杉田水脈議員による『新潮45』寄稿の “全文” に抗議を表明します(3/3)

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杉田水脈議員による『新潮45』寄稿の “全文” に抗議を表明します(3/3)

2018.07.01

政治家としての職務放棄

今回の寄稿についてはもう一つ、絶対に忘れてはならないポイントがある。それはこの文章が、一私人ではなく、立法府で働く「国会議員」という公人の立場から書かれているという点だ。
 
「LGBTの当事者の方たちから聞いた話によれば」と前置きしたうえで、杉田「議員」は、日本におけるLGBTの悩みとしては「社会的な差別」よりも「親が理解してくれない」ことのほうが大きいと指摘する。
 
「親からの理解が得られない」ことについて、杉田氏は以下のように述べている。
 

これは制度を変えることで、どうにかなるものではありません。(中略)リベラルなメディアは「生きづらさ」を社会制度のせいにして、その解消をうたいますが、そもそも世の中は生きづらく、理不尽なものです。それを自分の力で乗り越える力をつけさせることが教育の目的のはず。



曲がりなりにも「衆議院議員」の肩書きを持つ人物がこのような暴言を吐いて悪びれない、その心性に寒気がする。政治家としての見識を疑う、というよりも、政治家に求められる資質が根本的に欠けている。
 
親の理解が得られないという悩みは「制度を変えることで、どうにかなるものではありません」? そんなことはない。
 
2018年にもなってこんなことをわざわざ書かねばならないのがすでにむなしいが、マイノリティに対する偏見と「社会制度」は密接に結びついている。個人が持つ偏見を直接変えるのは簡単ではないが、社会制度なら確実に変えられる。だからまずは社会的な制度から変えていくことが重要なのだ。そしてその「社会的な制度」を変えるために法律をつくるのが国会議員の仕事だ。
 
たとえば日本では依然として同性婚が法律で認められていないが、そのことがどれだけ「親の理解」を妨げているか。結婚の権利ひとつ平等になるだけで、どれだけ「親の理解」が得られやすくなるか。「社会制度」の不平等が差別や無理解の大きな原因となっていることに気づかないほど、杉田氏は無知なのだろうか。それとも知っていながらあえてその事実を無視しているのか。いずれにしても「議員」を名乗る資格はない。
 
挙句の果てに杉田氏は、「そもそも世の中は生きづらく、理不尽なものです」と開き直る。バカも休み休み言えよ、と本気で思う。
 
そもそも「生きづらく、理不尽な」世の中を、すこしでも生きやすいものに変えていくことが政治の目的であり、そのために働くのが政治家ではないのか。働く目的である理想をはなから放棄して開き直る政治家に、一体どんな「生産性」があるのだろうか。
 
人間の価値を「生産性」で測ることはできないが、労働への対価を測るには、生産性という尺度を用いることができる。杉田氏は国会議員であるから、その賃金はわたしたちの税金で賄われている。逆に問いたい。生産性が見込めない仕事のために税金を使うことに「賛同が得られるものでしょうか」と。
 

おかしいことはおかしいと言おう

杉田氏の文章は以下の言葉で締めくくられている。
 

「常識」や「普通であること」を見失っていく社会は「秩序」がなくなり、いずれ崩壊していくことにもなりかねません。私は日本をそうした社会にしたくありません。



これまでの内容からわかるとおり、杉田氏のいう「常識」は杉田水脈という個人の考え方であり、杉田氏のいう「普通であること」は、杉田水脈という個人の生き方であるにすぎない。その範疇から一歩も出ることはない。自分の考え方にすぎないものを「秩序」と呼び、それをほかのすべての人に押し付けようとする姿勢はとうてい受け入れられない。
 
杉田氏のいう「普通」が「普通」なのだとしたら、そんな「普通」には鼻くそほどの価値もないすくなくとも筆者は、謹んで、そして喜んで、「普通」であることを辞退する。そんな「普通」は、こちらから願い下げである。
 
 
最後に、文章の序盤で杉田氏が述べていることを引用しよう。
 

しかし、LGBTだからといって、実際そんなに差別されているものでしょうか。もし自分の男友達がゲイだったり、女友達がレズビアンだったりしても、私自身は気にせず付き合えます。



一体どの口が言っているのか、まったく理解に苦しむ。この文章全体が、LGBTが「実際そんなに差別されている」ことの動かぬ証拠になっているではないか。
 
杉田氏自身は、自分の友達がゲイやレズビアンでも「気にせず付き合え」るそうだが、本気で言っているのか。逆にこれを読んでいるあなたがゲイだったとしたら、レズビアンだったとしたら、杉田氏と「気にせず付き合え」るだろうか。徹頭徹尾、どこまでも、自己中心的で傲慢な物言いである。
 
「LGBT支援の度が過ぎる」とお考えの杉田氏に申し上げたい。あなたのような発言をする人がいるかぎり、LGBTはまだまだ平等でないのだ。
 
 
ここまで、杉田水脈議員の寄稿に対する抗議の意志を、できるだけ詳らかに述べてきた。杉田氏はかねてより多くの問題発言・差別的言辞を残してきた人物であるから、その人物が今回のような文章を書いたことについても「またか」とか、「いちいち相手にしていられない」と思う向きがあるかもしれない。しかし、そうした「あきらめ」の態度が、今回のような言説をのさばらせていることもまた事実だ。
 
どんなに面倒くさくても、どんなにバカバカしくても、こういった言動を平気でおこなう人物がいるかぎり、「いちいち」声を上げていかなければならない。野放しにしてシワ寄せを食らうのは、わたしたち自身なのだから。
 
忘れてしまいそうな事実がある。それは、杉田水脈氏もまた、選挙に勝って国会議員の職に就いている一人だということだ。わたしたちの投票によって、(いちおうの)「民主的」な手続きによって選ばれた人物なのだ。これは絶望的に聞こえるかもしれないが、そこにこそ希望があるともいえる。なぜなら、民主的な手続きであるかぎりは、わたしたちの行動によって現状を変えることができるからだ。
 

エイズの活動団体「ACT UP」には、「SILENCE=DEATH(沈黙は死)」という有名なスローガンがある。
 
何かに怒ったり、いちいち目くじらを立てたりすることはダサく見えるかもしれない。政治的な話題に関しては特にその風潮が強い。しかしその「なんとなくダサい」という雰囲気が、わたしたちを黙らせ、ヘイトが蔓延する温床を作り出している。「差別はよくない」――誰もがそう思っている。それならば、おかしいことはおかしいと言おう。それが、「そもそも生きづらく、理不尽な世の中」を、すこしでも生きやすいものにしていくための第一歩ではないだろうか。


 

 

WRITERこの記事の投稿者

K野


たすけて・・・

 
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