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数十年務めた新聞社を辞めた私の「定年後戦略」

フリーランスで生きるために

定年後、フリーランスで生きるために

さあ、夏休みだ!(笑)。そこで今回はガラリと趣向を変えて、いまじっくり考えたいテーマを取り上げてみる。ずばり「定年後をどう生きるか」である。65歳のいまだから書ける「私の定年後戦略」を披露したい。

このテーマはご存知の通り、男性週刊誌の定番である。先日は車中でテレビを聞いていたら「定年後は農業でもするか、非営利法人(NPO)に行くか」といった相談もあった。だが、どれもどうもピンと来ない。そこで、自ら挑戦してみる気になった。

私はことし3月、中日新聞社を退職した。5年前に60歳で定年を迎え、その後、1年更新の特別嘱託を経て、いわゆる「第2の定年」だった。だが、それ以前といまとで変わった点は何もない。かねて会社の世話にならず、自立を目指して準備していたからだ。

私は務めていた新聞社の論調と合わないから、自立を目指したわけではない。かれこれ10数年前から自覚していた。私は別に変わっていないが、途中から新聞社の論調の方がズレまくっただけだ。だから、社の論調と自立の話は関係ない。

その点を確認したうえで、興味ある読者はしばし、お付き合い願いたい。

 

自立とは「フリーランスのジャーナリストとして暮らしていく」ことである。なぜ、フリーランスを目指したか。理由は単純だ。「いずれ定年が来る」と分かっていたからである。

サラリーマンの読者は、まず、ここをしっかり認識すべきだ。あなたにも必ず、定年が来る。その後、どうするかはいまから考えて遅くはない。早ければ早いほどいい。逆に多くの場合、定年間近になってから慌てても遅いのだ。

私は定年後、何をしたかったか。原稿を書いて暮らしたかった。正直に言うと、実はもう1つの道があったが、それは後で明かそう。定年後も原稿を書いて暮らしていくには、すぐ仕事を始めても良かった。それで雑誌に寄稿し始めた。

初めて寄稿したのは、いまは休刊になっている講談社の『月刊現代』である。知人を介して編集者を紹介してもらい、都心のホテルで会った。2000年の秋、私が47歳のときだった。

私は46歳で新聞社の論説委員になったが、すぐ飽きてしまった。社説というのは建前が多くて、文章も紋切り型だ。真相に深く迫るようなこともない。それで、自分の名前で原稿を書いて勝負してみたかった。通用すれば、定年後も仕事ができるかも、と思った。

最初の原稿は幸い、評判が良かったのだろう。3カ月連続で、原稿を書かせてもらった。少し自信がついて、そこから雑誌との付き合いが始まる。

編集者が『月刊現代』から『講談社現代新書』に異動すると、私も編集者と一緒に移る形で初めて新書を書いた。彼が『週刊現代』に異動すると、私も週刊誌に原稿を書き、再び『月刊現代』へと、媒体を渡り歩いた。その間に多くの編集者と交流を結んだ。

そんな中で、いよいよ「将来はフリーのジャーナリストに」と目標を定めたのである。

これは、私だけの話と思われるかもしれない。そうではない。だれでも自分の仕事を持っている。20年、30年と経験を積んでいれば、その道のプロになるだろう。そこで、自分のスキルが会社を離れても通用するかどうか。まずはそこを見極めるのが肝心なのだ。

農業とかNPOとか、現役のサラリーマン時代から手がけているなら別だが、定年になってからいきなり始めるのは、どうか。それより、いまある自分のスキルを見極めて、それを活かす道を考えたほうがいい。リスクも少ない。

そのうえで、大事なのは、その仕事が本当に好きかどうか、である。中には「好きでもないが、仕事だからやってきた」という人もいるだろう。それなら勧めない。人生は1度しかないのに、好きでもない仕事を定年後も続けるのは、時間がもったいない。

もしも、好きなら「それが会社の外で通用するかどうか」が、まず最初の関門である。