名に応じるそうです。次に遺族のもとへ行き「近くご主人さんに刑が執行されますが、病気の人達を救う為に協力して頂けませんか」と当人が署名してある同意書を見せながら承諾を求めます。これも、大概は応じるとのことです。3万元は大金であり、地方の農村部で暮らす住民の 4年分の所得に相当する金額です。
私たち日本人は、言論の自由があり、自由選挙で選ばれた各地の代表者が国会に集まり国を運営する民主主義が正しいものと考えますが、中国では高学歴で教養や知識レベルが高い人ほど民主主義を否定されます。その理由を尋ねると「中国人に自由な言論を与えると各々が自己利益を優先し各自勝手なことを言いはじめ、やがては各地域の代表者同士が争い内戦へと発展する歴史(国がばらばらになり乱れる)幾度も経験しているからです。今は軍や警察の力を背景にした強力な中央集権国家の下で民衆を押さえつける事がこの国にとってはより幸福なのです。民主主義は 30~50年ぐらい先にするのが理想と思いますよ」と、笑いながら話されます。
移植医療と倫理問題は表裏の関係にあり、目を背けることができない課題でもあります。日本と中国のどちらが善でどちらが悪という問題ではなく、価値観や文化の違いの様に思えます。今後も皆様と一緒に考えていきたいと思います。匿名でも構いませのでご意見などお寄せ下さい。
平成21年2月7日
追記
海外に在住していると、あらためて日本の素晴らしさが見えてきます。信頼関係で人間社会が成り立っており、人に対する配慮や優しさを感じます。地方の農村部に行くと道筋に取れたての野菜などが陳列された棚があり、その脇に「100円を入れて下さい」と木箱がそっと置かれています。この光景は諸外国では考えられないことです。「悪い人はいない」この前提があって、無人販売は成り立つのです。高い塀に囲まれていくつも鍵を掛けていないと安心して暮らせず、道を歩けば、「どけ!」とばかりにクラクションをけたたましく鳴らすタクシー、殺伐とした環境から帰国すると「やっぱり日本は良いな~」とつくづく思うのです。
その温和な国民性からなのか、人体から臓器を取り出し移植する事に抵抗を感じる人が多い様に見受けます。また脳死に対する理解も進んでいません。「心臓がまだ動いているから・・・」とメスを入れることに、ためらいを持ちます。日本人は情緒的な事をとても大切にする民族です。「3人しか乗れない船に 4人いたら・・」この類の問いに対し、合理的判断を避け「4人一緒に死にます。」と答える人も少なからずいます。移植医療はリスクが伴い、生と死に向き合い、冷静に判断することから始まります。もしも、万が一の言葉が連続すると結局は何もできず、余命わずかな患者を前に、落ちる砂時計を息を止めてじっと見つめる様な姿になってしまうのではないでしょうか・・・。
脳死判定の基準は各国により様々であり、世界的な統一基準は存在せず、米国内に於いても各医療機関により採用する基準が違ってきます。例えば、日本では平坦脳波は必要条件ですが、ミネソタ大学基準では不要です。また、ハーバード大学基準では必須条件とせず、総合判断によるとなっています。他国に目を移せば、イギリスの国家基準は不要としています。また、瞳孔の散大又は固定は日本では必要条件ですが、これに付いても夫々の国や医療機関によって様々です。米国と同様に、国家が統一基準を定めず、各医療機関の判断に委ねているケースが大勢を占めているのが現状で、中国に於いても同様な状況にあります。ちなみに米国の大統領委員会が定めた基準では、平坦脳波と瞳孔散大の双方とも不要で、必須条件としていません。
基準とは別に、本人の生前の意思や家族の意向を尊重する傾向が海外では多く見受けられます。
終末医療の概念は、民族・宗教・国家により倫理観は異なり、法令の定めが無くとも現実的に、関係者の同意の下に尊厳死を認める医療機関は少なくありません。欧州では、ある病院またはある医師の承認が得られないので、別の病院に転院して安楽死を求める患者の方もいます。
我が国では医師や医療機関による裁量は極めて限定的であり、殆ど無いと言って良いでしょう。たとえ本人や家族が望んでも、その意思を汲み取ってあげる事はできず、また同調したら殺人罪として刑事被告人になってしまう危険性すらあります。
国家が法令で定めると、どうしても厳格な基準になってしまいます。それはあらゆる状況や事情を想定して法制化しなくてはならないので、極めて稀なケースまでも網羅しなくてはなりません。従って他国では、脳死判定でも日本では異なる判断が下されます。また、判定基準に達した時点では、臓器は移植に適さない状態に至ってしまうことも少なくありません。さらに過酷な判定基準は、医療機関にとって大きな負担となり、脳死判定それ自体を減少させてしまいます。
人間の生命を維持する中枢神経が集まっている所が脳幹の領域です。この脳幹が損傷を受けると自発呼吸ができなくなり、人工呼吸に頼らなければ生命を維持していく事ができません。人としての感情や意思の疎通などは大脳の領域になります。他の動物と比較してこの大脳部分が進化したのが人間です。この大脳の機能が廃絶すると、例え心肺機能が正常であっても、物事を思考する事も自己表現する事も一切できない、単に生きているだけの物体となってしまいます。
我が国の現行法では、脳幹を含む脳全体の機能が失われたと確かめられた時に限り、脳死と定義しています。
イギリスの基準では、人間としての思考ができる大脳が正常であっても、脳幹の機能が失われていれば脳死と判定されます。大脳が機能していれば、体を動かす事が出来なくとも、考え事をしたり、夢を見たり、一定のサイクルで脳波は覚せいと睡眠期を繰り返すのです。しかし、イギリス基準は人の死と定義しています。思考能力があっても自己表現が出来ない状態は既に人間としては死んでいるとの解釈です。
判定基準は別として、我が身に置き換えて考えて見ると・・・・
毛沢東が晩年に患った事で有名になった筋委縮性則索硬化症という病気がございます。原因不明で発症したら死から逃れる事は出来ません。しかもこの病は死を迎えるまでに言語に絶する苦しみに苛まされ、大抵の人は安楽死を求めます。手足の麻痺に始まり、やがては体に運動障害が及び、目を開けたり閉じたりする事も出来なくなってしまいます。最終的には自発呼吸や食べ物を飲み込むこともできなくなるので、人工呼吸器を装着したり、胃にチューブを通して流動食を強制的に送り込む事になります。こうまでして生に執着される方はどれぐらい居るでしょうか。脳の活動はまったく正常で、思考する事も音楽を聴く事も、さらに寒暖もわかり、五感の機能もは正常です。ただ、徐々に体が動かなくなり、症状が緩和されることはありません。
脳の機能がしっかりしているだけに大変悲惨で、病室に家族が見舞に来ると患者は、大粒の涙を滝のように流しますが、声を出す事も指を動かす事も出来ません。ただ眼球だけを動かして家族を追いかけるのです。この様な状態になっても我が国の現行法では安楽死を認めていません。言葉や身ぶり素振りなどの自己表現ができない状態は、人間にとっては最大のストレスになります。この様な状態になっても存命する事が、人間として本当に幸せなのだろうか?
移植手術を済まされた患者は「術後のICUは地獄だったよ。毎日ただ天井を見つめているだけなので、二度と味わいたくない。」と話されます。もし私が、この病に冒されたら迷わず海外に行き安楽死を求めることでしょう。また健全な肉体は、移植を必要としている人に提供したいと思います。人生の終止符の選択も許されない現行法は、人間の尊厳をどの様にお考えなのか些か疑問を感じます。
我が国の脳死判定を物差しにして中国の脳死移植を検証すると、「人を殺して臓器を取り出す中国」と、マスメディアは報じるかも知れません。欧米で許される事も、アジア地域には許されず、人権問題と声高に叫ばれる事態は明らかです。どこまで行っても日本人がアジア地域に渡航移植する事は「罪悪」の汚名を拭えないのです。これを解決する唯一の方法は、国際間の医学交流と相互補助のシステムが構築されるしかないと私どもは考えます。
詳しくは
コチラ
平成22年1月25日
死刑囚からの臓器拠出に付いてWHO(世界保健機構)は拘束された状態では自由意思の確認が取れないとの理由で禁止を勧告しています。また各国の医療機関も勧告に従う立場を取っており日本移植学会も例外ではありません。勧告に対して同調していないのは中国をはじめ台湾・シンガーポール・香港・イラン・パキスタン・・・などの国や地域になります。(日本の法律では禁じていません)
臓器の提供は誰からも強制されない自発的な自由意思に基づかなければならない事は明白であり異論が入る余地は無く同様に思います。
現地からの調査レポートをお伝えします。
中国に於いては本人と家族双方の同意があって初めて臓器の摘出が可能となりますが、この同意書への署名は強制又は自由意思なのか検証することは大変難しく外形的事実関係から推測するしかありません。関係者からのヒアリングで大変参考になる話を聞けたので紹介します。
法院(裁判所)関係者からの話し
死刑囚に対して臓器提供の同意書は執行される数カ月前に本人に渡されます、文中には「臓器の提供により命が救われる患者がいます」「あなたの温情と慈悲の心は人々に永遠に刻まれることでしょう」(要点のみ)提供の意義と依頼の内容が丁寧に記述してあります。
死刑執行を目前にした死刑囚の多くは、贖罪(注1)の機会として前向きに受け取り、臓器の提供を拒否する者は少数だそうです。(無実を訴える者や政治犯は同意しないケースもある)また家族の同意に至っては、犯罪者とその家族は周囲からの非難に対してせめてもの償いと考えて、はねつける人は殆どないそうです。(九州大学が行った関係者への調査でも同様の報告・2006年)
注1=贖罪(しょくざい)自分の犯した罪を悔いて償う事・罪滅ぼし
現在、中国では死刑執行当日の早朝に家族との面会が許されるようになりました。「死ぬ前にひと目、子供に会いたい。又は父母に会って詫びたい」この死刑囚の切なる願いを汲んで刑務所が配慮する様になり全国に広まっています。面談の際は死刑囚の好きな食べ物や飲み物などの持ち込みも許可されており酒、たばこも大丈夫です。(ここで臓器提供の意思を本人に確認しようと思えば可能です)死刑囚は家族と数時間の歓談の時を過ごした後に執行される事になります。これらは法院(裁判所)も容認しており、執行前に家族が受刑者と面談する機会を与える事により獄中の暴行や虐待の抑止に繋がると考えている様です。
平成22年1月18日
同じ境遇だったら・・・・
もし我が子が不遇にも殺人事件を起こし死刑囚の身になったとして獄中から「後悔しています、お父さんお母さん許して下さい。できれば僕の体で命を救える人がいるのなら役立て欲しい・・」こんな手紙が届いたとしたらどう感じますか、罪は憎んでも我が子は我が子「どうしてこんな優しい子が、なぜ罪を犯してしまったのか・・」涙を見せない親はいないでしょう。
日本でも犯罪者の家族は世間やマスコミからの非難や追及に遭いその心労たるや並大抵ではありません。死刑囚が家族を想いやりまた自己の犯罪を悔いる贖罪心から、さらには死を目前にして「病気の人を救ってあげたい」と純心に帰り、、臓器を提供しようとの考えに至っても不思議ではありません。また被害者やその遺族の感情はどうでしょうか「臓器など提供するな」と憤慨されるでしょうか、死をもって償いその体は複数の人の命を救ったとしたら。少なくとも怒りを覚えることはない様に思いますが皆様はどう考えますか・・。(確定死刑囚ではありませんが既に移植の関係者に手紙が届いています)
あとがき
WHOは自由意思の確認が取れないであろうとの推測から禁止の勧告をしていますが、それぞれの国情に於いて状況は様々と思います。日本では留置所や刑務所でも弁護士は受刑者と個別の面会が可能で、看守などの監督下に置かれる事は一切ありません、また手紙のやり取りも原則自由です。加えて拘置施設や医療関係者が死刑囚に対して、臓器の提供を強制する事は日本の文化や国情から推察すれば考え難いと思われます。死刑囚からの臓器拠出は贖罪の機会を与えるか否かの観点から議論されるべき問題ではないでしょうか。
平成22年1月29日
国内での移植の機会を増やすうえでも、また移植治療の意義を惹起させる意味に於いても有効な仕組みと思います。この親族優先に付いては現 在、関係者の間でも意見が分かれており、ちょっとした論争に発展しています。「身内に病気の者が居れば助けたいのは人情です」という親族優先の意見に対し、「臓器の移植は無償の人類愛に基づいて公平に行われるべき」との反対意見もありあす。どちらもうなずける話です。さて皆様はどちらの考えを支持されますか?
問題の本質
死んだら人の肉体はいったい誰のものでしょうか?遺族のものそれとも神のものなのか。キリスト教社会では「魂が天に召され後は抜け殻です」又は「肉体は神からの借り物です」これに対して東洋文化(仏教・儒教)では「再び生まれてくる(輪廻転生)」又は「死後の世界で生きる」死後に不自由しない様に生前に愛用した品々を一緒に埋葬する習慣はアジアの全域で見られます。また死体に化粧をしたり丁寧に扱うことは死者への礼儀と考えています。
最後の晩餐の時にイエスはパンを手にして弟子たちに「取れ、これは私のからだである(マルコ14章22節)・私の肉を食べる者には永遠の命がある(第一コリント11章23節)」解釈次第では臓器移植を示唆する記述が聖書の一節にあります。現在でも多くの教会の晩餐式(ミサ)ではキリストの身体の一部としてパンと葡萄酒が配られます。
この文化の違いを背景にして移植の是非を討論しても両者が一致した結論を導き出すことは極めて難解です。端的に申せばキリスト教社会では臓器→神→レシピエントになり、神が公平に分け与えるべき。アジア社会ではドナーからレシピエントへと個人(遺族)に属するので選択の自由がある。双方に基本的考えの相違があるのです。
欧米では親族優先はナンセンスであり、アジアの人々に尋ねれば他人にあげるよりは身内を優先するのは当然との返事が返ってきます。
上記のことは移植医療の根幹に関わる思想の相違です。どちらか一方が善で、もう一方が悪という話ではないと思います。昨今のマスメディアの報道を見聞するにはWHOの勧告を背景にキリスト教社会の観点からの論調が多く感じられます。
しかし、このほど日本移植学会が認めた「親族優先」と言う感情を移植医療に取り入れた点ではアジア的思想に配慮されたとも受け取れます。もっとも存命中に移植の機会を得られる可能性が高い欧米と希望しながら大多数の患者が命を落とされる我が国の現況と同列に論ずるのも無理があると言えます。
平成22年 2月17日
外科医が記した手紙があります。お時間のある方は一読・・・。詳しくは
コチラ
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