昭和25年1月下旬。米軍輸送機からパラシュートを背負い、一人の日本人が那覇飛行場に降り立った。
法務省民事局第三課長・新谷正夫である。
37歳の官僚は、注意深く足許を見ながら、古びた靴を砂埃が舞う地面に落とした。
戦後、日本の公務員で沖縄に出張したのは恐らくこの時の新谷が最初だろうと言われている。
終戦から4年半が経つが、GHQの管理下にあった本土と米軍の直接占領下にあった沖縄との間では交通手段は全てが遮断、簡単に行き来できる状況ではなかったのだ。
新谷のこの沖縄出張は、東京GHQにおける法務担当の係官の一人で、ライカム(RYCOM琉球軍司令部)の顧問であるマクラス氏の要請によって実現した。
沖縄の壊滅した土地の区画や所有権を定め、不動産登記制度を確立するために、どうしても日本の法制上の契約行為や不動産登記等に詳しい新谷を現地に呼んで、協力してもらわなければにっちもさっちもいかない状況だった。
しかし、新谷の心の中にはそれとは別な目的があった。
「沖縄の戸籍事情を掌握すること」——。
復帰がいつのことになるかは判からない。ただ、沖縄現地の戸籍事務の実情を知ることは、敗戦国となったとはいえ、日本が独立国家として再生していくためには極めて大切だった。
「私に課せられた『密かな用務』」。
新谷が自身でそう呼んだ沖縄における戸籍状況の把握は、当時の日本にとっては表にはできない、しかし沖縄復帰に向けての最重要課題だったのだ。
第二次世界大戦中、沖縄本島は文字通り一大決戦場となり、軍関係者ばかりか全島民が戦渦の中に巻き込まれ、自決も含めた多数の戦死者を出した。心身ともの荒廃、また敗戦に伴う被占領という未経験の状態は沖縄に住む人々に大きな負担を負わせた。
沖縄戦は188,136人の命とともに、生き残った人々の存在を証明する沖縄市民の「戸籍」を奪った。
「戸籍」の滅失は1944年10月10日の那覇市での焼失を皮切りに、1945年7月15日まで、2市3町43村120,928件にも及ぶ。
つまり八重山諸島の一部を除いて、沖縄の戸籍はほぼ全て、焼かれてなくなったのである。ほぼ全員が一気に「無戸籍」になったということだ。