H18.10.16記

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国歌強制

 

日本では国家が国民に対して国歌斉唱することを強制することが問題になっている。本来は強制しなくても普通の国民であれば自然に国歌斉唱できるものであり、それができない状況になっていることが問題。

それではどうして自然にできない状態になっているのか。それは当然「君が代」に問題があるからだ。但し、この問題点は表面的な問題点で、国歌強制には内面的問題点など他にも様々な問題点がある。

 

君主主義の国歌

「君が代」の「君」とは、元々は普通の意味で「あたな」という意味だったらしい。しかしこれを国歌とするときに、そのときの日本は君主主義国家だったから、「君が代」の「君」は「君主(天皇)」の意味として判断できる状態になったようだ。つまり、そこが「君が代」の第1の問題点。

現在の日本は民主主義国家なのに、「君主主義国家よ永遠に」と解釈できる状態になっていることが重大な問題点だ。こういう問題点があるのにそれを強制することには大きな問題がある。そうであれば、国歌を変えればいいわけだ。

 

ところが国歌というものはそう簡単に変えていいものではないだろうし、現実に現在の日本にはまだ天皇制が温存されている。そういう状況で「君が代」の「君」を「天皇」と解釈できる歌を国歌から排除することは難しいだろう。しかし人間の精神性を向上させるためにはそういうことも必要だ。

「君が代」の第1の問題点は、民主主義者が素直に国歌を歌えないところだから、「君が代」に拘りすぎることは民主主義国家として重大な欠点になる。日本が民主主義国家であるならば、君主主義の国歌と解釈できない歌、もっと民主主義に相応しい国歌に変更すべきだ。

しかし、それで問題が解決するだろうか? おそらく解決しないだろう。そうであれば仮に国歌を変更するにしても早急である必要はないだろう。

 

国歌強制

仮に国歌を変更するとして、それでも問題が解決しないとなれば何が問題なのか。それは国歌を強制すること自体だ。仮に国歌をもっと民主主義国家に相応しい歌に変更するとしても、日本は思想・言論の自由の国だから、結局はその自由を奪うこと自体に問題があるわけだ。

また、国歌を斉唱しないことによって愛国心が失われて、やがて国家存亡の危機を招く、なんていう考え方はあまりにも幼稚でレベルが低い。国歌を強制することで本当に人間の精神性が向上し、住み心地良い社会が成立すると思っているのだろうか。国歌斉唱に国家繁栄を期待するなんて発想は一体いつの時代の話なのか? 国歌斉唱を強制することは民主主義社会に相応しいことではない。

時代遅れの発想がすべて悪いわけではないが、それに頼り過ぎるのは問題だ。国家繁栄を国歌斉唱に頼るのではなく、国歌がなくても国旗がなくても、国家を繁栄できるような強い精神の人間になければならない。国家繁栄を国歌斉唱に頼るような幼稚な態度では、国家の意味を本当に理解することはできない。

 

なんのために国家があるのか? それは国歌のためでも国旗のためでもない。国家は人間(国民)のためにある。国歌よりも国旗よりも国民そのもの方が大切だ。その国民を育てるために国歌や国旗に頼り過ぎることには大きな問題がある。国歌や国旗に拘り過ぎることは人間性を見失う恐れがある。人間性を築くためには国歌や国旗に頼ることはあまりにもレベルが低い。そんなやり方では人間の精神は育たない。

国歌や国旗がなくても人間精神が健全に育っていく社会を創造しなければならない。いつまでも国歌や国旗に頼っているのではなく、新しい方法をできるだけ早く探し出さなければならない。そのためには、国歌や国旗に頼り過ぎることは大きな障害になる。

それでも良い方法が見つかるまでは取り敢えず国歌を強制するならば、民主主義国家に相応しい国歌に変更しなければならない。「君が代」斉唱を国家の接着剤として頼り過ぎる政策はあまりも無能すぎる。

 

政治家という人間が一般人よりも優れているならば、もっと本格的な政策を考案すべきだ。それができない政治家は一般人と同レベルであり、そんな者に国民は多額の税金を提供していることになる。税金の無駄遣いとはこのことだ。

政治家たちは象徴天皇や君が代に頼り過ぎて、国家を繁栄させるための本格的な方法を考えられない、または考えようとしない。だからこの国の未来は暗い。

 

矛盾は世界の原動力

日本の国歌が「君が代」であってもなくても、国歌強制は民主主義国家として相応しいことではない。また、国歌強制は国家繁栄の方法を安易なところで落ち着かせてしまって後で大失敗の結果を招く恐れがある。だから、いずれにしても筆者は国歌強制に反対するわけだが、それは全面的な反対ではない。

筆者の思想では、「国歌を強制すること」と「国歌を強制しないこと」を両立させようとする。シュレーディンガーの猫のように。それは矛盾したことだから、筆者の思想は矛盾の思想である。

一般的に「矛盾」は悪いものと思われているかもしれないが、矛盾は宇宙を創造し、世界を動かす原動力だ。矛盾なしに宇宙が誕生することも世界が運動することもない。

 

こういうことが理解されない状況で国歌を強制することに筆者は反対なのだ。こういうことが理解される状況になると、部分的強制が可能になる。矛盾を理解できない状態では、全面的に強制するか強制しないかという偏重状態に陥ってしまう。そういう偏重態度が問題なのだ。

偏重態度には盲目性を強める効果があり、近くに危険が迫っていることに気が付かない状態になる。それが全体主義の特徴だ。安易な国歌強制策は全体主義である。我々現代人は全体主義の恐怖を知っているのだから、偏重態度に陥らないように注意しなければならない。偏重態度は盲目性を強め、社会を後手後手対応に陥れる。

 

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