飲めばモラルが向上するクスリ「道徳ピル」をご存じか

それは希望か、ディストピアの始まりか
堀内 進之介 プロフィール

本当に、服用者が〈道徳〉的になった

「道徳ピル」は、いまやSF小説の中の出来事では決してない。いくつかの実験によって、実際にその効果が確認されている。たとえば、ゲーテ大学の経済学者Michael Kosfeldらの研究グループは、2005年に神経ペプチドである「オキシトシン」は、闘争欲や恐怖心を鎮め、他者との親和的で協力的な行動を促進する作用があるという研究結果を報告している。

この研究結果は、スイスのチューリッヒで、健康な男子大学生58人を対象に行われた実験から得られたものだ。

この実験では、半数の29名が資産を持つ「投資家」、残りの29名が資産を運用する「信託者」の役割に分かれる。投資家は二つのグループに分けられ、一方のグループには本物のオキシトシンを、他方の資産家グループには偽物を、それぞれ鼻から吸引させた。

その結果、本物のオキシトシンを吸引した投資家のグループだけが、なんと全額に近い資産を信託者に委ねたのだ。このことから、オキシトシンは不安を抑制するように作用し、そのことによって他者への愛着や信頼感を増加させる効果があると結論されたのである。

抗うつ剤として知られる選択的セロトニン再取り込み阻害薬(SSRI)も、不安や恐怖感を高める受容体の働きを抑える作用があることから、オキシトシンと同様に他者との親和的で協力的な行動を促進したり、攻撃的な衝動を抑制すると考えられている。

SSRIは「プロザック」などが有名(photo by gettyimages)

さらに、2012年には、プリマス大学の社会心理学者Sylvia Terbeckらの研究グループが、高血圧の治療薬であるβブロッカーは、人種差別的な反応を減少させる効果があるという研究結果を報告している。

この研究では、健康な白人のボランティアを二つのグループに分け、一方には本物のβブロッカーであるプロプレラノール40mgを、他方のグループには偽物を服用してもらい、服用から1~2時間後に、潜在的な人種的偏見を測定するテスト(IAT)を受けてもらった。黒人と白人の写真を、好意的か否定的かに即座に分別してもらうというものだ。

その結果、本物のプロプレラノールを服用したグループでは、潜在的な人種偏見の傾向が著しく低下したのだ。

 

このように、いくつかの薬剤には「道徳ピル」と呼ばれ得る効果が実際に確かめられている。他方では、薬剤の影響で偏向的になったり、必要な感情的反応全般が鈍くなるなどの副作用も確認されている。そのため、「道徳ピル」がすぐさま世界中に普及するというわけではない。しかし、その実用化は着々と進んでいるのだ。

前述したPersson やSavulescuなどは、副作用や倫理的な問題に言及しつつも、「道徳ピル」を擁護する。科学的な進歩の負の側面として、容易に多くの生命を死滅させる手段が紛争やテロ行為に用いられる可能性が増す今日では、科学的な手法で道徳感情を増進することは、いまや私たちに課せられた義務だとさえ言っている。Savulescuは、2008年の論文でこう述べている。

〈もし安全なモラル・エンハンスメントが開発されれば、それは教育や水道水中のフッ素のように義務化されねばならないという強い理由がある。なぜなら、モラル・エンハンスメントを必要とする人間たちこそは、もっともそれを受けたくない人々であるだろうから。つまり、安全で効果的なモラル・エンハンスメントは義務化されるべきなのだ〉