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【社会】

GHQ検閲逃れた1949年の手記 14歳、焦土で惨状を見た きょう広島原爆の日

「焦土と化した広島の風景を思い浮かべ、忘れないでほしい」と語る西村利信さん=千葉県船橋市で(木口慎子撮影)

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 広島への原爆投下から四年後の一九四九年に書かれた被爆者の手記が三月、六十九年ぶりに見つかり、原爆の語り部らが冊子にまとめた。当時は連合国軍総司令部(GHQ)が原爆に関する報道を規制しており、この時期に書かれた克明な記録の公表は少ないという。筆者の西村利信さん(87)=千葉県船橋市=は「あの惨状が忘れられつつある今、若い人たちに読んでほしい」と願う。 (原尚子)

 「背中におおいかぶさっていた人が側面にドタリと落ちて来た。まさに怪物、焼けただれた真赤な全身、顔はふくれ上がって目はつぶれ(中略)級友の一人であろうが、誰だか全然見当がつかない」。手記には、原爆投下直後の光景が、鮮烈な記憶をもとに生々しく描かれている。

千葉高校文学クラブ誌「道程」に書かれた西村利信さんの原爆体験記

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 西村さんは、十四歳だった旧制広島県立広島第二中学校(現・広島観音高校)二年の時、爆心地から約二キロの東練兵場で勤労奉仕中に被爆。顔にひどいやけどを負いながらも一命を取り留めたが、爆心地近くにいた陸軍中佐の父利美さん=当時(45)=と一つ下の弟正照さんを亡くした。瀕死(ひんし)の正照さんを必死で家へ連れ帰った様子も手記に記されている。

 終戦後、西村さんは母の実家があった千葉県に移住。記憶を封印したかったが、県立千葉高校二年の時、所属していた文学クラブの顧問教諭に「今書かないと」と促された。嫌々筆をとると「当時の光景がよみがえった」。一気に書きあげた手記は、クラブ誌「道程」に二号連続で掲載された。

 五二年のサンフランシスコ講和条約発効まで、GHQの報道規制で原爆に関する記述は制限され、検閲を受けて没収された時代。西村さんは「内々のクラブ誌だから見つからなかったのでは」と推測する。

 現在、西村さんは肺がんで闘病中。身辺整理をしていた今年三月、捨てる物の山から長男の妻桂子さん(49)が、茶色くもろくなった手記を見つけた。桂子さんの勧めで、語り部の活動をしている被爆者、小野英子さん(79)=習志野市=らに見せると「ぜひ世に出したい」と熱望された。

 手記には、父の死亡確認証の文面を書き写した部分がある。当時は字面を追っただけだった。あらためて読み返して初めて父の死の状況が頭に入り、向き合うことができた。つらすぎて三人の息子にも話さなかった被爆体験だが、手記の発行へ気持ちが動いた。

 手記の終わりに「現在の世界情勢は楽観を許さない」と書いたが、今の方が核戦争の危機が高まっていると感じる。西村さんは「生きているうちに公表できて良かった。焦土化した広島を忘れないでほしい」と語った。

◆ネットで全文公開

 西村さんの手記をまとめた冊子「原爆体験記」は約五百冊作られ、広島観音高校同窓会や広島平和記念資料館などに寄贈された。俳人の黒田杏子(ももこ)さん主宰の「藍生(あおい)俳句会」も月刊誌八月号別冊として発行。編集に携わった俳優で語り部活動をしている岡崎弥保(みほ)さんのホームページ「言の葉」(http://ohimikazako.wixsite.com/kotonoha)でも公開され、ダウンロードできる。

 原本は「ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会」(東京都千代田区)へ寄贈。同会の栗原淑江さん(71)は「貴重な記録。よくぞ残っていた」と話している。

 

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