資本主義は退屈です。
現代の最大の美徳は金稼ぎである。金さえ稼げば、バカでもブサイクでも性格が悪くても文句は言われない。文句を言う奴は、ただ劣等感でそう言っているのだ。
現代の最大の信仰も金稼ぎである。金さえ稼げば、幸福な人生が待っている。有名になれるし、優雅な生活ができる。大金持ちになって絵画を買ったり、ロケットを打ち上げればみんなが賞賛してくれる。
そういうわけで、みな金を稼ごうと躍起になっている。副業、仮想通貨、アフィリエイト、転売ビジネス。
しかし、金を得ることがほんとうに幸福だろうか。
by Riccardo Pittaluga(「金は高い依存性物質」タバコの注意表記のパロディ)
賃金労働者の退屈
現代では生きるために働かなくてはならない。賃金が必要だからだ。
私たちは種を蒔くための土地や、木材を得たり動物を狩る山をもたない。それらは国や企業、地主のものだ。
したがって、私たちは自分の労働力を切り売りして賃金を得る。それによって生活に必要なものを消費して生きる。このことについて私たちには選択肢がなく、強制されている。
賃金労働者はその労働と消費の両輪において搾取される。労働をすれば企業と国家の利益となる。消費をすればふたたび企業と国家の利益となる。
私たちが一生涯働いて得られる利益とは、資本家や国家の私たちから奪う利益に比べれば雀の涙だ。言ってしまえば、貨幣経済と賃金労働制は最大効率の支配なのである。
なので、賃金労働者の人生はつまらない。
資本家の退屈
金持ちとは、金をもった貧乏人である W. C. Fields
資本主義社会は階級社会だ。金を稼いで成功者になることは、基本的には労働者階級から資本家階級へのシフトを意味する。
だが、資本家階級はいっそうの退屈である。
労働者階級は奴隷である。だれかに奉仕する、不自由な人生を歩む。
資本家階級は主人である。だれかに奉仕されなければ生きていけない、不自由な人生を歩む。
勝ち組は不自由だ。他者を使役して自らは何もしないのが「高貴な人々」の掟である。したがって彼らはつねに奴隷に縛られることになる。なにもかも他人任せであり、その生活は退屈である。
古代エジプトの王族は豪奢な生活をした。奴隷に食べ物を口元まで運ばせて、自らは一歩も動かなかった。彼らは糖尿病になって死んだ。羨ましいと思う人がいるだろうか?
また、資本家はつねに自分の地位を失うのではないかとビクビクしている。そのために、強迫的に富と権力を増やすことに終始する。彼らは不信、不安、孤立、恐怖、被害妄想に悩まされ、その人格は残虐、冷酷となる。
これが基本的には、いつの時代も「主人」の人生である。経済的成功者の人生もまた、つまらない。
ひとりで立つ者は楽しい
他人に従属することはすべて苦しみである。自分が思うがままになし得る主であることはすべて楽しみである。(「真理のことば、感興のことば」)
「良き生」は、勤勉な労働者でもないし、経済的成功者でもない。そのいずれも不幸である。
- 労働者は自分によって、他人のために生きる。
- 資本家は他人によって、自分のために生きる。
この双方は苦しみの生である。
幸福に生きたいなら、ただ自分によって、自分のために生きるべきだ。
私は自分のバイクを数日間かけてメンテナンスして、それに成功したとき、無上の喜びを感じたことがある。その喜びは、他人のバイクをメンテナンス「させられた」ときや、バイク屋のメカニックにメンテナンス「させた」ときでは味わえなかっただろう。
種を撒いて野菜を収穫したときの喜びは、働いて得た賃金でスーパーで野菜を買うより何倍も大きい。それは何より、自分の労働の成果がそのまま自分のものとなるからである。徴税や搾取のないとき、労働は大きな喜びをもたらす。
幸福とは自然に生きること
「もしふたつしか選択肢が与えられないのであれば、三つ目を選べ」ユダヤ人の教え
自分によって自分で生きる。
これが人間の自然なあり方である。
国家が生まれるまでの数十万年間、人類はそうやって生きてきた。釣りや狩りや採集によって自分で食料を得た。家を建て、衣類をつくり、子どもたちを育ててきた。なにもかもを共同体で分かちあった。
他人の成果を強奪しようとしたり、自分だけ怠けようとする者は、嫌われて、捨てられた。そこには奪うものも、奪われるものもおらず、みなが基本的には自由だった。これが本来の生き方であり、自然な共同体である。
しかしながら、こういった共同体やライフスタイルは、現代では徹底的に否定されている。自然に生きるための土地資源などの生産手段はもはや存在しないし、土着的な文化風習は非文明的で非科学的だとして、現代ではほぼ絶滅している。
国家は人間の本来性を徹底的に消滅させた。なぜなら、「自分ひとりで生きていく」人々は資本や国家の利益にならないからである。そして自分ひとりで生きていける人間は、必然的にヒエラルキーに対して強い反発を抱くからである。
したがって、喜びの人生は隠された道となる。だから、富める者も貧しい者も、不自然な、不幸な人生を歩んでいる。
私は労働者となることも、資本家となることも不幸だと思う。つまり、だれかに労働力を譲り渡すのも、だれかの労働力を奪うのも不幸である。
自分の力によって、自分のために働いて、それによって生活していく。そこに幸福があると思う。
補遺:あるブロガーの退屈
この記事を書こうと思った理由は、あるブロガーの記事がネットビジネスの不毛さを語っていたからである。
月収20万円を達成したブロガー「yuki saijo」氏は、稼げるブログの技法を以下のように語る。
① 人気のある事柄・商品を詳しいっぽく、薄くまとめる。
② 数字を入れたり、すべて解決・簡単にマスターできるような見出しにする。
③ SEOやキーワードを意識する。検索向けに文字に揺らぎを与える。
④ 記事にできるだけ時間をかけない。あまり深い記事にしない。
⑤ ランキングやお勧め一覧を、とにかく乱発して、記事をたくさん作る。
⑥ 当たった記事ができたら、似たようなコンセプトで内容を変えて増やす。
本質的に優れている記事である必要はない。むしろ適当にスクロールして、わかった気持ちになることが重要であり、本質的に考え抜いた記事である必要はまったくない。
薄い記事(内容が薄い記事、文字数は多いほうが良い)の方が有益であり、ぱっと見て、分かった気持ちになり、購入へ進むような流れが理想だ。
真剣に記事を作りこむより、量産したほうが効率が良い。そして儲けが大きいジャンルを、どんどん軽率に記事をアップしたほうがうまくゆく。恐れるながれだ。
(同)
この皮肉に富んだ表現!
現在、この記事を最後にyuki氏はブログの更新を停止している。
「金を稼ぐ」ことはできる。しかしそれだけが目的では、金の奴隷だ。私は、このブログで自分にとって楽しいことだけ書いていけたらなあ、と思っている。