現代ビジネスの好評連載を書籍化した『されど愛しきお妻様』。おかげさまで売れ行き好調ではあるのですが、「奇跡の夫婦の物語」と捉えられてしまったことが残念と同時に、もっと実践的な内容も盛り込めばよかった、と反省。というわけで、どんな「すれちがい」のあるご家庭にも応用可能な超・実践的スピンオフ連載待望の第10回です。
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僕が脳梗塞を起こしたのが2015年の5月だから、あれから3年目の夏が来た。ヒグラシの蝉時雨が朝焼けの窓辺に響く早朝、寝室に入って来たお妻様と入れ違いで、茶の間に降りる。床に落ちているものや、やりっぱなしの何かはなく、お妻様の文机の上に乗せられたプラモの箱に、よっぴき組み立てをしていたんだろうなと思う。猫が床に落とした本など拾いつつ、ロボット掃除機ルンバのスイッチオン。
と、食卓を見ると、ど真ん中に彼女が昨日履いていたホットパンツ。この「ど真ん中に忘れ物」感が、注意欠陥だ。ほほえましい思いをしながらそれを拾って洗濯機に突っ込み、スイッチを入れて僕の一日を始めた。
思えば我が家の家庭改革は、この「茶の間の床」からスタートしたのだった。脳梗塞を起こし、退院直後に始めた。
「家事も仕事もまったくしない妻を支え続けたストレスも、僕が脳梗塞になった一因だと思う」
と訴える僕に対し、担当の言語聴覚士が提案したのは、夫婦で互いに一つずつ「譲れないことのトレード」するところから始めましょうというものだった。
僕の要望は「寝る前に茶の間の床に物が落ちていない状態にしてほしい(朝起きた僕が即掃除機がけができる状態にしてほしい)」。
対するお妻様の要望は「好きな時間に寝て、好きな時間に起きるのを許してほしい」。
とはいえ、実際に退院してみれば僕の抱えた高次脳機能障害は想像以上に厄介で、僕は病前にはほぼすべてひとりで抱え込んできた家事の多くをやれなくなり、あらゆる家事をどうやって彼女と共にこなしていくかを探っていったのであった。
では、あれから3年かけて至った、我が家の家庭運営の内実を書き出してみよう。彼女の担当している家事は、こんな感じだ。
・5匹の猫のメンテナンス。夜のエサやり、定期通院予定の管理、エサ残量の把握、爪切り、トイレ掃除(僕は朝のエサやりとエサの買い出し、トイレゴミの廃棄のみを担当)
・燃えるゴミを小袋に封印する担当(捨てに行くのは僕担当)
・トイレットペーパーや洗剤類など消耗品の在庫量管理(指示を出されれば一緒に買いに行く)・朝食のバナナジュースを作る・乾いた洗濯物を畳んで、定位置にしまう(家の中の洗濯物を集めて洗って干して取り込むのが僕担当)
・料理直前や調理中に気づいた足りない食材を買いに行く(定期買い出しはふたりで行くことがほとんど)・昼食夕食の調理補助(主体は僕)
・生ごみを庭のコンポストコーナーに持っていく(生ごみを廃棄用ボウルにまとめるのが僕担当)
・洗った食器を食器棚に片す(洗うのが僕担当)
・タッパ(プラ製密封容器)を洗う(僕はそれが苦手なので一任)
・税務や各種支払いの事務作業補助(主体は僕)
書き出せばもっとあるが、こんな感じ。書き出した内、朝食のバナナジュースまでは「お妻様が主体になってこなす家事」で、洗濯物から下は僕が主体となってお妻様に手伝ってもらっている家事だ。
もはや我が家に、お困りごとはほとんど存在しないし「明け方まで遊んでいて昼過ぎまで寝ているだらしない妻」だなんて、誰にも言わせない。これだけの家事に加えてお妻様にはゲームの時間、読書の時間、自然観察の時間に服作りの時間(仕事)等々があり、全てに時間感覚がなく何かに注意を持っていかれることで作業が中断しがちな彼女は、もはや1日が24時間ではとても足りていないように思える。
彼女はいまの日々の生活に精いっぱい。がんばっている。正直、夢のようだ。
僕が脳梗塞を起こす前のお妻様は、夕方起きてテレビの前に直行し、せっかく作ってあげたご飯は残して夜中にネットゲームの戦闘音をバリバリ鳴らしながらスナック菓子を食い、僕が朝起きてみればせっかく作った食事は机の上で乾き始め、茶の間の床は脱いだ服やらゲーム機のコントローラーや延長ケーブルが絡まり合って、毎朝毎朝僕はそれをほどいて片すことから一日を始めていた。
「なんでそうなの」と叱責すれば、ストレスで胃痙攣を起こして救急車沙汰である。
せめて、お願いだからせめて、起きたときに床に散らばったものを拾って歩くなんてことはやめたい。そんな切実な気持ちから「譲れないことのトレード」に、朝に物のない茶の間の床を提示した。それからたった3年で、家事が終わらなくて寝るのが遅くなり、それでも頼まれた家事はやり残さずに遂行する彼女にまでなった。
「すごいよお妻様。俺は感無量だよ」
「それはあんた、ラスプーチンの秘密の花園だな」
まあ、もう少し会話が通じる感じになってくれるといいなと思う時はあるよ。今もだけどな。