自民党衆議院議員の杉田水脈氏による「LGBTには『生産性』がない」という発言がソーシャルメディアで炎上し、抗議デモも行われている。
私にはアメリカ人のトランスジェンダーの姪がいて彼女の苦労も知っているので、個人的にも憤慨している。
だが、その主要な部分に対しては常見陽平氏など多くの方がすでに批判しているので、そちらにお任せしたい。
私がここで書きたいのは、杉田氏の批判ではなく、静かに蔓延している「LGBTなんて自分には関係ない。それよりもっと多くの人に関係ある貧困問題をなんとかしてよ」、「またポリコレ棒を振り回している人たちがいるよ。めんどくさいなあ」といった感覚の恐ろしさについてだ。私が感じている多くの部分は、小田嶋隆氏が「杉田水脈と民意の絶望的な関係」、勝間和代氏がブログ記事で書いているのでそちらも読んでいただきたい。
滑りやすい坂道
私は、この問題をスルーしてはいけないと思っている。
たとえ「少子化対策」に絞った「税金の使い道」への「意見」であっても、人に対して「生産性がない」という表現を使うのは、英語で言うところの「slippery slope(滑りやすい坂道)」だからだ。
この時点では対象になった人への直接の害はないかもしれないが、この坂道をいったん滑り始めると、加速度的に危険な社会に転げ落ちていく可能性がある。
杉田氏の映像での発言と、笑いながらそれに相槌を打っている人たちの姿を見たときに私の頭に浮かんだのは、6年前に訪問したアウシュヴィッツ強制収容所だった。
アウシュヴィッツ強制収容所の門
第二次世界大戦中にナチスドイツがユダヤ人を大量虐殺したことについてまったく知らない人はいないだろう。だが、「なぜ、ユダヤ人はおとなしく強制収容所に行ったのか?」、「なぜその前に逃げなかったのか?」と思う人がいるかもしれない。
ユダヤ人たちも、最初のうちはナチスドイツがここまでのユダヤ人迫害をするとは想像してはいなかったのだ。
キリスト教が普及し始めたころから、ヨーロッパではユダヤ教徒への差別や迫害がずっと続いていた。ドイツでは、第一次世界大戦の直後から、敗戦とその後の経済難の原因がユダヤ人にあるというプロパガンダが繰り広げられるようになったのだが、何世紀も迫害されてきたユダヤ人らは黙って耐えた。理不尽な差別であっても、これまでのように我慢していたらいつか嵐が去ると思っていたのだ。
だが、そのうち状況はどんどん悪化していった。
そして、ユダヤ人というだけで逮捕され、連れ去られ、殺されるとわかったときには、もうどこにも逃げられない状態になっていたのだ。当時の様子を伝える記録や、ノンフィクション、小説を読めば、「滑りやすい坂道」のたとえがよくわかるだろう。
「人の価値」に条件をつけてしまうことの問題性
杉田氏がLGBTの人々に対して「生産性」という表現を使うのは、なぜ「滑りやすい坂道」なのか?
「生産性」という測りである特定のグループの国民の価値を評価するのは、「国民として、人として同等に扱われるためには条件がある」という前提があるからだ。「人の価値」に条件をつけるのは、「すべての人が生まれながらに持っている普遍的権利」である基本的人権を否定することなのである。
どんな条件であれ、ひとつでもそれを許してしまうと、すべての人が持つ基本的人権が否定されてしまう。その場合には、国家がそのときの都合で特定の人々を「価値がない」と決め、権利を奪い、抑圧し、抹殺することができる。典型的な例が、ナチスドイツで起こったユダヤ人の大量虐殺だ。
ナチスドイツがアウシュビッツで殺戮したのはユダヤ人だけではない。同性愛者、ジプシー、精神障害者、身体障害者も、アウシュビッツで衣服を脱がされ、髪を剃られ、人間としての尊厳を奪われたうえでガス室に送り込まれたのだ。
収容所に到着するなり囚人は履いていた靴を奪われた
杉田氏と彼女を容認する自民党に対して、「言い方は悪いが、少子化対策に絞ったら間違いではない」、「税金の話であり、LGBTの人を攻撃しているわけではない」と擁護する人がいる。違和感は覚えるのだが、「たいしたことではない」とスルーしてしまう人もいる。彼らは積極的な差別者ではない。でも、ナチスドイツが最初に反ユダヤ主義のプロパガンダをしたころに「たいしたことではない」とスルーした人たちとそう変わらないのだ。
私が杉田氏のプロパガンダを載せた『新潮45 』 に対して憤慨したのは、この点なのだ。小田嶋隆氏は「おいおい、『新潮45』は、ついにこのテの言論吐瀉物をノーチェックで載せる媒体になっちまったのか」と書いておられるが、編集者は「人の価値に条件をつける」ことについて異論を持たなかったのだろうか? メディアの姿勢として、それでいいのだろうか?
政治家が国民に対して「生産性」という表現を使うことをいったん許してしまったら、次に「人として価値がない」と言われるのは、あなたかもしれないし、私かもしれない。
これは、そのくらいすべての人が当事者性を持つべき問題なのだ。