〇〇を批判するなら××も批判しろ、という言い方・論法には、いくつかの問題があるように思っている。
まず、一つ目。
この言い方は、おそらく「(ほぼ)同一のものA、Bがあった場合に、Aを批判する者はBも批判しなければならない」ことを前提としている。
これはもう価値判断の話かもしれないが、私は、この前提には同意しない。
仮にこれが国家による取り扱いの話だとしたら、国家が不平等な取り扱いをするのは問題だろう。
これに対し、個人の場合、同一のもののうち、一方を批判して他方を批判しない、というのは自由ではないか。
(自由とか言い出したら矛盾や誤りを含めて何を言おうが自由なんだけど、論理的な誤りがないということ。)
一方を否定し、他方を肯定するのはダブスタとの批判を免れないだろうが、他方に対して言及しないのはそう問題がないように思える。
私の立場からすると、AとBがほぼ同一なことを前提に、「Aを批判するなら、Bは肯定しないんだよね?」という問いかけなら許容できる。
逆に上記の前提を肯定するとすると、例えば、ある殺人者を批判した人は、およそあらゆる殺人者を逐一批判しなければならない、ということになるような気がするが、それで良いのだろうか?
二つ目の問題は、AとBについて、批判されるべき事情が(ほぼ)同一か、という問題である。
これは個別のA、Bごとの判断になるが、「Aを批判するならBも批判しろ」といわれているとき、この同一性があやしいように感じることが多い。
そうすると、AとBがどのように違うのか、という点に議論がシフトしていき、本題である「Aは批判されるべきか」という話がどっかに行ってしまうことが多いように思える。
例えば、三億円事件の犯人を批判してる人がいたとして、「じゃあジャンバルジャンも批判するんだな?」とか「カリオストロのルパン3世も批判するんだな?」と言うような。
場合によっては、AとBの違いが議論されることで、隠れた前提や差別意識が明らかになったりすることもあるのかもしれないが、ほとんどみたことはない。
ニセ科学批判における優先順位問題(http://www.cml-office.org:8080/official/pseudoscience/ps-comments/QandAandComennts)としてよく出てくる話
自分が対象を気に入らないだけなのに、正論を武器に排斥しようしてる人はそう言われてもしょうがねえんじゃないかなと思う
それによって批判が容易な問題や金になる問題ばかりがクローズアップされることをなんの問題だと思わないのであれば 批判的知性の敗北としかいいようがないですね
ケースバイケースだが、一ついえるとすれば、権力者や権威者の問題と一般人の問題であれば、権力者や権威者のほうの問題を重視すべきだというのが民主主義の常識ってことだろうな