デュノワ伯ジャン~ジャンヌ・ダルクの戦友から百年戦争の名将へ

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デュノワ伯ジャンあるいはオルレアン私生児ジャン(ジャン・ル・バタール・ドルレアン)は百年戦争後期のフランス王シャルル7世の股肱の臣であり、ジャンヌ・ダルクが活躍したオルレアンの戦いでのオルレアン防衛の総司令官として知られ、後にノルマンディ地方の奪還やアキテーヌ地方の首府ボルドー攻略など百年戦争におけるフランス勝利の立役者となった。オルレアン=ロングヴィル家開祖。

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前半生

デュノワ伯ジャン

デュノワ伯ジャン肖像画(15世紀)

1403年、フランス王シャルル6世の弟オルレアン公ルイと愛妾マリエット・ダンギャンの間に庶子として生まれる。十歳になるまで同年生まれの王子シャルル(のちのシャルル7世)とともに養育された。(レジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン著,1992年,324頁)庶子ゆえオルレアン庶子ジャン(ジャン・ル・バタール・ドルレアン)、愛称としてバタールと呼ばれる。

1407年11月23日、父オルレアン公ルイが政敵ブルゴーニュ公ジャンの配下によって暗殺され、翌年にはオルレアン公妃ヴァランティーヌ・ヴィスコンティも亡くなった。庶子ながらヴァランティーヌからは愛情を注がれたようである。(レジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン著,1992年,325頁)1415年10月25日のアジャンクールの戦いで義兄オルレアン公シャルルがイングランド軍の捕虜となり、親友シャルル王子が兄たちの死とともに王太子へと昇るのとあわせて、彼もシャルル王太子に仕えた。1417年9月21日、初陣でブルゴーニュ公軍と戦い捕虜となる。

1419年9月20日、王太子シャルル派とブルゴーニュ派の会談の場でブルゴーニュ公ジャンが殺害(モントロー橋暗殺事件)されるのとあわせて捕虜となっていたバタールは釈放されるが、時を同じくして義兄フィリップ・ド・ヴェルテュが死去。虜囚となっている当主オルレアン公シャルル不在のオルレアン家の維持を担うことになる。

1421年3月22日、アルマニャック派(王太子シャルル派)軍がイングランド軍を破ったボージェの戦いに参加し、騎士に叙された。翌22年、会計院総裁の娘マリー・ルヴェと結婚するが、妻の一族がシャルル7世の寵臣ピエール・ド・ジアックとの政争で失脚、彼もプロヴァンスへ一時追放を余儀なくされるが後に許されて帰国。26年に妻マリー・ルヴェを失った。27年9月5日、イングランド軍が包囲するモンタルジスへ救援に向かい、ラ・イールらとともにイングランド軍の包囲網を破り退却させた。1422年の即位後、敗戦続きのシャルル7世軍にとって唯一の白星だった。

オルレアンの戦い

1428年6月、シャルル7世軍の主力を壊滅させたヴェルヌイユの戦い(1424)での大勝を受けて、イングランド軍は同盟国ブルゴーニュ公国軍とともにシャルル7世政権に止めを刺すべく要衝オルレアン攻略に向けて南下を開始した。攻略軍を率いるのはイングランド随一の名将と呼ばれたソールズベリー伯、その下に猛将ジョン・タルボット、勇将トマス・スケールズ(タルボットとスケールズは百年戦争の最後まで英国軍を支える大黒柱となる軍人である)、サフォーク伯ウィリアム・ド・ラ・ポールら当時の英国軍精鋭を揃えている。ジャンヴィル、パテー、シャトーダンと道中の町を次々と落として、10月12日、ついにオルレアンに姿を現した。

当時はまだバタールはオルレアンに到着していない。10月22日までにイングランド軍は要衝レ・トゥーレル砦を手中に収め、着実に包囲網を築き始めていたが、24日、流れ弾が偶然ソールズベリー伯に命中してまさかの戦死を遂げてしまい、タルボットが指揮を引き継ぐが、大きな誤算となった。その翌日10月25日、バタールはラ・イール、ブーサック元帥らとともにオルレアンに入城、防衛戦の指揮を執りはじめる。

指揮官を失ったイングランド軍の包囲網構築は遅々として進まず、一方、兵力で劣勢な防衛軍も防戦一方となり長期戦の様相を呈しはじめた。戦局が動くのは年が明けて1429年1月末のことだ。ブルボン公子クレルモン伯シャルル・ド・ブルボンが一説には4000もの大兵力で増援に来たからである。

二月十日、イングランド軍随一の知将ジョン・ファストルフ率いるイングランドの補給部隊名が接近中との報を受けたバタールは、オルレアンに向かってきているクレルモン伯軍との連携で敵補給部隊を叩くべく二百名を率いて出陣する。ところが、クレルモン伯の到着が著しく遅れたうえクレルモン伯は自軍の到着まで攻撃を控えるよう通告する。一方で敵の動向を察知したファストルフは兵を終結させ荷車で陣地を構築、鉄壁の布陣で待ち受けた。その中で、フランスの同盟軍であったスコットランド人部隊がしびれを切らして攻撃を開始、結局オルレアン軍は散々な敗北を喫し、大兵力のクレルモン伯軍も混乱の末、オルレアンに逃げ込んだ。後には補給物資だったニシンが散乱していたことから「ニシンの戦い」と呼ばれる。さらに、問題はクレルモン伯軍がオルレアンの備蓄を一気に消費したことだった。その上で、クレルモン伯とラ・イールが衝突、クレルモン伯、ラ・イールともにオルレアンを離脱してしまう――絶体絶命の状態の中聞こえてきたのがラ・ピュセルのうわさだった。

当初バタールはジャンヌ・ダルクに対して半信半疑だったようだが、すぐに信頼に代わった。出会いのエピソードからして、両者の性格を表しているようで面白い。ジャンヌ率いる補給部隊を出迎えたバタールは川の流れや風向きが逆だったこともあって入城に際して不都合だと考えてジャンヌたちを遠回りさせたが、これにジャンヌが異議を唱え、バタールが抗弁する、とそのとき風向きが変わり都合よく運搬ができたのだという。生真面目なバタールと神がかり的な押しの強さのジャンヌの組み合わせが誕生した。

ジャンヌは到着早々、イングランド軍への総攻撃を主張、結局それに押し切られる形での攻勢が始まると、瞬く間にオルレアンは解放されることになる。

元々、イングランド軍の包囲網は完成せず、事実上兵力の分散だけが起きている状態だった。士気が高まったフランス軍が兵力を集中させて各個撃破していくことで包囲網は比較的容易に打ち破れたのである。

このイングランド軍の弱点におそらくファストルフは気付いていたようだ。ニシンの戦いで補給物資を届けた後、とんぼ返りしてすぐに増援部隊を編成し、再びオルレアンに迫りつつあった。包囲網を完成させるためにはさらなる兵力が必要と現地を見て判断したのだろう。ファストルフはイングランドの摂政ベッドフォード公ジョンの腹心であり、知勇兼備の軍人として知られていた。ファストルフ率いる増援部隊が南下しているとの報を受けたジャンヌ・ダルクはバタールに「バタールよ、ファストルフが到着したら必ず私に知らせなさい」と強く要求している。「もし伝えなかったらあなたの首をはねさせますよ」と物騒な脅迫つきで。(レジーヌ・ペルヌー,1984年,158頁)

オルレアン解放後、バタールはジャンヌとともにアランソン公ジャン2世の指揮下に入りイングランドの追撃戦に参加、奪われた町を次々と奪還しパテーの戦いでファストルフ軍と合流したタルボット率いるイングランド軍を撃破している。

百年戦争を終わらせた名将

バタールはジャンヌが捕虜となるとジャンヌが捕らわれているルーアンに向けて進軍しようとして失敗している。(復権裁判165頁)ジャンヌ死後、彼は各地を転戦して次々と軍功を挙げていった。1432年シャルトル奪還、1436年リッシュモン大元帥とともにパリ奪還、1439年侍従長に就任、同時にデュノワ伯位を与えられ、シャルル7世からの信頼は絶大なものとなっている。以後デュノワ伯ジャンと呼ばれる。

この頃、シャルル7世は王権の強化を目指して次々と集権的政策を打ち出していた。1439年11月2日のオルレアン勅令は「まず王国内の全ての者に対して軍隊を招集することを禁止し、また国王以外が課税を行うことを禁止する。もし規定に従わなかった場合、違反者は大逆罪に処され、彼が持つすべての所領が没収される。」(上田106頁)というもので、跳梁する傭兵崩れの野武士団の横行を阻止する目的があったが、同時にすべての貴族をも対象としており、事実上貴族の自治権を制限し王権を強化するものだった。

これに対して諸侯が反発、1440年、ブルボン公シャルル、アランソン公ジャン2世らが王太子ルイを擁立して反乱を起こす。世にプラグリーの乱と呼ばれる反乱である。これにデュノワ伯も参加している。ただ、反乱諸侯の間には温度差があり武力反乱より交渉を優先させる者たちが多かった。デュノワ伯もその一人であったようで、反乱の早期にプラグリーの乱から離脱、シャルル7世に帰順している。

同1440年、義兄オルレアン公シャルルの解放が実現、同じ年デュノワ伯はタンカルヴィル女伯マリ・ダルクールと再婚している。

1443年8月11日、ディエップ遠征によりノルマンディ攻略の橋頭堡を築き、1449年ノルマンディの首府ルーアンを攻略、1450年のリッシュモン軍によるフォルミニーの戦いでの勝利を受け、ノルマンディ全域を平定する。1451年、イングランドの旧領だったアキテーヌ公領の首府ボルドーを陥落させ、ギュイエンヌ地方を平定した。後に1453年にボルドーは反乱を起こすが、同年のカスティヨンの戦いとボルドー再陥落で百年戦争は終結することになる。

また、外交官としても1447年に対立教皇フェリクス5世を退位させニコラウス5世を登位させることでローマ教皇の分裂に終止符を打った。

シャルル7世はデュノワ伯ジャンをこう評している。

「わが親愛なる従兄弟ジャン、オルレアン家の庶子でデュノワ伯、王室侍従長が生涯われわれに尽くしてくれた奉公はまさに特筆すべきものがある。彼は長い間われわれとともに育てられ、われらが旧敵との戦争においても彼は若年の頃から、ようやく甲冑をまとい、武器を取れるようになるや、軍隊を率いてあまたの戦闘に参加し、つねに細心の注意をおこたらず、われらの領土の回復にもてる力のすべてを投入したのである。」(レジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン著,1992年,325頁)

また、シャルル7世の側近ジャン・シャルティエは彼を「フランス語の歴史の中で最も美しいフランス語の話し手の一人」(レジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン著,1992年,327頁)と称賛する。人格者として知られ、人望厚く、ジャンヌ・ダルクについても彼は生涯ジャンヌのよき理解者であり続けた。

シャルル7世死後、一時ルイ11世から遠ざけられ、公益同盟戦争にも参加するが、後にルイ11世と和解、宮廷の重臣として信を置かれ、最晩年、ロングヴィル伯位を与えられた。後にロングヴィル伯家は公に陞爵、オルレアン=ロングヴィル公家としてブルボン朝時代まで続く名門となる。1468年11月24日65歳で死去。

シャルル7世麾下の軍人では勅令隊を率いたリッシュモン大元帥、砲兵戦術の革新をもたらしたビューロー兄弟と並ぶ三大功臣といえるだろう。ちなみに文官としては1430年代以降国政を仕切ったシャルル・ダンジュー、歴史に名高い豪商ジャック・クール、ニシンの戦いでは戦犯となったがアラス和約の立役者ブルボン公シャルルといったところか。

名門の庶子として生まれ、平和な世であれば名の知られぬ騎士止まりだったかもしれないが、世は百年戦争、幼馴染が乱世の中で王となり、彼を陰から日向から支えながら、ジャンヌ・ダルクの登場を最も近くで体感し、自らも将帥としての才能を覚醒させ、百年戦争を終わらせた不世出の名将としてその名を遺した。

参考書籍
・レジーヌ・ペルヌー(高山一彦訳)「オルレアンの解放 (ドキュメンタリー・フランス史)」白水社、1986年
・レジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)「ジャンヌ・ダルク」東京書籍、1992年
・レジーヌ・ペルヌー編著(高山一彦訳)「ジャンヌ・ダルク復権裁判」白水社、2002年
・上田耕造著「ブルボン公とフランス国王―中世後期フランスにおける諸侯と王権」晃洋書房,2014年
・佐藤賢一著「ヴァロワ朝 フランス王朝史2 (講談社現代新書)」講談社,2014年