釣魚列島(「尖閣列島」)などは中国領である
2010年 09月 29日
歴史学者井上清氏の1973年の論文
[北京5月3日発新華社=中国通信]東京からの報道によると、日本の歴史学者井上清氏は日本の進歩的刊行物「日中文化交流」二月号に、「釣魚列島(「尖閣列島」)などは中国領である」と題する論文を発表し、多くの歴史的事実を挙げて、釣魚島などの島嶼が中華人民共和国の領土であることを立証している。この論文は、全文次のように述べている。
一
日本でいま尖閣列島とよび、日本政府が領有権を主張している島々は、歴史的には明確な中国領であり、1894-95年の日清戦争で日本が勝ち、台湾と澎湖島などを清国から奪いとったときに、これらの島々も奪いとって日本領とし、沖縄県に編入したものである。したがって、台湾、満州そのほか日清戦争とその後に日本が中国から奪った領土は、すべて中国に返還されねばならないという、第二次大戦中の中国と米国と英国のカイロ宣言、および、そのカイロ宣言の条項は実行されると定めた連合国の対日ポツダム宣言を、無条件に受け入れて、日本が中国をふくむ連合国に降伏したときから、台湾が自動的に中国に返還されたのとまったく同様に、これらの島々も自動的に中国領になっている。したがって現在は、それは、全中国の唯一の政権である中華人民共和国の領土である。
しかし、日本の反動的支配者と軍国主義勢力は、アメリカ帝国主義と共謀して、尖閣列島は日本領だとさわぎたて、国民大衆を軍国主義と反中国の大旋風の中にまきこもうとしている。その大旋風は、本年5月15日、米軍からいわゆる「沖縄の施政権」を返還された後には、必ずやいっそう強化されるであろう。私たち、真に日本民族の独立と日中友好アジア平和をかちとろうとするものは、米日反動のこの大陰謀を、早いうちに打ち破らねばならない。そのたたかいの一つの武器として、以下に、いわゆる尖閣列島の歴史的沿革について略述する。くわしい専門的歴史学的考証は、雑誌「歴史学研究」本年二月号の私の論文を見られたい。
二
いわゆる尖閣列島とは、中国でおそくも十六世紀の中ごろには、釣魚島(釣魚嶼、釣魚台)、黄尾嶼等として文献に記載された島々である。1532年、明の皇帝が当時の琉球の支配者尚清を琉球中山王に封じたさい、その使者-冊封使-陳侃が、福州-那覇を往復した。その「使琉記」によれば、彼の船は1532年5月8日、閩江の江口を出帆して、まず、台湾の基隆を目標にして南南西に航し、その沖あいで多少北寄りの東に転じ、5月10日に釣魚嶼のそばを通った。その日記に次のようにある。
「十日、南風が甚だ早く、船は飛ぶように進む。・・・たちまちのうちに平嘉山(いま澎佳礁)を過ぎ、釣魚嶼を過ぎ、黄尾嶼(いま黄尾嶼)を過ぎ、赤嶼(いま赤尾嶼)を過ぎた。十一日夕、古来山(いま久米島)を見る。この島は乃ち琉球に属するものである。使船に乗組の夷人(琉球人)たちは、船上で鼓舞し、家郷に達したことを喜んだ。」
中国皇帝の琉球冊封使は、1372年に初めて派遣され、それ以来陳侃の前までに十回もの冊封使が、福州・那覇間を往復している。その往路は陳侃の通ったのと同じく、基隆、澎佳、釣魚、黄尾、赤尾を次々と目標とし、久米島に至り、慶良間列島をへて那覇に入港する(復路は久米島からほとんど真北に航するので、釣魚列島は通らない)。それゆえ陳侃以前の冊封使の記録があれば、それにも必ず釣魚島などのことが出ているだろうが、残念ながらその記録は現存しない。陳侃の使録が現存の最古である。それに釣魚島などの名が何の説明もなく出ているのをみれば、ずっと以前からこれらの島の所在は知られており、そこに中国名がつけられていただけでなく、航路目標として現実に利用されていたことがわかる。
さらに陳侃の使録で重要なことは、彼が中国領福州から出て中国領のいくつかの島々を通り、久米島に至ってはじめてこれを「乃属琉球」と書いていることである。久米島から先が琉球であると特記するのは、その手前は琉球領ではないことを明確にすることでもある。
陳侃の次の冊封使郭汝霖は、1561年5月29日に福州を出ているが、その使録「重編使琉球録」には、「閏5月1日、釣魚嶼を過ぎた。3日、赤嶼に至る。赤嶼は琉球地方を界する山である(赤嶼者界琉球地方山也)。あと一日の順風があれば、久米山を望むことができるであろう」とある。すなわち、陳侃が、久米島から琉球領だと書いたのを、郭は、赤尾嶼が琉球地方と中国領の界だと表現したのである。
以上の二つの文献によって、久米島から先が琉球領、その手前の赤嶼から以西は中国領であることがわかる。ところが、国土館大学の国際法の助教授奥原敏雄氏は、陳・郭二使録は、久米島から琉球領にはいる。それまでは琉球領ではないと言うだけであって、赤尾嶼から以西が中国領であるとは書いてないから、それらは無主地であったのだ、と主張する(同氏「尖閣列島の領有権と『明報』論文」、雑誌「中国」71年9月号)。
この主張は、中国の古文を、現在の国際法の条文を解釈するのと同じ流儀で解釈し、へりくつをこねているにすぎない。なるほど、陳・郭二使は、赤嶼までは中国領だと明記してはいないが、中国の福州から出航し、中国領であることは自明の台湾の基隆沖を通り、やはり中国領であることは自明の澎佳礁を通り、ついで釣魚、黄尾をへて赤尾嶼に至り、これが琉球との境だと書き、または久米島を見て、これが琉球に属す、と書いているのだから、この中国文の文勢、文脈は、台湾・澎佳から東に連なる、釣魚、黄尾、赤尾の諸島も、中国領であると意識していることは明らかではないか。
奥原氏はまた、陳・郭の使録は現存する使録の最古であって、これ以後の使録には、両書のようなことは書かれていない、といい、そんな古いものにだけ書いてあることは、現在の問題を論ずる資料として価値がない、という。これもりくつにならないし、事実にも反する。陳・郭以後の使録でも、1719年、清の康煕58年の冊封使徐葆光の使録「中山伝信録」には、程順則という琉球の当時最大の学者が著わした「指南広義」(1718年著)を引用し、福州から那覇に至る航路をのべ、久米島について、「琉球西南方界上鎮山」と書いている。「鎮」とは、国境、村境などのじづめのことである。
また「中山伝信録」は、琉球の領域をくわしく列挙しているが、その領域は沖縄本島と琉球三十六島であって、その中に赤尾嶼以西は加えていない。それどころか、八重山群島の石垣およびその周辺の八島を説明した終わりに、この八島は、「琉球極西南属界也」と書いている(釣魚に最も近い琉球の島は、八重山群島の西表島である)。
「中山伝信録」は、大学者程順則をはじめ、多くの琉球人の著書および徐葆光が琉球で会談した琉球王府の高官たちの言にもとづいて、書かれたもので、その年に久米島および八重山群島について上のように書かれていることは、これが当時の中国人だけでなく、琉球人の認識でもあったことを意味する。
さらに、徐葆光の前、1683年の冊封使王楫の使録「使琉球雑録」には赤尾嶼を過ぎた所で、海難よけの祭をすることをしるした中で、この所を「郊」または「溝」とも書くが、ここは「中外之界也」、中国と外国との境界だと明記している。この場合は、奥原氏が望むとおり、中国領と琉球領との境ということを、文字面でも明確にしているわけである。
以上によって、琉球領は久米島以東であり、赤尾嶼以西、黄尾嶼、釣魚嶼が中国領であることは、おそくとも16世紀の中ごろから以後は、明確に定まっていたことが明らかである。これを打ち消す、あるいは少なくともこれに疑をはさんだ、琉球側ないしは日本人の記録文書は一つもない。また文献にはなくても、琉球人が早くから釣魚島や黄尾嶼と往来していたという口伝もない。風向きと潮流の関係で、琉球から釣魚のほうへは逆風逆流になり行くのはきわめて困難である。19世紀の中ごろ-日本の幕末期-には、釣魚島はヨコン(またはヨクン)、黄尾嶼は「久場島」、赤尾嶼は「久米赤島」として、琉球人に知られていたことは、中国の最後の冊封使の記録によりたしかめられるが、そのことは、この地の帰属問題に何らの影響を及ぼすものではない。なお、林子平の「三国通覧図説」の琉球国の一部は、地図も説明もまったく中山伝信録によっている。中山伝信録は早くから日本に伝わり、日本の版本もあるほどで、江戸時代後期、日本人の琉球に関する知識の最大最高の源泉であった。
三
明治維新の後、1872-79年(明治5-12年)に、天皇政府はいわゆる「琉球処分」を強行し、数百年続いた琉球王国を亡ぼし、ここをそれまでの島津藩の植民地から天皇制の植民地として、沖縄県と名づけた。その区域がもとの琉球王国領の範囲をこえるものでないことはいうまでもない。
琉球が沖縄県とせられた年は、この地の領有権をめぐる清国と日本との対立が頂点に達した年でもある。1609年島津氏が琉球王国を征服してここを植民地的属国としたが、しかも歴代の琉球国王は、中国の皇帝、初めは明、後には清の皇帝に臣属してその冊封を受けていたので、清国からみれば、琉球全土はその一種の属領であるとして、日本に対抗して領有権を主張し得たのである。
日清間のこの琉球領有権争いについて、当時の日本の民主革命派は、琉球が日本に属するか、清国に属するか、あるいは独立するか、それはすべて琉球の自決にまかせるべきであり、琉球の人民が独立を欲するなら、日本は率先してその独立を承認し支援して、大国が小国を侵すべきでないという原理を、ひろく世界に示すべきである、それが、西洋列強からの日本の完全独立をかちとる道でもある、と説いた。この思想は、現在のわれわれも受けつぎ発展させるべきではないか。
それはともかく、日清間のこの争いを、アメリカの前大統領グラントが、個人として調停し、日清両国の交渉となるが、そのさい、中国側は、琉球三分案、すなわち奄美群島(ここも島津の琉球征服までは琉球王国領であった)は日本領、沖縄本島とその周辺は独立の琉球王国領、南部の宮古、八重山群島は中国領とすることを提案した。これに対して日本は二分案、沖縄群島以北は日本領、宮古・八重山群島は中国領とする案を出した。この日清いずれも、むろん釣魚群島は琉球のそとであるから交渉の対象にはなっていない。
つまり清国が妥協して1880年9月、日本案による琉球二分条約に、日清両国の全権代表が調印した。しかし清国皇帝がこれを批准せず、なお対日交渉をつづけるようその政府に命じたので、日本側は交渉を打ち切った。その後1882年、竹添進一郎が天津領事として赴任したさい、清国側と琉球分界の交渉を再開するが、妥協せず、そのまま本問題は、日清両国政府とも放任して日清戦争に至る。
つまり、維新後の日清戦争前には、日本側も釣魚島などの領有権を主張するとか、清国の領有に異議をとなえるとかは、思いもおよばなかった。世界中だれもが、清国領であることは自明としていた。
この間、1884年(明治17年)、福岡県出身で1879年以来那覇に住み、海産物の採獲と輸出を業とした古賀辰四郎が、釣魚島に「あほう鳥」が群がるのに目をつけ、人を派遣してその羽毛と付近の海産物を採獲させ、それより年々その業をひろげた。そして彼は、1894年すなわち日清戦争開始の年(何月かはっきりしない)沖縄県庁に、釣魚島における事業のための借地願を出した。ところが、後年(1910年)古賀の功績をたたえた「沖縄毎日新聞」の記事(1910年1月1日-9日)は、古賀の借地願を県庁は、「当時同島の所属が帝国なるか否か不明確なりし故に」、許可しなかった。そこで古賀は上京して内務、農商務両大臣に直接に願い出で、かつ面会して島の状況をのべ、懇願したが、やはり、この地の帰属が「不明確」であるとの理由で許可されなかった。
「時に27・8年の戦役(日清戦争)は終局を告げ、台湾は帝国の版図に帰し、29年(1896年)勅令第13号を以て尖閣列島が我が所属たる旨を交付せられたるにより」古賀はただちに沖縄県知事に借地願を出し、同年九月に初めて認められた。(同上)
これは決定的に重要なことである。古賀が釣魚島の借地を沖縄県および中央政府に願い出たのが、1894年の、日清戦前か後かはわからないが、そのときはまだ県庁も中央政府も、同島の帰属不明としたというが、もし日本政府がここを国際法的に無主地と認めていたら、古賀の願をすぐ許可しない理由はない。帰属不明ではなくてここが清国領であることは明らかであるから、日本政府は古賀の願いを許すわけにはいかなかったのである。
そして、日清戦争に勝利した結果、澎湖島、台湾、およびその付属の諸島嶼を、日本は清国から奪い取った。そのさい、台湾と琉球との間に連なる中国領の釣魚島、黄尾嶼、赤尾嶼等も、日本領としたのである。
上の引用文に、1896年(明治29年)勅令第13号で、「尖閣列島」が日本領になったとあるが、この勅令は三月五日付けであり、その内容は沖縄県の郡編成に関することであり、釣魚島などを沖縄県に編入するとは全然書かれていない。琉球政府が一九七〇年九月に出した「尖閣列島の領有権および大陸棚資源の開発主権に関する主張」は、これらの島が「明治28年1月14日の閣議決定をへて、翌29年4月1日勅令第13号にもとづき日本領土と定められ、沖縄県八重山郡石垣村に属せしめられた」というが、勅令第13号は前記のとおりである。あるいはこの3月5日の勅令第2条に基づき、八重山郡の境界を変更する内務大臣の命令により、釣魚島等が、4月1日付けで同郡石垣村につけられたのであろうか。
また上にいう1895年1月14日の閣議決定とは、どんな文言の決定なのか、またその決定実行が日清戦争終結、講和条約発効(1895年5月)台湾等を現実に日本が引取って(6月)からさらに10カ月後になったのはなぜか、これらのてんはまた私も調べがついていないが、すでにまったく明確なことは、釣魚島等は、前記の「沖縄毎日新聞」も関連させているとおり、日本が日清戦争で台湾等を清国から奪いとったとき、その一連の清国領割き取りの一部として、はじめて日本領とされた、ということである。
四
そしてこれらの島を尖閣列島とよぶようになるのは、この4年後の1900年、沖縄県師範学校教諭黒岩恒が、釣魚島を探検調査し、釣魚、赤尾の両島とその中間の岩礁群を総称して、尖閣列島と名づけ、そのことを「地学雑誌」第12輯第140-141巻に「尖閣列島探検記事」として発表してから以後のことである。黒岩がこの名をつけたのは、当時行なわれていたイギリス海軍の海図と水路誌に、釣魚と黄尾の間の岩礁群を、その形状により Pinnacle-groupとよび、そのイギリス名を訳して日本海軍の水路誌も、「尖閣諸嶼」と名づけており、人によっては「尖閣群島」とも訳していたのに示唆され、釣魚島の形も、岩山が屹立(きつりつ)しているので、釣魚島および尖頭諸嶼と黄尾嶼の総称を、尖閣列島と名づけたのである。
ここで注意すべきは、黒岩が名づけ、いま日本政府が日本領だと主張している尖閣列島には、赤尾嶼ははいっていないということである。日本政府は、おそらく赤尾嶼の日本領であることも自明であるとし、中国との間でたまたま問題になったのが釣魚島であるので釣魚島を代表とする「尖閣列島」のことのみを言い、赤尾嶼のことは、だまっておし通せるものならおし通そうということである。
しかし、赤尾嶼は、地理的には釣魚島、黄尾嶼と一連の中国大陸棚の縁辺の島であり、歴史的には釣魚島などと同じ時期から、そのつづきの中国領の島として認識され記録されていたことは、すでにくわしくのべたとおりである。だから、日本のいう「尖閣列島」にのみ関心を奪われ、赤尾嶼を忘れるようなことがあってはならない。そのためにも、尖閣列島という、日本軍国主義が中国から奪い取った後につけた名前は用いないで、歴史的に唯一の正しい名称、釣魚島を代表とし、それより東は赤尾嶼にまで至る一連の島という意味で、これを釣魚列島または釣魚群島というほうが、軍国主義反対の日本人民の立場からしても、正しいよび方になる。
釣魚群島の歴史的沿革が以上のごとくであるからには、それの現在の帰属は、本文の初めにのべたとおり、中華人民共和国に属するという以外に歴史学的結論はありえない。
(いのうえきよし・京都大学教授歴史学)
ねじ曲げようと、扇動に利用しようと、やがて、おさまる本来のところにおさまるだろう。
この論文を読んでいたおかげで、今朝の赤旗日曜版の一面トップ記事『尖閣諸島は日本の領土です』には、その意図が見え見えで、日本共産党のあわれな末路を見た。