本文(オーディオの物理学)でも述べたが、ケーブルの伝送特性に対し、線材に何が使われているかは重要な意味を持たない。にもかかわらずこの世界では変な迷信が信じられているようである。代表的なものを挙げると、
その1:超高純度信仰、 その2:線材の方向性 その3:クライオ処理
これらのことがいかに根拠のないことであるかを材料科学の立場から説明する。
はじめに、この問題は金属の結晶構造や組織、及び電気抵抗のメカニズムに関連するのですこし講義調の前置きをつける。
図 1 金属だけでなくほとんどの固体(ガラスや非晶質合金以外)は右図に示すように、その構成原子や分子が3次元的に規則正しく並んでいる。これを結晶といい、その構造を結晶構造という。なお、右図で原子(○)を結ぶ線は架空のもで見やすくするために書いてあるが、場合によっては結晶構造を表すのにこの線だけで表すこともある。これを結晶格子と呼ぶ。なお、実際の結晶は下図のように原子はもっと大きく互いに接しあって並んでいる。右図は最も簡単な結晶構造でよく見ると、最小単位は8つの原子が立方体を作り、これが規則正しく並んでいるのがわかる。このような配列をした結晶を単純立方晶とよぶが単体金属には存在しない。
結晶の構造を表すためには、最小単位(単位胞とよぶ)のみを示せばよい。この場合の単位胞は立方体である。
図 2 金属の場合よく出てくるのは右図の面心立方晶と体心立方晶である。面心立方晶は立方体の角と面の中心に原子があり、体心立方晶は立方体の角と中心に原子がある。銅や金、銀は面心立方晶であり、鉄は常温では体心立方晶である。そのほか、図は略すが、亜鉛やコバルトは稠密六方晶という構造を持っている。
図 3 実際に手にする金属(例えば10円玉。以下これを試料とよぶ)は試料全体が一つの結晶(これを単結晶という。右図 左)ではなく、色々な方向を向いた結晶が混ざり合っている。これを多結晶と呼ぶ(右図 右)。同じ方向を向いた個々の結晶を結晶粒(グレイン)とよび、その境界を結晶粒界と呼ぶ。結晶粒の大きさはまちまちだが光学顕微鏡で見られる程度の大きさである。もちろん金属は不透明なので普通の顕微鏡では見えないが、面を磨き、酸などで少し腐食してやると、結晶粒界が優先的に腐食され、金属顕微鏡でみると表面に現れた結晶粒界のパターンを観測することが出来る。このパターンを金属組織とよぶ。金属組織の違いは強度や腐食性などに大きな影響を及ぼす。
図 4 さらに、現実の金属は最初の図のように完全に規則的な配列から外れた部分もある。これを格子欠陥という。
最も簡単な格子欠陥は原子がぬけたサイト(格子位置)である。これを空孔と呼ぶ。ただし空孔濃度はわずかで大雑把には1億格子点につき一個くらいの割合と考えてよい。
不純物も格子欠陥の一種と考えてよい。6N純度の銅なら100万原子につき1個の割合で不純物原子が存在する。空孔、不純物は点欠陥と呼ばれる。
点欠陥に対して線欠陥と呼ばれる欠陥もある。右図で転位として示した部分で、よく見ると、その位置で原子の列が手前から奥に向かって抜けている。この転位の位置は水平方向に容易に移動し、金属が比較的容易に変形するのは、転位が移動するためである。さらに強く加工すると多くの転位が導入され転位密度が増加する。加工や、線引きした直後の銅線には多くの転位が存在する。ただし、これは高温で焼きなますことにより消えてゆく。
また、多結晶の結晶粒界も転位の集合として理解できる。
その他にも色々な格子欠陥があるが金属の場合基本的な欠陥は上記の3種類である。
金属がよく電気を通すのは、結晶中を自由に動く電子が存在するからである。ところが、この電子の運動は、電子を単なる粒子と考えたのでは全く理解できない。例えば、電子がある方向へ直線的に飛翔しようとしても、図1,2の結晶の絵を見ると原子にぶつかりジグザグ運動になりそうである。ところが、図 1 のように、欠陥もなく完全な規則性を示す結晶中を電子が走るときはどの方向であろうと全く抵抗を受けない。従って、高純度のよく焼きなまされた銅の電気抵抗は絶対0度(-273C)付近では限りなく零に近い。*1 このことは、電子の波動性を取り入れた量子力学でないと全く理解できない。電気抵抗が生じるのは、結晶の規則性(周期性)が破れたところで電子が散乱されることによる。当然、格子欠陥は電子の散乱中心となるので、不純物が多い金属や強く加工した金属(転位密度が高い)は抵抗値が大きくなるが、実は、結晶の周期性を乱す最大の原因は原子の熱振動である。
不純物や格子欠陥を考えない場合、絶対零度付近では、結晶は図 1のような完全な周期性を保っているが温度を上げると各原子は熱振動を起こす。ある瞬間の結晶のスナップ写真を撮ったとすると、原子の位置は本来の格子点からずれている。ずれの方向はほぼランダム(無秩序)で、結晶の規則性はいたるところで破れている。また、ずれの大きさは温度とともに増加する。従って、電気抵抗も温度とともに増加する。一方、不純物や格子欠陥の数は数百度C以下ではほとんど変化しないので、不純物による電気抵抗値は温度変化しない。高純度金属の場合、室温付近の電気抵抗の大部分は熱振動によるものである。逆に絶対零度付近の電気抵抗はほとんど不純物、格子欠陥によるものであり、残留抵抗とよぶ。[室温での抵抗値/残留抵抗値(at 4.2K)] を残留抵抗比(RRR)という。 RRR値は超高純度金属の純度の目安として使われる。ちなみに、5N程度の純銅のRRRは数百である。
ただし,RRR値が数百以上の高純度銅の抵抗値は導入された転位による寄与が大きい。線引きなどで強加工された銅線の抵抗値は3~4% 増加する。ケーブル用として市販されている銅線は焼きなまし(アニーリング)により、転位が消失し本来の抵抗値に戻っているはずである。なお、銅の場合アニール温度は400度C 以上が望ましい。(温度が高いほど短時間で転位が消失する。) また、純度が高いほどより低い温度でアニール効果があり、超高純度銅では室温付近でも長時間放置すれば転位密度が減少するという報告もある。
なお、通常のコードに使われているタフピッチ銅というのは酸素を 0.02ー0.05%
含んでいる。ところが、他の不純物の濃度が同じなら、酸素を少し含んでいる方が抵抗値はむしろ少さくなる。それは、酸素が金属不純物と酸化物を形成し、その部分へ集めてしまうので、それ以外の部分の純度がむしろ良くなるからである。
このように、電気抵抗値は単に不純物の平均濃度だけでは決まらないことに注意する必要がある。
*1 完全に電気抵抗が0になるのは超伝導体のみである。 銅や銀はいくら温度を下げても超伝導にならない。それに対しアルミや錫は超伝導体になる。
焼きなまされた通常のOFC銅(99.99%程度)の場合、不純物・格子欠陥による抵抗は、室温での結晶の熱振動による抵抗の300分の1というデータがある。つまり、さらに純度を上げても最大0.3%以上は小さくならない。ところで、室温が1℃下がると抵抗は0.4%低下する。冬になると10℃は下がると思うが、その場合は4%も下がることになる。このことは、要するに、純度をこれ以上高くしても無意味であることを意味する。一方、電流は抵抗の原因が不純物であるのか、熱振動であるのかには関知しない。伝送特性に関係あるのは周波数に依存する交流インピーダンスで、これは全てケーブルの構造によって決まる。ここらあたりが、物理の世界の常識とオーディオ界の常識?が大きく異なるところである。
線材の伝導性に順方向、逆方向があるという話(迷信その2)を聞くが上の説明からもわかるように結晶粒内では或る任意の方向と、その逆の方向は完全に対称であり、その方向および逆の方向に電流が流れる場合も全く等価である。これは、どの結晶粒についても同じであり、単結晶、多結晶いずれの場合も電流の方向を逆転しても抵抗値は不変である。
少し厳密に言うと、一般的には、単結晶内のある特定の方向の伝導率は格子の方向との角度により少し異なるが、逆方向(180度反転した方向)とは全く同じである。これは物理の大原則の一つである時間反転対称性と等価である。
こういう事情を知っている人にとっては、金属の電流方向に順逆があるなど想像すら出来ないことであるが、なぜかオーディオケーブルの世界ではこういう話がまかり通っているのはまことに不可解である。
そのそも、オーディオケーブルの電流方向なるものをどうして決めたのかがよくわからないがここでは想像をたくましくして考えてみる。
(i) 単なる「しるし」説
スピーカーを買ったとき付属しているケーブルはたいがい赤黒の平行線である。これはアンプ出力の赤黒ターミナルとスピーカー端子の赤黒に合わせ接続してやると初心者でも左右スピーカーの位相を間違えることがないという親切心から来ているものと思う。しかし、赤黒ケーブルはいかにもデザイン的にダサイということで、2線ともアイボリー色にしたとしよう。そうすると、何も印がないと位相を間違える可能性が高くなる。そのため、例えば矢印をつけて区別したのが始まりではないかと言う想像。 実際、オーディオテクニカ社ののケーブルについての基礎知識を読むと、矢印がついたケーブルでも、左右スピーカーのつなぎ方さえ同じにすれば方向は気にしなくてもいいと書いてあり、良心的な説明である。
(ii) 製造プロセス説
これはある雑誌で見た説明だが、単結晶銅には方向性があり上流と下流を間違えないようにしなければならないとして何かまことしやかな絵が書いてあったように記憶している。確かに、単結晶銅には方向性はある。これは、多結晶銅から単結晶銅を作るとき一方の端から単結晶を成長させることが多いので、結晶の成長方向という意味の方向性があり製造プロセスの問題である。また、ケーブルの場合、単結晶といっても、1本のケーブルが1つの単結晶ということでなく、結晶粒が線の径程度の大きさになっているものだと思うが、この場合、組織観察をすると、成長方向を示す組織が観測される可能性が考えられる。しかし、上の説明からもわかるように、この方向はあくまで製造プロセスに関わる方向であって電流の流れやすさとは全く無関係である。
* 3芯バランスケーブルの方向性(これは迷信に非ず)
マイクケーブルのような微小信号を扱う場合、コモンモードノイズ(アースと両信号線間のノイズ)の影響を避けるためシールド用外皮と、内部に2本の信号線とグランドレベル接続用の1本の線からなる3芯バランスケーブルを使うが、この場合シールド外皮は一方のコネクターのカバーとだけ接続されているものがある。この場合は本来の目的を達成するためには、必ずそのコネクターを実際にアースされているアンプ側に接続する必要がある。
クライオというのは低温を意味する述語だが、ケーブル線材を一度低温(代表的な温度は液体窒素温度=-196 C)に冷やすと音が変わるというもののようである。「クール」な音にでもなるというのであろうか?
結論を先に言うと、銅や銀などの純金属の場合、一度低温に冷やしても、室温に戻れば完全にもと通りになり、結晶構造や組織は何の変化もうけない。 つまり、一度冷やされた記憶は完全に忘れてしまうわけである。
それでは何故このようなことが言われるようになったのであろうか? 正直よくわからないが、Web
サイトを検索しているうちにその理由らしきものを見つけた。
それは、ある特殊な材料(切削用超硬合金らしい)を低温処理すると硬度が増すことが知られていることを根拠に、銅や銀についても効果がありそうだ、というものであった。
実は、急冷することによって硬度が増す現象は古くから知られている。鋼の焼入れである。ただし、この場合は鋼鉄(炭素を多く含む鉄)を赤熱状態から水にいれ急冷することにより行うもので、何故硬くなるかとの理由も古くから研究されておりわかっている。 鉄は室温では体心立方晶だが温度を上げると面心立方晶になる。炭素を混ぜると、面心立方晶になる温度(変態点という)が下がる。温度を上げ一旦面心立方晶構造にしてから冷却すると、ふたたび体心立方晶に戻る。この時、結晶構造が変わるだけでなく組織も変化し、特に急冷するとマルテンサイトと呼ばれる組織を作る。このような組織が出来ると、鋼は極めて硬くなり、場合によっては脆くなるので、焼き戻しをして少し粘り気を与える。このようなことは経験的に古くから刀鍛冶によって知られていた。
鉄にニッケルや白金などの元素を混ぜると変態点はさらに低下し室温以下になることがある。そうなると、室温から液体窒素温度に冷却する(この世界ではサブゼロ処理という)ことによって変態を起こすこともある。さらに、合金の場合一般に、温度を下げるときの変態温度と、変態後もう一度温度を上げ元の結晶構造に戻る変態温度に大きな差が生じる。したがって、適当な組成を選べば室温から温度を下げ硬い構造をつくり室温に戻してもそのまま硬い状態が維持できる場合もある。
一方、純金属の場合は仮に結晶変態があっても冷却時と昇温時の変態温度はほぼ一致する。(錫等変態温度が低い物質ではかなり差がある場合もある。) さらに、銅や銀の場合は低温から融点まで結晶構造は面心立方のままで結晶変態を起こさない。そのような金属を冷却すると、もちろん熱収縮し、さらに抵抗率の低下などの物性値は変化するが、それはそのときの温度できまる値であって、また室温に戻せば以前のまま室温での値を示す。つまり、冷やす効果は後には何も残らない。
ただ、クライオ処理でちょっと気になるのは、事後処理の方法によっては、表面状態が変化することである。冷えたままの金属を空気にさらすと、霜(すなわち水)がつき、水分のある状態だと腐食しやすい。 銅の場合は空気中の炭酸ガスも加わり、いわゆる緑青(水酸化炭酸銅 CuCO3・Cu(OH)2)が生じる。もし、表面の色が純銅の色と異なっているなら要注意で、その場合はサンドペーパーなどで表面をみがき元の色に戻してやればよい。さらに付け加えると、銅に限らずほとんどの金属は新品でも薄い酸化皮膜で覆われている。しかし、酸化皮膜は安定なので、乾燥した空気中では、ある程度の厚さで表面を覆いつくすとそれ以上厚くならずむしろ酸化を防ぐ役割を果たすことが多い。また、酸化物はそれ自身はほとんど電気を通さないが薄い膜の場合はトンネル効果(量子力学的効果)により容易に電流が流れそれほど障害にならない。もちろん、目で見て汚れがわかるようような場合は接触抵抗が大きくなるのでみがいてやる必要がある。
このように書くと、手持ちのケーブルをより高純度銅を使ったケーブルに変えても伝送特性に何の変化もないと主張しているように思われるかもしれないが、違ったケーブルは当然構造も違うだろうし、構造が違えば本文で詳しく述べたように(音質変化として聴き分けられるレベルではないが)伝送特性は変化する。全く同じ構造のケーブルで線材だけ違えた場合には変化はない主張しているのである。
逆に、ほぼ同じ長さ、同じ構造で純度だけが違うケーブル、あるいはクライオ処理をしたケーブルを比較して、音が変わった(良くなった)と感じたとしたら、それは心理効果に他ならず、心理効果がいかに強く効くかを自ら証明しているものと理解すべきである。
なお、オーディオ(聴覚)における心理効果についての私見をここに掲載しています。