ハッピーエンドしか許されない 作:アセロラ☆
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テンションが上がりすぎて超長くなってしまった笑
本日三話目。これにて書き貯めが尽きたので少し更新速度が遅くなるかもしれない。それでも一日一話は更新するつもりですけど。
前回見ていない人は気を付けてください。
後、長すぎて自分でも自信が無いです。誤字脱字が多いかも。あと矛盾してるところもあるかもです。
「だから、ベティーは決めたのよ……!」
答えが持ち帰られる前に、屋敷の中を『死』を伴う暴力が吹き荒れるのを感じた。
そして、その原因がどこにあるのかを悟ったとき、今度こそベアトリスは自分が運命に見放されたことを理解したのだ。
「母様との、約束は破らない。……でも、これ以上、空っぽの時間を過ごすことなんて何の意味もないかしら!」
『その人』は絶対に訪れない。でも、待つことはやめられない。
それならば、ベアトリスが『待つ』という選択肢を、誰かに奪われる他にない。
そのためになら命を奪いにくる誰かにそれを差し出すことも厭わない。
できるのならば、その役目を、ほんの僅かばかりでも託そうと思える誰かであったのなら、最後の最後でささやかな願いは叶ったと信じることもできる。
だから、少年が──ナツキスバルがこの夜、禁書庫の扉を開け放ったとき、ベアトリスの心には言葉にし難い感動が吹き荒れていた。
何一つ、ベアトリスの心を救おうとしてこなかった運命というものが、ベアトリスに対して初めて何かを報いてくれた瞬間に思えたからだ。
彼の手で、命を奪われて約束を反故にされるのなら、それも──。
「お前を連れ出すぜ、ベアトリス。──今度こそ、お前は俺の手で太陽の下に引きずり出されて、そのドレスを泥だらけにして真っ黒になるまで遊ぶんだ」
──彼は急に、何を言い出したのだろうか。
「余計なお世話かしら。誰もそんなことお前に頼んじゃいないのよ」
意味がわからない。何を言っているのか。
だって少年はこれまでに一度だって、『その人』らしい振舞いなんてしてこなかった。ベアトリスの預言書を奪って、「待たせたな」なんて声をかけてくれたことはなかった。
「白紙の本と、四百年前の口約束にいつまでも振り回されてんじゃねぇ。──お前のやりたいことは、お前が選べ、ベアトリス」
「────」
──なのにどうして今さら、少年は覚悟を決めたベアトリスの心を掻き乱すのか。
終わりを迎えるのだと、そのことばかりを考えていた。
戻ってきた少年を見て、彼の手で終わらせるのだと、そんな期待を抱いていた。
それなのに少年は、ベアトリスの抱いた希望とは違う形の未来を見せようとする。
そんなことは、望んでいない。
そんなものを望む心は、四百年という時間の中でとっくに擦り切れた。
「お、前が……『その人』だったら……」
そうであったはずなのに、憤慨を隠さない少年の声を聞くうちに、ベアトリスの心の中に変化が生まれてしまった。
雪解けの季節に花々が芽吹くように、眠っていた感情が震えながら顔を出す。
それを言ってしまえば、取り返しのつかないことになる。
四百年間、ベアトリスを縛り続けてきた母親の言葉への執着をなくして、今度はまったく別の新しいものに縋りついてしまう。
そうわかっていながら、ベアトリスは、決定的な言葉を──、
「ベティーの、『その人』に、なってくれるの?」
「馬鹿か、お前。──俺がお前の『その人』なんてわけのわからない奴のわけねぇだろ」
口にした瞬間、馬鹿にするような顔をした少年に芽吹いた期待が裏切られた。
その後は、怒りに任せて少年を部屋から追い出してしまい、よく覚えていない。
しかし、自分が取り返しのつかないことを口にして、取り返しのつかないことになる前に鎮火したことだけは自覚があった。
「────」
あれでは、自分は何という道化なのか。
あれでは、ただ守り続けてきた母の言いつけを裏切っただけだ。裏切りはしかも実を結ばずに拒絶されて、ベアトリスの誓いはひどく安っぽいものへ成り下がった。
「もう、疲れたかしら」
ならばもう、後のことは決めていた通りになればいい。
あの少年の手にかかろうなどと、考えたことがそもそもの間違いだ。あれは誰かのために手を汚せるような、そんな潔い心の持ち主ではない。
ベアトリスと同じように、うじうじとつまらないことに悩んで、優柔不断に何も決めることができず、散々言い訳を重ね続ける弱い心の持ち主だ。
だから、ベアトリスを終わらせる『死』は、もっと別の形で──。
「やっと戻れた! おい、馬鹿。話の途中で追い出すんじゃねぇよ。いいからちゃんと最後まで……!」
「────っ!」
「─くそっ」
考え事に割り込むように、少年が再び乱暴に禁書庫に飛び込んできた。
何事か口にしようとする少年を見た瞬間、感情を沸騰させてベアトリスは魔力波を放って少年を吹き飛ばす。
耐え切れずに禁書庫の外へ飛び出し、音を立てて扉が閉まるのを見届ける。
完全に話し合いは決裂、それも向こうの致命的な一言で終わったというのに、なんという図々しい精神性なのか。
あんな発言をしておいて、ぬけぬけと顔を出せる根性がベアトリスには理解できない。
苛立ちを堪えるように小さな胸に手を当て、ベアトリスは吐息をこぼし──、
「いい加減にしろ! ガキの癇癪か! すぐ暴力に訴えてたら話が進まね……」
「お前がいい加減にするのよ!」
「─うわっ」
手加減抜きに頭を撃ち抜き、そのまま胴体にぶち込む魔力波の二段構え。
悲鳴を上げて転がり、扉の外の壁に頭をぶつけて少年が悶絶するのを確認して、再び禁書庫と通路は隔絶される。
信じられないしつこさだった。
諦めることを知らないのか、それとも自分の無神経な言葉がどれだけベアトリスの心を抉ったのかに自覚がないのか、とにかく少年は『扉渡り』の別れを拒み続ける。
「……冗談じゃ、ないかしら」
忌々しげに呟いて、ベアトリスは部屋の奥から脚立を引きずり、扉の正面にいつものように陣取って、預言書を抱きながら扉を睨みつける。
──あの少年はまた、あの扉を押し開きにくるだろう。
身勝手な理屈と、こちらの気持ちを考えない感情の押し売りに、必ず現れる。
何度でも、何度でも、拒絶を重ねて追い払おう。
お前は、『その人』ではないのだから。
ベアトリスを連れ出す権利を、彼は自ら放棄したのだから。
だからベアトリスは決して、連れ出されてなどやらないのだ。
自分はここで、果たされない約束と共に終わればいい。
そうすることが、今のベアトリスにとって唯一の救いなのだから。
✣✣✣
吹っ飛ばされて部屋から追い出され、壁に激突して息が詰まる。
ベアトリスの説得が失敗してから、禁書庫へアタックを仕掛けて拒絶されること都合六度目。短期間でぶちのめされ続けたおかげで、見えない攻撃に対する受け身の取り方が上達している気がする。
代わりにベアトリスの方の魔力波の一撃も、スバルが大事に至らない限界を見極めつつあるようで、決して油断ならない状況ではあった。
「なんて、馬鹿な技術磨いてる場合じゃねぇよ、クソ! 話が通じねぇ……っ」
袖で汗を拭い、スバルは膝を叱咤して立ち上がる。
血を流したり折れた骨などのせいで体力も浪費している。疲労困憊で目が霞み、気力だけを支えに体を動かしているのが実情だ。
「そろそろ、本格的に火の回りがやべぇ……」
姿勢を低くして、首を巡らせるスバルは視界が悪い理由が疲労だけでないことに舌打ちする。
恐らく、ラムたちが巨大な魔獣を始末する際の出火が原因で、屋敷全体が炎に包まれつつあった。
すでに本棟の階下はほとんどが火の手に覆われており、西棟と東棟の方からも黒煙がたなびいているのが見える。
延焼する炎のおかげで屋敷の中にいた魔獣の多くが逃亡したらしく、駆け回るスバルの道を妨げる化け物の存在はない。ただ、建物の中の温度は加熱の始まった焼き窯のような有様で、流れ出る汗が端から蒸発し、炙られる肌が今にも焦げそうな状態だった。
遠からず建物の崩壊が始まり、スバルの命運も炎の中に尽きる。
そうなる前に、目的を果たしてベアトリスとここから逃げ出さなくてはならない。
それなのに、肝心要のベアトリスの心は頑なに閉ざされたままだ。
「屋敷が燃えてるおかげで、ドアの候補が減ってるのは助かるっちゃ助かるが……」
大火の影響でプラスに考えられるのは、せいぜいがその部分ぐらいか。
禁書庫と繋がる『扉渡り』の効果は、屋敷の中の機能する扉にのみ発揮される。つまるところ、開かれた扉や焼け落ちた扉は『扉渡り』の対象外。
屋敷の焼失が進めば進むほどに、禁書庫へ通じる扉の候補は少なくなる算段だ。
「そうは言っても、扉が減る前に俺が蒸し焼きになる方が早ぇ」
それに、屋敷の扉が全て焼け落ちてしまった場合のことも考えたくない。
ベアトリスの『扉渡り』が、具体的にどういった形で空間と空間を繋げているのかは把握していない。あるいは屋敷の焼失は、ベアトリスの禁書庫を永遠に亜空間へ切り離すことに繋がるのやもしれなかった。
息を大きく吸い、スバルは地面を這うような低い姿勢で走り出す。
弾き出された扉は開けたまま、次なる扉を求めて、黒煙を払いながら屋敷の奥へ。
建材が焼け、燃え盛る炎の中で何かが弾ける音が鼓膜を叩き続ける。
肌が炙られ、高温の大気が目を焼こうとするのに顔をしかめて耐える。
鼻から忍び込む煙に咳き込みそうになりながら、まだ開かれていない扉を見つけて飛びつくようにドアノブを掴んだ。
熱されたドアノブは高温を発し、掴んだスバルの掌を容赦なく焦がす。すでに掌の皮は幾度もの火傷でべろんべろんだ。苦痛に奥歯を噛みしめるのも慣れたもの。
痛みにこめかみを鋭く貫かれる感覚を味わいながら、蹴り破るように扉を開けた。
「────」
飛び込み、古い本の臭いに包まれる部屋へと転がり込む。
大きく口を開けて息を吸い、仰向けの状態で暗がりの天井を睨みつけた。
慣れた大気と、肌を刺す怒りの気配──他でもない、禁書庫だ。
「またお前は、性懲りもなく……!」
「はぁっ! 当たり前、だろうが! 何度でも、俺はお前をさらいにくる。それが嫌なら今度こそ連れ出されろ! そうすりゃ、このやり取りもこれが最後だ!」
「減らず口はもうたくさんかしら! 屋敷が燃えてるのは知っているのよ! 今すぐに外へ逃げなくちゃ、お前も火にくるまれて焼け死ぬだけかしら!」
跳ねるように体を起こし、荒い息をつきながらベアトリスを睨みつける。
少女は脚立に座ったまま、丸い瞳を精一杯つり上げてスバルへの激情を露わにしていた。
一瞬、その瞳の端にささやかな感情が走り、ベアトリスは唇を震わせる。
「それとも……お前は屋敷やベティーと一緒に、焼け死ぬことを選ぶというの?」
「馬鹿か! これだけ言ってもまだわからねぇのか! 俺はお前と一緒に死んでやるつもりなんか欠片もねぇ! 俺は、お前を死なせずに連れ出しにきてんだよ!」
「──ッ! どこまでも、本当に勝手な奴かしら! とっとと、出ていけ!」
立ち上がり、スバルは書棚に飛びついて魔力波の最初の一発をやり過ごす。
全身に暴風が叩きつけられる感覚と、生気をごっそりと奪われるような第二波。見ればベアトリスは左手を天井へ向け、苦しげに顔を歪めて無理やりに笑みを作っていた。
「強制的にマナを奪ってやったのよ。お前、一体どれだけのマナを保有していたのかしら」
「─ってめぇ」
「棚を掴む指が緩めば、それでしまいなのよ。もう、ベティーに構うんじゃないかしら!」
膝が落ちかけた瞬間、魔力波の第三波がスバルの体を正面から殴りつけた。
見えない空気の壁に激突されたような衝撃を受け、体を支え切れずにスバルは再び扉の方へと押しやられる。そのまま転がり、部屋の外へ飛び出しかけるのを、
「ぬ、んぐ!」
転がる体の手足を伸ばして突っ張り、弾き出されかけた体を扉へ引っ掛ける。
激突した手足に激痛が走り、特に腕は折れるかヒビの入った感覚があったのが経験則から理解できた。それを、歯を食いしばって強引に無視。
「な──っ」
「こんだけ繰り返しやられてりゃぁ、俺でもちったぁしのぎ方を学ぶってもんだ。俺の努力に免じて、そろそろ話を聞く気になってきたかよ?」
「お前とベティーの話す機会は終わったのよ。お前が自分で、お前の方から踏みにじったかしら……それが、どうしてわからないのよ!」
「わからねぇさ。実際のところ、そう仕組んでるのはお前の方でもあるんじゃねぇか?」
扉に手をかけて立ち上がる、切った唇から滴る血を拭いてスバルは言い捨てる。
その言葉にベアトリスが無理解を示すように眉を寄せるのを見て、苦笑が出た。
「何が、おかしいっていうのかしら」
「俺の連続アタックも、どうやら無駄じゃねぇみたいだってのが確認できたからな。本気で俺を拒絶するなら、生易しい真似しないで俺を吹き飛ばせよ。その力がお前にはあるだろうが。その方がずっと、手っ取り早いぜ」
「……ベティーに、お前を殺せだなんて」
「できないよな。今のは俺が意地悪かった。悪い。でも、お前が本当に俺を拒絶するっていうなら、もっと簡単な方法がお前にはあるはずだ」
以前にも、ベアトリスは泣きそうな顔でスバルを殺すことを拒否した。
彼女のそのときの心情や理由まで、スバルは触れられる段階に至っていない。だから推測するだけだ。そうできなかった理由を、スバルの知る彼女の過去の断片と掛け合わせて。
その上で今の問いかけを行うのだから、本当に自分の底意地の悪さには呆れが出る。
でも、そうでもしなければベアトリスは気付いてくれないだろう。
自分の行いと思いと、スバルがここにいることの矛盾に。
「本気で俺の顔が見たくないなら、禁書庫にこもれよ、ベアトリス」
「何を……お前は……っ。現に、ベティーはこうして禁書庫から一歩も出ちゃいないのよ。それなのに、お前が勝手に押し入ってくるから……!」
「いいや、違うね。お前が本気でここに一人でこもるつもりがあったら、俺が短期間でこんなに何回もここに辿り着けるもんかよ。お前の拒絶は、上っ面だけだ」
「それは! お前が……そう、お前が『扉渡り』の破り方を実践してるからかしら。それに屋敷が燃えてて、扉の数も減ってるから……」
口ごもり、ベアトリスの拒否の言葉が徐々に尻すぼみになる。
スバルの言葉を受けて、彼女も自分の心を疑い出しているのだ。それでなくても今のベアトリスは、四百年もの時間を耐え抜いてきた支柱を失い、揺らいでいる状態だ。
もはやスバルの言葉が正しいのか、自分の感情が正しいのかわからなくなっている。
「────」
スバルにだって、実際のところはわからない。
自分がこうして、ベアトリスの禁書庫に躊躇いなく短期間で辿り着ける理由など。
屋敷の扉が焼失し、選択肢が減っているからかもしれない。
あるいはスバルの秘められた陰属性の力が火事場の馬鹿力を発揮して、ベアトリスの『扉渡り』をことごとく看破しているのかもしれない。
本当にスバルの言う通り、ベアトリスが本心ではスバルを拒絶しきれていないから、『扉渡り』の門戸がスバルに開かれているのかもしれない。
最後であればいいなと、スバルは期待し願っている。
だが、事実がどうであっても関係ない。今ここに、ベアトリスを連れ出せるかもしれない可能性に、ナツキスバルが届いていることが必要なのだ。
「お前は……お前は! ベティーの『その人』じゃない!」
耐えかねたように、ベアトリスはスカートの裾を掴んで声を張り上げた。
頭の中を駆け巡る思考を放棄し、ベアトリスは泣くようにスバルに訴えかける。
「お前が違うとそう言ったのよ! お前が……お前が違うって、そう言ったかしら。お前が『その人』だったら……嘘でもそうだって言ってくれたら、きっとベティーはそれを信じられた。嘘だとわかっていても、信じるしかなかったのよ」
「ベアトリス……」
「でも、お前は違うって言ったかしら。違うって、馬鹿かってそう言ったのよ。ええ、そうかしら。その通りなのよ。ベティーは馬鹿で、大馬鹿で、四百年も前に交わした口約束が今も忘れられないから……だから! 何を言われてももう終わりかしら!」
拒絶を選び、叫ぶベアトリスの周囲を見えない風が取り巻いている。
魔力の奔流が少女のドレスを、長い髪を風に乗せ、不穏の空気が禁書庫に張り詰める。これまでで、最大の風が吹き付ける前兆をスバルは感じ、手加減抜きの一撃を浴びることへの恐怖が総身を震わせた。
後ずさり、扉の向こうに逃げてしまいたくなる怯える心。
それをどうにかねじ伏せて、切れた唇をさらに噛み切ってスバルは前を向く。
伝えなくてはならないことを、伝えるために。
「俺は……」
「────」
「俺は、お前の『その人』なんかじゃない。何度だって言ってやる。お前が待ってた白馬の王子様なんてきやしない。最期の瞬間までここにいても、絶対に!」
「──ッ! それなら! ベティーはここで、朽ちるだけなのよ!」
「それはダメだ。その選択は選ばせねぇ。お前が心変わりするまで、俺が何度でも言いにきてやる。『その人』はこない。約束は、守れない。──でも、お前は死なせない」
「お前なんか……大嫌いかしら!!」
言い切った直後、ベアトリスの感情が爆発する。
その瞬間、練り上げられていた魔力の奔流が一つの目的に従って姿を変え、白い光がスバルの目に映る世界を染め上げた。
風を浴びたと、そう感じる隙間すらない。
突き抜ける衝撃波がスバルの体の正面から背中までを打ち据え、臓器という臓器が掻き回される。全身の血液が逆流し、毛穴から何もかもが絞り出されるような痛苦。
目が回り、平衡感覚がなくなり、圧倒的な浮遊感を味わい、音も臭いも光も感じられなくなる。あるいはこれを人は臨死の感覚というのかもしれない。
──しかし、ナツキスバルは知っている。
「──どうしたよ」
内臓が口からはみ出しそうな嘔吐感を堪えて、弱気を悟られないよう声を出す。
足裏に世界があり、それを意識した途端に体の感覚が徐々に戻ってきた。手足があり、頭があり、内臓は口からはみ出ていないし、魂が器を抜け落ちてもいない。
つまりはなんだ。いつも通り、死にかけただけだ。
これが『死』でないことぐらい、ナツキスバルは熟知していた。
「嘘、なのよ……」
ぼやけて、定まらずに揺れ動く視界。
どうにか書庫の中だと把握できる程度に焦点の合いつつある世界で、正面にいる少女が自分の両手を信じられないものでも見るように見つめていた。
ベアトリスだ。
彼女にも、スバルが死なず、原形を留めていることが不可解でならないのだろう。
何も不思議なことはない。スバルには、こうなることはわかっていた。
ベアトリスに、スバルを殺せるはずがない。
「ベアトリス……」
「────」
朦朧としている意識。どうにか、途切れかけの精神を根性で繋ぎ止める。
目の前で少女が揺れている。だけど、拒絶しきれなかった自分を理解できない顔で、ボロボロのスバルを見て怯えている。
だから、今なら声が届くと思ったから、なけなしの意識を掻き集めて、言う。
「俺、は……お前の……『その人』じゃ、ない……」
「…………」
「でも」
何度も重ねた否定の言葉に、ベアトリスが泣きそうな顔をする。
そのまま、話が終わってはこれまでの繰り返しだ。そうなる前にスバルは、ベアトリスが感情を膨らませ切る前に、言葉を吐き出す。
「俺は……お前と一緒にいてやりたいよ、ベアトリス」
「────!」
「優しいお前が、悲しくないように、傍にいてやりたいよ」
「ぁ……う、ぐ……っ」
ベアトリスの表情が歪む。
それは怒りを堪えているようでも、涙を流すのを堪えているようでも、何か例えようのない感情を表に出さないようにしているようでもあった。
ただ、ベアトリスは言葉を呑み込み、荒い息を吐き、脚立に置いていた本をとる。ページをめくり、乱暴にめくり、指先が紙をくしゃくしゃにして、小さく唸る。
そして、
「──なん、だ?」
ベアトリスが何かの行動を起こす前に、ふいにスバルの視界が歪んだ。
それは朦朧とする意識とも、血が足りないこととも関係ない、現実的な問題だ。
事実として、スバルの前で禁書庫という世界が歪み始めていたのだ。
足元がうねり、書棚がバランスを崩して次々に倒れ込む。並べられていた本が乱雑に床に落ちて、あっという間に地面が本の海に覆い尽くされた。
それでもなお、世界の歪みは止まらない。
やがてスバルの足元すらも、蛇腹のように大きくうねってバランスを保てなくなる。
「こんな……これは……!?」
「────」
必死に扉にしがみついて、スバルはベアトリスの方を見る。
見れば、うねり続ける部屋の中、ベアトリスの周りだけが形を保ち続けている。彼女が座り続けた脚立は微動だにせずあり、ベアトリスは寄りかかるように体重をそれに預けてスバルを見た。
「────ぁ」
何事か、口にする前にスバルの足元が大きく傾いだ。
まるで紙を破くような音を立てて、スバルが立っていた床に亀裂が走る。床板の下は黒い空間が広がっており、『扉渡り』とはまた別のどこかへ飛ばされるのは間違いない。
あるいは、亜空間のような存在しない場所に閉じ込められるのかもしれない。
「──しまっ」
その穴を意識し、足を一歩引いた瞬間だった。
本当の意味で世界が斜めに傾き、スバルは重力の法則に負けて後ろへ倒れる。口を開ける扉はスバルを呑み込み、その体を『扉渡り』を経由して再び炎の屋敷の中へ。
「あづっ!」
放り出された直後、スバルはぶつかった壁の熱に悲鳴を上げた。
顔を上げてみれば、スバルが投げ出されたのはもはや完全に炎に包まれた屋敷の通路だ。かろうじて、本棟であること以外には確認できるものが何もない。
炎に全身を炙られながら、スバルは今しがた飛び出した扉に目をやり、その扉がすでに下半分を炎に呑まれていることに気付いて絶句した。
この状態で、『扉渡り』が成立したことがすでに奇跡だ。もう一度飛びついたところで、ここが再び禁書庫に繋がるとは到底思えない。
「く、そ……ここが、本棟だって言うなら……っ」
最上階であるなら、まだ原形を留めている扉も見つかるかもしれない。
扉の数からぼんやりとここが最上階でないことを意識し、スバルは火の手の中をどうにか階段を目指すことを決める。
煙が目に沁み、涙がとめどなく溢れ出す。呼吸するたびに肺が焼かれ、黒煙に意識が奪われかけるのを上着を口元に当ててどうにか堪える。
数分ももたない。禁書庫へ辿り着けるものか──否、弱気はここでは許されない。
何より、ベアトリスの最後の表情が忘れられない。
「あの馬鹿、またあんな顔しやがって……」
ベアトリスの魔力波を受けた体の、手足の痺れがどうにか抜ける。
何とか意思に従う体を引きずって、スバルは通路の端を目指して魂を削って走った。
脳裏にちらつく、ベアトリスの表情。
あれは以前のループでも見たことのある顔だ。
スバルがベアトリスと共にエルザと相対し、そして倒したはずのエルザによってベアトリスの命が奪われたときの顔。
スバルを庇い、突き飛ばした状態で腹を破られたベアトリス。
彼女は無事なスバルを見て、何も言わずにその肉体を光の粒子へと変えた。
だが、あのときの最後の顔を、スバルは忘れてはいない。
彼女はスバルを庇えたことに安堵するでも、与えられたがっていた『死』を目の当たりにして喜ぶでもなく、ただただ顔を歪めた。
──寂しいのは嫌だと、誰にでもわかるような顔をしていた。
「だから俺が……お前を一人になんて、してやるもんかよ……!」
吐き捨て、炎に飛び込んで活路を見出す。
何か蠢く良からぬものを体内に感じながら、しかし炙られる熱さと皮膚の焼けただれる痛みがそれを意識させない。
このとき、もしもスバルを客観的に目にするものがいれば、そのおぞましさに思わず身を引いたかもしれない。
炎の中、少女を連れ出すことを誓って走るスバルの姿は、おびただしい量の黒い瘴気に取り巻かれ、まるで影の衣に守られるように抱かれていたのだから。
そうとも知らず、スバルは一際大きな炎の壁を突き破り、階段へ辿り着いた。
荒い息を吐き、上階への階段を見てここが二階であることを理解する。そのまま階段に足をかけて、最上階へ一気に駆け上がる。
「ベアトリス……!」
執務室に辿り着き、スバルは祈るような気持ちで扉を開け放つ。
そのまま、スバルの目の前に禁書庫が広がっていれば、蒸し焼き地獄ともお別れだ。
しかし、無常にもスバルの眼前にあったのは、荒らされた執務室の姿だけで。
「クソ……ここは、ダメか……!」
ベアトリスの拒絶の強さを示すように、執務室はスバルの願いを遠ざけた。
他の扉を探そうにも、火に呑まれつつある屋敷の階下へはもう戻れない。いずれにせよ、他の扉がある可能性は──。
「⋯⋯そう言えば、前にラムが隠し通路があるって言ってたな」
しかし、そこがベアトリスの『扉渡り』の範囲内に含まれるのかは未知数だ。何よりスバルにはこの扉から扉への誘導が、隠し通路からスバルを屋敷の外へと追いやろうとするベアトリスの意思に思えてならなかった。
あるいは彼女は屋敷の今の状態がわかっていて、スバルを生かすために道を示してくれているのではないのか。
だとしたら、隠し通路へと入っても禁書庫へは通じないのではないだろうか。
そのまま屋敷の外、避難路の先にある山小屋まで誘導されて、スバルはベアトリスを助け出す機会を永遠に失うのではないか。
「──考えてる時間も、与えちゃくれねぇのか!」
屋敷内に再度爆発が轟いた。
頭を振り、スバルは隠し通路へと体を飛び込ませる。
屋敷の地下まで通じるほど長い螺旋階段がスバルを出迎えるが、屋敷の火災の手はどうやらここにまで届いていたらしく、熱気と煙で人が活動できる状態ではない。
胸の疼きを堪えるように手を当てて、スバルは覚悟を決めると階段を一気に駆け下る。上った直後に再び階下へ。こもった熱に煽られながら、もはやスバルは自分の露出した肌が何色になっているのかを想像するのも恐ろしい。
やがて階下へ辿り着き、スバルは息を荒くしながら通路の奥の暗がりを覗き込む。
煙はどうやら螺旋階段の途中、壁の隙間から流れ込んでいたらしく、熱気の残る地下通路には火の手は見当たらない。
焼かれる心配のない代わりに、光源も失った闇の中を手探りにスバルは押し進む。
そして、そのまま十数メートルほど歩いたところで、わずかに広さのある空間に辿り着き、目指していた小部屋への扉を見つけて足が止まった。
「こ、こが……」
この隠し通路において、スバルはこの扉より先へと辿り着いたことがない。それだけに扉の向こうに、別の扉が存在するかどうかは未知数だ。
つまりスバルにとって、ベアトリスと通じる可能性のある扉はここが最後の候補である可能性がある。もしも、ここが正しく隠し通路として機能するのであれば──。
「────」
弱気を忘れるように首を振り、スバルは扉の取っ手に手を伸ばす。
ベアトリスのスバルを生かそうとする意思が、スバルをここへ導いたのだとしたら分の悪い賭けになる。それを恐れながら取っ手に触れたスバルは、
「づぁっ! この扉は……っ!」
掌を焼かれる感触に苦鳴を上げ、スバルは顔をしかめてドアを睨みつけた。
まるで結果が出るスバルの心を反映したような扉の対応に、焦燥感のようなものが一気に込み上げ──気付いた。
「ドアノブが、熱い……?」
熱気がこもっているとはいえ、地下通路には炎の気配がない。
煙も熱も、おそらくは階段を形作る石材の隙間から流れ込んだものだ。そのスバルの推測が正しいのであれば、部屋の扉がここまで熱を持つことは考え難い。
これでは扉が実際に、炎に炙られでもしていたかのような熱さで。
「……ベアトリス。もしも聞こえてるなら、聞いてくれ」
扉に手を触れないようにしながら、スバルはかすかに首を上へ向けて呟く。
ここにはいない少女に、声が届いているのだと信じながら。
「お前が、俺をここまで誘導したのか? 隠し通路以外に外に逃げる道がないってわかっててそうしたんなら、お前の策士ぶりに正直なとこ声もねぇよ」
ここまでスバルを誘導した打ち筋は、なるほど大したものだと思う。
スバルはにここへ誘われていたのだ。
このまま扉を開けて山小屋へ辿り着けば、ベアトリスの思惑は成就するだろう。
「でも、どうやらそううまくは話が運ばないらしい。……この扉を開けても、俺はお前の望み通りに逃げてはやれない。根性論とかの問題で逃げたくないって言い張るのとは違うぜ? 確かにその気持ちは半分ぐらいあるが……もっと切実な事情だ」
聞いてくれているかもわからない相手に対し、スバルは昏々と言葉を続ける。
正面を塞ぐ扉を軽く爪先で蹴りつけ、スバルはため息をこぼした。
「この扉を開けたら、たぶん俺は死ぬ。お前や他のみんなにはわからないかもしれないけど、この扉の向こうは今、そういう状況になってるんだ。口で説明するのは難しいけど……科学の真髄を知る俺にはわかる」
スバルの中の現代知識が唸っている。
今、スバルの目の前にある扉は、火災現場で多発する触れてはいけない扉の状態だ。
冗談抜きに、スバルの命は危機にさらされている。
後のことは、この声がベアトリスに届いているのか。そして届いていたとして、ベアトリスはスバルの言葉を信じてくれるのかどうか。
「ベアトリス。これから、扉を開ける。──俺の言葉をどう判断するかは、お前に任せることにするよ」
目の前に命を脅かすものがあるとわかっていて、スバルの心はどこか穏やかだった。
肝が据わったのとも、覚悟が決まったのとも違う。
ただひたすらに、穏やかに自分の命を預けることができる。
だって、そうだろう。
「──ベアトリス。お前を、信じてる」
言いながら、スバルは掌を焼かれる痛みを感じながら扉を開け放った。
そして──。
✣✣✣
招き入れられた禁書庫の変わりようを見て、スバルは思わず息を呑んだ。
入口付近の床には亀裂が走り、亜空間へ通じていそうな穴は健在。倒れ込んだ書棚の数々は復旧の目途など立たず、それどころから部屋の一部からは火の手が上がっていた。
ロズワール邸の最後の状況が、ついに禁書庫にも影響を与え出したのだ。
「────」
しかし、部屋に入ったスバルを見つめる一対の視線に気付き、その驚愕を押し殺して意識を切り替える。
今はただ、一人の少女に集中しよう。
──きっとこれが、最後の機会だろうから。
「お前は、馬鹿なのよ……」
「開口一番にそれかよ」
「だって、そうかしら。ベティーがどうにかして逃がしてやろうって手を尽くしたのに、その機会を全部無駄にして、戻ってきやがったのよ。……もう、屋敷のどこにも扉は残ってないかしら。禁書庫にも、火が入り始めてるのよ」
事実だった。
倒れた書棚の一部に炎が燃え移り、大事にしていた本が一つずつ灰になる。
ここには燃えやすいものばかりだから、それはそれはあっさりと燃え尽きるだろう。
「それならこのままじゃ、俺もお前も終わりか」
「……そうよ。終わりかしら。ベティーは、もう多くは望まない。『その人』へ渡すはずの知識に火が移って、約束は完全に違えてしまったかしら」
「そうか。それなら、最後の俺の話を聞いてくれ」
「…………」
ベアトリスの虚ろな瞳がスバルを見やる。
肯定も否定の言葉もなかったが、その反応は少なくとも耳を傾けるという意思表示だろう。ベアトリスのその様子に顎を引き、スバルは小さく息を吸った。
さっきの別れのときに、伝えきれなかった言葉を。
そして今、伝えたい言葉を、伝え切ろう。
「ベアトリス。──俺を、助けてくれ」
「……は、ぁ?」
胸を張り、断言した。
煤だらけの顔で言い切るスバルに、ベアトリスの瞳を驚愕の色が走り抜ける。
きっと、何を言われるのか想像を働かせていたはずだ。
避けられない終わりを迎えるにあたり、きっとベアトリスはスバルがかけるだろう言葉の多くをシミュレーションしていたに違いない。
助けたい。一人でいさせない。そんな、男らしい言葉の数々を、『その人』に期待した格好いい迎えの言葉を、待っていたかもしれない。
でも、偽らざる気持ちを伝えようとすれば、それはスバルには無理だった。
「お前を孤独から連れ出してやるとか、お前を助け出してやるとか。そういう格好いいこと言ってやろうって色々考えてたんだけどさ。……どれも、その場しのぎの勢い任せにしか思えなくてよ。本音のところで考えたんだ。俺はお前を、どう思ってるんだろうって。どう思ってるから、何を伝えたいんだろうって」
言葉もないベアトリスに、スバルはありのままの本心を投げ渡す。
それをどう受け取るのか、ベアトリスに任せるという卑怯な自分を棚に上げて。
「助けてやるもなにも、ホントのところ、お前には俺の力なんて必要ねぇんだ。お前は強くて、賢くて、可愛くて……やろうと思えば何でもやれたし、なろうと思えば何にだってなれたはずなんだ」
「────」
「一人で生きるのに十分な力がお前にはあった。当たり前だ。じゃなきゃ四百年もやってられないもんな。だから力を貸すとか助けてやるとか、そんなこと言ったってお前には何にも届きゃしなかったんだ」
「────」
「でも、強くて賢くて色々できるお前でも、一人で生きるのは恐かった。辛かった。寂しかったよな。だから、『その人』って存在に縋るお前を、誰も責められない」
「勝手に……ベティーの気持ちを……拒絶したお前に、ベティーの何が……!」
唇を噛みしめて、ベアトリスが憎悪に似た感情を宿してスバルを睨みつける。
しかし、震えるそれは憎悪になりきれていない。すぐに霧散してしまいそうな激情を抱え込み、必死にそれを保とうとするベアトリスにスバルは首を横に振った。
「俺は、知ってるぜ。お前が優しいことを」
「知ったような、口を……」
「ちょっとした力しかない俺は、お前の助けになってやれない。それでもお前を一人にしたくない俺ができることっつったら、もう縋りついて頼み込むしかない」
目を見開くベアトリスの前で、スバルは右手を前に差し出した。
火傷でただれて、見るも無残な右手。それでも、たび重なるダメージで目も当てられない左手よりはマシだ。
拭って、整えて、少女の手を取るのに相応しいぐらいには綺麗にして、
「ベアトリス。俺を助けてくれ」
「────」
「お前がいなくちゃ、何も出来ずにただ朽ちていくだけの俺を、助けてくれ」
傍で聞いていたとしたら、それは何とみっともなくて情けない脅迫なのだろうか。
お前がいないと生きていけないから、この手を取ってくれと脅している。
自分が相手のために何ができるかわからないから、相手が自分のために何かができるのだと教えて、それを理由に生きることを強要している。
それはあまりにも身勝手で、理不尽で、どうしようもない脅迫だった。
「ずる、い……ずるい、のよ」
「…………」
「そんな、言い方……そうして、そんな風に……今さら、ベティーを……だって、お前は『その人』じゃないって……ベティーを拒絶して、なのに……っ」
口ごもり、言葉に迷い、言葉を躊躇い、気持ちを絡ませて、ベアトリスは懊悩する。
差し出された手から目を離せないまま、ベアトリスは腕の中の本を強く抱いた。
その眦から涙がこぼれる。
「四百年、ずっと一人だった……! 孤独の時間を過ごしてきて、今ここでお前の手を取ったところで……どうせ、お前はすぐに死んでしまう! 人間の寿命なんて、ベティーにとっては瞬きみたいに一瞬で……今さら! そんなものに縋って……!」
「お前が過ごした四百年は、俺には想像することもできねぇよ。わかったような口も叩いてやれねぇ。四百年どころか、俺はまだその二十分の一も生きちゃいねぇから。お前が、俺が死んだ後の時間を恐がる気持ちも、きっと全部はわかってやれねぇ」
「それなら! それなら……お前の言葉は、何の解決にも……!」
「でも、俺はお前と明日、手を繋いでいてやれる」
「────」
「明日も、明後日も、その次の日も。四百年先は無理でも、その日々を俺はお前と一緒に過ごしてやれる。永遠を一緒には無理でも、明日を、今を、お前を大事にしてやれる」
「────ッ」
「だから、ベアトリス。──お前が選べ」
スバルは、すでに選んでいる。
そして選択肢はベアトリスに提示した。あとは、ベアトリスの決断次第だ。
母の言葉を忠実に守り、ここで火に呑まれて四百年に終止符を打つのか。
母と交わした約束を忘れて、『その人』と巡り合うことを放棄して、ナツキスバルの手を取るのか。
「お、前は……『その人』じゃ……」
「俺はそうじゃないと何度でも言う。俺は『その人』じゃないと思ってるからな。でも、お前は違うだろベアトリス。言っておくが『その人』がお前の前まで来て俺が『その人』ですって言うと思うか?」
「────」
「いずれくるかもしれない別れの時間を恐がるより、必ずくる明日って日々を俺と一緒に生きようぜ。俺は常識に疎くて、周りを振り回しちまう。だから俺と一緒にいれば、世話焼きのお前はきっと忙しくって、退屈だの寂しいだの考えてる暇なんてねぇよ」
「……う、っく」
「でもな、ベアトリス。お前が選ぶんだ、『その人』を」
何度でも、伝わるまで言葉を重ねよう。
揺れている少女の気持ちが、心が理解できるから。
彼女が迷うことに感じる罪悪感を、約束を反故にすることへの慙愧の念を、ナツキスバルという人間の身勝手さが肩代わりしてやれるように。
この少女が一人で泣くようなことが、もう二度とないように。
「いなく、なるくせに……」
「永遠なんてない。お前が恐がってる未来は、いつか必ずやってくるはずだ。永遠を生きるお前を置き去りにしちまうときが、きっときちまうだろう。でも、別れの恐さばっかりを考えて、一緒にいる楽しさを捨てちまうような真似をするには、俺もお前も人生味わってない部分が多すぎだ」
「置いていく、くせに……」
「一緒にいようぜ。一緒に生きてみようぜ。一緒にやっていこう。別れの恐さを吹っ飛ばせるぐらい、楽しかったんだって胸張って笑えるぐらい、思い出を積み重ねていこうぜ。お前がここで過ごした、寂しい四百年を取り返して、お釣りがくるぐらいに」
「そんなこと……したって……っ! いつか、一人に!」
前に出る。距離が詰まる。
震える少女の瞳に、自分の姿が映っている。
みっともなくて、みすぼらしくて、四百年待たせた白馬の王子には程遠い。
ただの、いつものナツキスバルがそこにいる。
「永遠を生きるお前にとって、俺と一緒に過ごす時間なんて刹那の一瞬かもしれない。なら、お前の魂に刻み込んでやるよ。俺の一瞬を」
「────」
「──ナツキスバルって男が、永遠って時間の中でも有象無象に埋まらないぐらい、かっこいい男だったんだってことを!」
ガラスがひび割れるような音を立てて、禁書庫という世界が崩壊していく。
いつの間にか、スバルとベアトリスの周囲は空間の亀裂と炎に包まれていた。
だが熱も、恐怖も、今は何も感じない。
スバルの中には今、ベアトリスしかいない。
そして、ベアトリスの中にも、今はスバルの存在しかない。
震えるベアトリスの腕が、母から渡された本を握りしめている。
その指先を解くことが、四百年の孤独を癒すことだとスバルは信じて、手を伸ばす。
叫んだ。
「お前が選べ『その人』を! お前が選ぶんだベアトリス!」
「──ぁ」
「『その人』に外に連れ出してほしいから! お前はいつも! 扉の前に座ってたんじゃないのか!!」
決定的な音を立てて、世界が本当の終わりを迎える。
禁書庫という少女の孤独な檻が、世界の剥離と炎の中に包まれて消える。
その、直前だった。
──音を立てて一冊の本が、禁書庫の床の上に落ちたのだ。
✣✣✣
──捕まってしまった。
わかっていたのに、掴んでしまった。
この手を取ってしまったら、その温もりに縋ってしまったら、もう一人の孤独な夜には戻れないことなんて、ずっと前からわかっていたのに。
いずれ失われる温もりを頼りに生きることなんて、狂おしいほどに愚かなことだと自分を戒めていたはずだったのに。
あの声で、呼び掛けられて。
あの目で、見つめられて。
あの手に、必要とされて。
拒むことなんて、できるわけないと知っていたはずだったのに。
──スバル。
「ああ、そうだよ」
──スバル、スバル。
「そうだ。俺の名前だ」
──スバル、スバル、スバル。
──スバル!!
「やっと、また名前を呼んでくれたな」
✣✣✣
その日、ロズワール邸は終わりを迎えた。
正史よりも早く、崩れ落ちていく。
しかし、それと引き換えに得られたものもあった。
スバルとその手をとったベアトリスが彼に抱き抱えられて三階の窓から外へと飛び出したのだ。
奇跡的に一つだけ残っていた三階の扉から飛び出ると彼らは生きる道を選んだ。
今、ここにロズワール邸での攻防は幕を下ろそうとしていた。
あと一話更新できそうな予感。
後、二章終了後に番外編みたいなので日常パートを上げようかなと思っているんですけど、どうでしょうか?
活動報告にてアンケートでも取ろうと思ってるんですが⋯⋯