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さようなら、憂鬱な木曜日

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焼き肉食べ放題でライスを頼むと遠回しに非難してくる人について

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焼き肉食べ放題に行った。一人3,980円でメニューにある肉などが食べ放題のコースである。

私は、焼き肉を食べるとき、絶対にライスが欲しい。肉と一緒にライスもどかどか食べる。

脂っこい肉をライスで中和させることによってよりバランスの取れた味わいになるし、焼き肉のタレと言うのはご飯と相性抜群だからだ。

だから、私は1度目の注文で肉と一緒に必ずライスも頼む。

私が「ライス一つ」と頼むと、たまーにこんなことを言ってくる人がいる。

「安上りだね~」

「もったいないよ~」

言われ方は様々だが、要するに「焼き肉食べ放題でライスを頼むのはナンセンス」ということらしい。

こういう類の非難を受けるたびに、私は彼らとの価値観の違いに呆れて悲しくなる。

 

 

肉をたくさん食べて元を取るという発想

彼らの「ライス不要論」の発想の根底には、「肉をたくさん食べて元を取る」というものがある。

確かに、ごはんを食べることによって満腹になる分を、代わりに肉を食べれば、注文する金額というのは高くなるのかもしれない。

肉5人前+ライス2杯と、肉10人前のみであれば、後者の方が原価は高いだろう。

彼らは、約4000円の元を取ることに躍起になっている。だから、ライスで空腹を満たすことなどありえないのだ。

 

 

むしろ、ライスのために焼き肉がある

しかし、私からすると、彼らの発想は根本から間違っていると言わざるを得ない。

私たちはなぜ焼き肉食べ放題へ行くのか?それは、「お肉を食べて幸せな気持ちになりたいから」であろう。

その本質を見誤って、「とにかく肉をたくさん食べること」に意識が向いてしまっては、本末転倒なのだ。

私にとって、焼き肉を食べる際の最高のパフォーマンスを引き出すためには、ライスが絶対に必要不可欠なのだ。ライスなしの焼肉などあり得ない。むしろ、ライスのために焼き肉があるのだ。

もちろん、それは人それぞれだと思う。

だが、焼き肉にライス派は、ライスを頼まない人に対して非難したりはしないのに対して、焼き肉にライス不要派は、ライス派を執拗に攻め立ててくるのだ。

焼き肉ライスは、自分の幸せを追求しているだけだ。ライスを食べることは同行者の迷惑にはならない。ただ、ごはんを一緒に焼き肉が食べたいだけだ。

それなのに、なぜ非難されなければならないのだろう。

 

 

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原価でしか価値を測れない人間は、他人を不快にさせる

焼き肉にライス不要派の人生は悲しい。すべてにおいて、「モノやサービスの価値を原価でしか測れないから」だ。

原価でしか測れないということは、モノの価値を正しく認識することができない、と言える。

価値観が多様化した現代において、この価値認識能力の欠如は、致命的と言える。要するに馬鹿だ。

物やサービスの値段は、購入者やサービスの享受者の満足度によって決まる。

他人から見たら高い買い物でも、実際に購入した人が、その値段と物の品質に満足していれば、それは成立する。

それがわかっていない人間は、原価のかからないものに対して料金を請求すると、「タダでやってよ~」とか間抜けなことを抜かす。

それは例えば、プロの絵描きが友人から「タダで絵描いて」と言われるようなものだ。

すべてを原価でしか測れない人間は、他人に不快な思いをさせる。

 

 

まとめ

「価値認識能力」というのは、現代を幸せに生きるためには非常に重要な能力であるが、簡単に身につく能力とは言えない。

この能力は、知識や教養、時事や国際情勢、感受性、想像力など、複合的な知識と能力が組み合わさってはじめて醸成されていく。

なかなか人に教えることは難しい。

だから、私は、いくら非難されようとも、焼き肉でライスを食べ続ける。それが、私にとってもっとも品質の高い食べ方だからだ。他人に理解してもらう必要はないのだ。

 

あと、なんで焼き肉の時はライスっていうのだろうか。