縁あってサンポーさんに寄稿しました。今すぐ読んでください。あまりの長さに辟易しながら、それでもブックマークでもなんでもしてください。お願いします。
さて、散歩について。上の記事にも書いたとおり、おれは散歩というものが苦手というか、散歩することのできないタイプの人間なのです。いや、そもそも散歩ってどういう意味なのでしょうか。歩を散らすのですか。よくわからない。そこで、信頼できるWikipedia先生に聞いてみるのです。
「散歩」の語源
中国の三国時代に五石散(今でいうところのドラッグ)が貴族や文化人の間で滋養強壮薬として流行した。名前のとおり主材料は五石(石鐘乳、紫石英、白石英、石硫磺、赤石脂)であり、服用すると体が熱くなる(散発)のだが、散発がないと体に毒が溜まり害になるとされた。そのため、散発を促すべく歩き回るようになった(行散)。散発のために歩くことを散歩というようになり、これが転じてただ歩くことを散歩というようになった。しかし、散発があろうがなかろうがひどい中毒症状が出るため、命を落とす者も多くいたという。
ヒィッ、けっこう怖い語源。しかしなんだ、何晏とか、いや、語源はともかく、今の散歩とは。
散歩とは、気晴らしや健康などのために、ぶらぶらと歩くことである。散歩というのは、多くの場合、自宅や滞在している場所などの周辺を、とりとめもなく、ぶらぶらと歩くことを言う。
「とりとめもなく」というのが難しいのです。引きこもっていたゆえにそうなったのか、もともとそういう性格だから引きこもったのかわかりませんが、なにか目的なしに外に出られない、そういう強迫観念があるのです。寄り道をする、遠回りをする、知らない道を行く、それはできる。しかし、なにかしらの目的がなければ、靴を履いて外に出られない。
いや、自転車によく乗っていたとき、サイクリング、ポタリングに出るときはどうだったのか。わりと、目的はなかった。それでも、だいたいの目的地というのはあって、Google Mapsなどで事前に道をだいたい決めて出る、自転車漕ぎ出してから、最初の交差点で右に行くか左に行くか直進するか決めるということはなかったのです。
というわけで、おれは本当に散歩がしたいのです。空だの風だのバイブスだのに誘われて、靴を履いて外に出る。
夏の爽やかな夕、ほそ草をふみしだき、
ちくちくと穂麦の先で手をつつかれ、小路をゆこう。
夢みがちに踏む足の、一あしごとの新鮮さ。
帽子はなし。ふく風に髪をなぶらせて。
話もしない。ものも考えない。だが、
僕のこころの底から、汲めどつきないものが湧きあがる。
さあ。ゆこう。どこまでも。ボヘミアンのように。
自然とつれ立って、――恋人づれのように胸をはずませ……
カバンもなく、カメラもなく、手ぶらで、吹く風にまかせて、自由に。そこには安心があるのだろうと思うのです。おれは安心に程遠い心持ちで日々を送っています。不安の塊なのです。でも、いつか自由に歩きたい、とめどもなく歩きたい、そういう思いがある。ぶらぶらと、適当に、心やすらに、そのまま夕まぐれのなかに消えていくように……。
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これが最初の寄稿というもので、今回が二度目でした。
というわけで、今回の本牧編(?)もよろしくおねがいします。あなたの脳に語りかけているのです。