プレアデス賛歌   作:M.M.M
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ユリとシズの帝都姉妹旅情

「その鏡、見せてくださいますか?」

女性が商人に声をかけた。

「はい、ど……」

彼はにこやかに応じようとしたが、相手があまりの美貌だったため言葉を忘れるという初歩的なミスをした。商売の初歩を学び始めたばかりの頃にやった失敗だ。師匠から「商人が黙るな!」と殴られた時の痛みを彼は思い出す。

「どうぞ……」

手鏡にしてはやや大きすぎるそれを恭しく渡す。女性が受け取るときにその手に精巧な彫刻が施された指輪があることを彼は見逃さない。女性はそれを眺め、彼も目の前の客を観察する。服装は一般的な旅人という感じだが、首に巻かれた大粒の宝石をつけた装飾品がそれを徹底的に否定していた。帝都の住人でないことは即座にわかった。こんな美人がいたら噂にならないわけがない。大きな瞳は塗れた黒玉のように光を反射し、鼻梁は美の神が掘ったかのような一品、その下の唇はあらゆる男を虜にする世界の花弁だ。"茶色"の髪を纏め上げ、彼の知らない結い方をしている。

気付けば隣にいるストレートの髪の少女もいくら称賛しても足りない容姿だ。こんな美人二人がどんな理由で旅をしているのか、他に連れがいるのか、彼はいろいろ聞きたくなったが、その衝動を抑える。重要なことは彼女らの素性ではない。懐具合だ。

装飾品から見てかなり裕福であるはずだが、貴族ではない。貴族なら自分で買い物になど行かず、商人を呼びつけるからだ。裕福な家の接客女中が休暇をもらって同僚と旅をしている。そんなところだろうか。

(銀貨2枚でいけるか?)

彼は鏡の値段をいくらに設定するか考える。彼女が持つ鏡は持ち運ぶには大きすぎ、家で使うには小さすぎる中途半端なものだ。細かな装飾はあるが流行りではないし、奇妙な刻印もあった。はっきり言って「変な鏡」なのだが、人の趣味は様々だ。手にとったなら興味があるということで、貴族の所有していたなどと言えば高い値段で買うかもしれない。

「これ、おいくらでしょう?」

美女は商人の目を見て聞いた。

「銀貨2枚です。高いと思うかもしれませんが、それは由緒ある……」

「わかりました。買います」

彼が作り話を述べる前に女性は即決した。

「え?」

「買います」

女性は財布から銀貨を出した。

(しまった!こんなに緩い客ならもっと高い金額を吹っかけておけば……)

商人は後悔したがすでに遅かった。彼はすでに売値を述べている。自分が口にした額を後出しで上げるのはご法度だ。

「どうかなさいましたか?」

「い、いいえ」

(まさか俺が価値を見誤ってるわけじゃないよな?)

商人は相手がまったく値切らないことで不安になった。美術品としての価値はないと思っていたが、遠い国で名のある一品なのだろうか。

(あるいは、魔法がかかっているとか?)

マジックアイテムという考えを彼はすぐに否定する。知り合いの魔術師に魔法探知をしてもらったことがあるからだ。また、魔法探知でマジックアイテムを市場から見つける発想は昔からあり、この市場でも試した魔術師は大勢いるはずだ。露天商は自分の言い値で商品を売れたにもかかわらず、しばらく思考の渦に沈んだ。

 

 

「…………姉様、どう?」

戦闘メイドが一人、CZ2128・Δ、通称シズ・デルタは歩きながら姉に聞いた。普段はユリ姉と呼ぶが今はその名前を使えない。

「面白い鏡だわ。短い距離だけど周囲を覗けるマジックアイテムよ。第3位階の魔法がかかってる」

ユリ・アルファはそう言うと鏡を無限の背負い袋に仕舞った。

「魔法のかかった武器は同じ重さの黄金と同じ価値があるそうだけど、これも金貨1枚2枚よりは絶対に高いはず」

「…………お買い得」

シズはさっきの商人を笑っているとユリにはわかる。

「でも私たちも普段なら気づかないから仕方ないわ。全ては”これ”のおかげよ」

ユリはいつもの伊達メガネと違う”それ”を指した。

「…………さすがはア……あの御方」

「そうね」

ユリはくすりと笑う。

今、ユリがかけているメガネはアインズから貸与されたマジックアイテムである。その効果はアインズも使える道具上位鑑定(オール・アプレイザル・マジックアイテム)魔法探知(ディテクト・マジック)。そしてこの任務に肝心なもう一つの能力、隠蔽看破。

アイテムが魔法を帯びているかどうかは通常なら探知魔法で判明し、鑑定魔法でその効果も判明するが、それらを回避する隠蔽魔法も存在する。魔法の罠を隠す、盗難を防ぐ、諜報活動のためなど様々な理由で使われるが、所有者がそのことを伏せたまま死亡するか何らかの理由でそれを手放せば、誰も本来の効果を知らないままアイテムが他人の手に渡ることがある。

正確に言えば高位の魔術師はその隠蔽を看破できるが、逆に言えば低位の魔術師は看破できないということ。そこにアインズは注目した。本来の価値を誰も知らない隠れマジックアイテムが市場に流通しているかもしれず、その中には強力な効果を持つアイテムもあるかもしれない。看破できるアイテムを渡すからまずは帝都を調べてきてほしいという命令にユリ・アルファとシズ・デルタは恭しく頭を下げた。至高の御方からの勅命。嬉しくないわけがない。

「…………でも、第3位階なら大したことない」

「そうね」

ユリもそこは認める。ナザリックでは「で?」と言われるレベルの魔法だ。これまで帝都で見つけた隠れマジックアイテムの品々も大したものではない。1日1度だけ相手に魅了をかけるレンズ、毒感知の皿、精神魔法への抵抗を増すお守り、弱いモンスターを1匹だけ封印する壷。どれもナザリックで役立つレベルには程遠い。

しかし、二人は落ち込んでいるわけではない。隠蔽魔法を解いて通常のマジックアイテムとして売却すれば人間社会での資金源になるからだ。

「ところで、どう、シズ?中央市場というのは本当に賑やかでしょう?」

「…………うん」

シズは素直に肯定した。

ユリもシズもナザリックにおいては珍しく人間を蔑視していない。ユリにいたっては彼らは良い面もある生き物だと思っている(ナザリックに敵意を持つなら容赦なく殺すけれど)。帝都の中央市場は数十万点の商品で溢れ返っており、服や装飾品や食品を買わないかと叫ぶ売り子や店主、買値を次々に叫び合う競り市などナザリックには決してない賑やかさがある。仲間たちが下品で下劣と形容する場所で彼女はなかなか楽しい時間を過ごしていた。

シズは具体的な感想を述べていないが、ぬいぐるみを売っている露店でナザリックにいるペンギン、エクレアに少し似た商品をじっと見ていたのをユリは見逃さなかった。いつか機会があれば買ってあげようかと考える。

芋を洗うような混雑の中、ユリのバッグに後ろからすっと手が伸びた。ピシャリという音が鳴り、腕が引っ込む。

「でも、これだけは本当に鬱陶しいわね」

ユリが言った。その手にはいつどこから取り出したのか教鞭があった。

彼女が手を振るとそれは消える。

「…………始末する?」

「よしなさい」

彼女はシズを諌めた。中央市場にはよくスリが出る。事前に注意されていたが、これで3度目だった。

シズはガンナーであるが、アサシンの職業も持っている。スキルの一つを使えば誰にも気づかれずスリを殺すことは容易だ。自分たちの所持金の本来の所有者を考えればシズの主張もわからなくはないが、こんな場所でその能力を披露してほしくない。

「目立つ行為は厳禁よ」

ユリは注意する。

二人は帝都内に魔法で転移してきた。はっきりいえば密入国である。彼女たちは1ヶ月ほど前にナザリックに謝罪のため訪れた皇帝やその側近と顔を合わせており、今はいくらか変装しているが、騒ぎを起こして彼らの一人に見つかればおそらくばれるだろう(万が一ばれたら観光だと言い張れと言われている)。

「あの御方のお言葉は?」

「…………絶対」

「よろしい」

ユリは妹の言葉に満足する。

「それじゃ今度はシズが探してくれる?」

ユリはそう言って自分のメガネを差し出した。

「…………いいの?」

「ええ」

ユリは微笑む。

妹もマジックアイテムを探したいと思っていることはわかっていた。シズは万が一の戦闘に備えての護衛でもあるが、それは起こりそうもなく、見ているだけではやり甲斐がないだろう。

シズはメガネを受け取るとそれをかけた。

(うーん、似合わない……)

その感想をユリは押し殺す。

「普通のマジックアイテムと間違わないように注意して。隠蔽されてるとオーラの濃さが違うから」

「…………わかってる」

シズは人の波を掻き分けながら店の商品をチェックしてゆく。

5分ほど歩いたとき、彼女は目的のものを発見した。

「…………あった」

シズは露天商が敷物の上に並べた多くの指輪の中から一つを指した。

「あの指輪ね。買いましょう」

ユリはその指輪をよく見る。マジックアイテムの指輪はたいてい錆や破損を防ぐために金や銀、白金などの貴金属で作られるが、例外もある。今回はその例外である銅製のものだった。大した魔法はかかっていないのだろう。

「…………これ、ほしい」

シズは露天商に言った。

「はい!いらっ……しゃい……」

対応したのは店主にしては若すぎる少年のものだった。あまりにも若いので店主の息子か弟子が店番しているのだろうとユリは考える。色恋には早すぎる年齢だが、これ以上ないであろう美貌を見て顔に赤みが差している。

「…………これ、ほしい」

シズはまた言った。

「……あ、すみません!こちらの指輪ですか?えっと、2銅貨でどうです?」

少年は少し考えてから値段を言った。

「…………うん、それでいい」

「はい!」

言い値で売れたことが嬉しいのだろう。子供店主は頬を緩める。

「…………銀貨でいい?」

シズは財布を見てから言った。

「うーん、本当は困るんですけど、ないなら構いませんよ?」

シズは銀貨を一枚出し、少年の手の平に乗せた。

その時だった。

小さな黒い影がシズと店主の間を横切り、天高く舞い上がった。そのクチバシに銀貨を加えて。

クアランベラト。キラキラと光って動くものを集める習性のあるこの鳥が時々こうやって人々の所持品を掻っ攫うことをユリとシズはこの時初めて知った。二人とも本来なら鳥に奪われる前に対応できただろう。それが遅れたのは無数の群衆から来る視線、そして先ほどからそれに紛れるスリに警戒していたためだ。

「……ああ!」

少年は遅れて悲鳴を上げた。

シズがユリを見る。その目は射殺の許可を求めているが、彼女は首を横に振って「駄目よ」と伝える。シズがあの鳥を撃ち落すことは容易だが、これほど目立つことはないだろう。自分が飛行のマジックアイテムを使って追いかけることも同様だ。彼女は自分の足元に向かって小さく「追いなさい」と告げた。ユリとシズにだけわかる気配が鳥の飛んでゆく方へ向かっていく。

少年は頭を抱えた。

「うああ……師匠に……殴られる」

ユリは少年に少し同情する。普通の人間にあれを防ぐ事は不可能だろう。

「…………ごめんなさい」

シズは申し訳なさそうに言った。

「いいえ、今のは私も不注意だったわ」

ユリも自分を叱りたかった。

「あの……今のは……」

少年は恐る恐る聞いた。

理屈で言えば彼の手に硬貨を置いてから盗まれたのだから店の責任といえるだろうが、銀貨1枚を弁償しろといえば「お客さんの渡し方が悪かった」などと言い出して面倒なことになるかもしれない。だが、ユリにそんな気はなかった。

「いいえ、今のはこちらの不注意でした」

ユリはシズに目で告げる。彼女はもう一枚銀貨を出して少年に渡した。

「え、いいんですか?でも……」

「構いません」

どうせ銀貨は戻ってくるから、とは言わない。

「その代わり、ご店主。私たちは帝都に来たばかりであまりここに詳しくありません。不思議な言い伝えや噂のある品物をご存知なら教えていただけますか?」

「不思議な言い伝えや噂、ですか?」

少年はきょとんとする。こんな事を聞かれたのは初めてなのだろう。

「はい、私たちの主人がそういった物の収集家なのです。面白い噂があれば聞きたいのですが」

ユリはそういう言い伝えを持つ品物に実は魔法がかかっている可能性を考えた。せっかくなのでこの小さな店主から隠れマジックアイテムの噂でも聞けたら儲けものと思ったのだ。

ユリ・アルファは意外にちゃっかりしている。

「えーと、少し待ってください」

少年は先ほどの罪悪感があるらしく、顎に手を当てて真剣に考え始めた。

シズがユリの方をじっと見る。目に謝罪と後悔がこもっており、彼女は微笑んで妹の頭をなでた。

 

 

「願いを叶える指輪?」

ユリとシズが顔を見合わせたのは少年からいくつか話を聞き、水の神殿にあるという指輪の話に差し掛かった時だった。

「はい、あそこの指輪にそういう言い伝えがあります」

ユリの頭にすぐ浮かんだのは至高の御方が所有するという超々レアアイテム、流れ星の指輪(シューティングスター)だ。シズも同じだろう。もしもあれか類似したアイテムがこの都市に存在するならいくら払ってでも手に入れるべきだ。しかし、あまりにも信憑性の低い話だった。

「…………胡散臭い」

「こら、シズ」

ユリは窘めたが彼女自身も単なる御伽噺だろうと思った。そんな超希少アイテムが一般に公開されるはずがないし、隠蔽魔法でそんな強力な魔法を隠せるかという疑問もある。

「いいですよ。僕も祈ったことがありますが、まだ叶っていませんから」

少年は笑った。

(アインズ様はご存知なのかしら?)

ユリは考える。そしてすぐに知らないはずだと結論する。知っていれば最初にそこを調べるように指示を出したはずだから。2人がモモンとナーベとして帝都を見学した期間は短く、しかも中央市場や北市場に重点を置いていた。二人の耳にこの話が届いていなくてもおかしくはない。

「…………それは誰かが魔法で鑑定しないの?」

ユリに浮かんだ疑問をシズが代弁してくれた。

「神殿が禁止してるんです。神を疑ってはいけないって」

うまい理屈ね、とユリは思う。

「その場所を教えていただけますか?」

おそらく無駄骨に終わるだろうが、万に一つの可能性を考えて確認しに行くことにした。

 

 

「…………うわあ」

シズのつぶやきを横で聞くユリも同じことを言いたかった。水の神殿には長い行列ができていた。長い長い行列が。多くは観光客なのだろうか。傷病人らしき人々もいくらか混ざっている。彼らは自分の回復を祈るのだろうか。それは神官の仕事なのだから指輪に願うのは奇妙だが、本人たちの勝手かとユリは思った。

「これに並ぶのは気が引けるわね。指輪を見たいだけなのに」

行列は非常に長く、なかなか進んでいない。今から並べばどれだけ時間がかかるかわからず、おそらくはガセであろう指輪をそこまで時間をかけて見るべきかユリは悩んだ。

「見るだけならば方法がありますよ」

その声にユリが振り向くとどこかの家の使用人らしい服装の男が立っていた。白い服を着た幼い少女が彼の手を握っている。少女は笑えば天使のようだと言われる年齢だが、どういうわけかその顔には心労が濃い。

「あちらに神官がいますでしょう?彼に銀貨5枚以上の寄付をすれば神殿を見学させてもらえます。あの指輪を見たいと言えば見せてもらえると思いますよ」

「そうなのですか?」

思わぬ解決法にユリは驚く。

「はい。立ち聞きするつもりはなかったのですが、話が聞こえてしまいましたもので。ご不快に思われましたら申し訳ありません」

「いいえ、大変助かりました」

ユリは頭を下げ、シズもペコリと続く。その程度の出費なら許容範囲だ。

男は微笑み、少女をつれて列に並んでゆく。良い身なりだが、少女の表情を見る限り願いはかなり深刻なものだろうと彼女は思った。

「…………姉様、行こう」

「ええ」

そう言って神殿に入ろうとしたユリだが、ピタリと足を止めた。

「…………姉様?」

「シズ、悪いけど一人で行ってきてくれる?ここは神殿だから念のためにね」

ユリは小声でそう言い、シズが理解するのを待つ。

「…………あ」

シズもわかったようだ。ユリはアンデッドであり、探知系魔法を阻害するマジックアイテムを装備することで正体が露見しないようにしている。しかし、指輪は種族特性や弱点を消すわけではない。もしも神殿内でアンデッドに有害な魔法が発動していれば面倒なことになる。

「…………わかった。見てくる」

シズが神殿に入り、男に言われた神官に声をかけるのをユリは見守る。いくらかやり取りがあり、シズが寄付を払うと奥へ導かれた。万が一のことが起きた場合、彼女にもシャドウデーモンが控えているし、転移用のアイテムを持っているから問題ないだろうとユリは考える。

行列に並んだ者たちがシズを目で追う。それは容姿のためか、寄付を払える身分のためか。ユリは神殿を出入りする人々を観察する。やはり神殿なので信者らしい人々が多いが、傷病人やその家族らしい人々もちらほらと見える。

「はあ……」

ユリはため息を漏らした。呼吸を必要としないアンデッドでもそれくらいは出る。神殿から盲いた子供が杖をついて出てくるのを見たからだ。人間の習得できる魔法はほとんどが第3位階までであり、あれを治せる魔法がないか治療費が払えないのだろう。哀れなことだと彼女は思う。自分の妹、ルプスレギナなら一瞬で治せるのに。

しかし、そんなことは起きないと彼女はわかっている。命令されるなら別として、あの妹が人間を治療したいなどと思うはずがない。治ると言って喜ばせ、「やっぱり無理っすわー」と絶望の底へ突き落とすようなことを言うだろう。

「はあ……」

またため息。

そこで彼女は一つのアイデアが浮かんだ。魔導国が世界を征服した後、神殿で治せない患者をこちらで治したらどうか。神殿でも治せない怪我や病気を治せば人間は魔導国に敬服し、忠誠を誓うのではないか。

その思い付きを彼女はすぐ引っ込める。そう上手くいくはずがない。アンデッドを憎む神殿はそれを敵対行動と捉え、戦いを挑んでくるかもしれない。他にも無数の問題が出てくるだろう。そもそもナザリックに貢献できるほど優秀な人材ならともかく普通の人間を治療しても利益がない。

もっとナザリックに利益があり、人間達も幸福になれる方法はないものかとユリが考えていると背後の影に別の影から何かが移り込んだ。あの銀貨泥棒を追わせたシャドウデーモンだ。銀貨を回収してきたのだろうと彼女は思ったが、それはゆるりと伸びてひそひそと耳打ちした。

「……そう、わかったわ」

彼女は銀貨の行き先を知って眉をひそめる。

ちょうどその時、神殿からシズが出てきた。

「…………姉様、行かなくて正解だった」

「え?」

「…………神殿の奥の部屋が浄化されてた」

「ああ、そういうこと」

アンデッドにとって聖なる力を帯びた水や空気は酸のように作用する。ユリが死ぬことはありえないが面倒なことになっただろう。やはり神殿とは相性が悪いと彼女は思う。

「行かないで良かったわ。ということは、指輪はやっぱり?」

「…………ただの指輪だった」

「でしょうね」

超位魔法を宿すマジックアイテムがこんなところに置かれているわけがない。わかっていたことだが、彼女は少し落胆する。

「じゃあ行きましょう。銀貨の場所がわかったわ。少し面倒な所にあるけど取り戻さないと」

「…………うん」

ユリは去り際にあの親切な使用人と少女に目をやる。行列はほとんど進んでいない。そしてその先に待っているのは魔法などかかっていないただの指輪。哀れなことだ。先ほどのお礼に何かしてあげようかという考えが浮かんだ自分を戒める。これで面倒事を背負い込んだらセバス様の二の舞だと。

二人はその場を立ち去った。

 

 

一人の男が建物の屋上で酒を飲んでいた。

空から一匹のクアランベラトが彼の肩に舞い降りる。

「おお、よしよし」

彼はそのクチバシから収穫を受け取る。

「なんだ……」

落胆の声。鳥が持ってきたのは金色のスプーンだった。本物の金なら素晴らしいが色はくすんでおり黄銅のメッキだとわかる。ほとんど価値はない。

彼はそれをポケットへ入れた。今日の収穫物はいくつかの指輪、ネックレス、食器、そして銀貨だった。

「もう一回行ってこい」

彼はそう言って鳥を飛ばした。

男の名前はドリー。職業はドルイドであり、1ヶ月ほど前まではグリンガムというワーカーが率いるパーティの一員であった。仕事に行ったリーダー率いる仲間が全滅したため、静養していた残りのメンバーはすぐに解散した。元々、性格に問題のあるメンバーばかりで、強い指揮力のあるグリンガムが死んだ今ではパーティの維持は不可能だとお互いに認めたためだ。

ドリーもまた大部分のワーカーと同じく将来設計ができず、普通ならドルイドとしていくらでも働き口があるにも関わらずまともに働いていない。酒と女に溺れ、博打による借金を抱えていた。

「今日は上手くいかないなあ」

彼は愚痴を言う。

魔法の動物種・魅了(チャーム・アニマル)を使って鳥を操り、高級な装飾品や金貨を盗ませ、自分の懐に入れる。盗まれた者は動物の仕業だから諦めるだろう。この計画を思いついた時は自分を天才だと思ったが、すぐに欠陥に気づいた。鳥は高度な知性がなく、どこに飛んで行き何を盗むか具体的な命令はできない。仮にできたとしても中央市場に高級商品が並ぶはずがないし、そこで金貨を使うような身分の者もまずいない。かといって北市場の品は屈強な戦士や魔術師がいるので成功率が低い。割のよい犯罪ではない。

「宝石をつけた女でもいないか……」

彼は建物から路上を眺める。高貴な身分の者は馬車で移動するとわかっているが、何気なく口にしたことだった。

そこへ後ろから美しい声がした。

「いるわよ」

「え?ぎゃあ!」

振り向く前に後頭部に激痛が走った。

視界が一瞬白くなり、次に真っ暗になる。

「うああ……あ?」

ドリーは振り返ったが、視界は黒いままだ。袋でも被せられたのかと頭に触るが、何もなかった。

「え?え?」

「貴方はもう何も見えないわ」

美しい声がまた聞こえた。

「さて、盗んだ銀貨を返してもらえる?何のことかはわかるでしょう?」

「うああ……わ、わかった!」

ドリーはポケットから手探りで銀貨を出すと宙に差し出した。それが手から離れるのがわかった。

「さて、彼をどうする?」

美しい声が誰かに尋ねた。

「…………殺すべき」

別の美しい声が聞こえた。それには激しい憤怒と殺意が篭っていた。

「待ってくれ!金は全部やる!だから見逃してくれ!」

彼は懐から財布を出して前に置くと、跪いて額を床にこすりつけた。

「もう絶対にしない!頼む!許してくれ!」

「こう言ってるけど、どうする?」

「…………殺すべき」

先ほどとまったく同じ雰囲気の声。

「そうね。都合のよい時だけ善人には戻れないわ」

もう一人も同意した。

「貴方の盗んだお金が誰かの大切な治療費だったら、と考えたことはある?自分の軽い出来心で誰かがもの凄く苦しむとか、そういう可能性を考えたことがないでしょう?」

「ひいいいいい!頼む!頼むから!」

ドリーは震えて懇願した。この計画には少しの危険があるとは思っていた。冒険者や魔術師、あるいは裏社会の誰かの所持品でも盗めば危ないと。しかし、それでも鳥が殺されるだけで、まさか自分を発見する者などいないと思っていた。しかし、いたのだ。目の前に二人。美しい声を持つ何者かが。

「貴方、本当に反省している?」

最初に聞こえたほうの声が優しく言った。

「もちろんだ!」

「今だけ反省してまた同じ事を繰り返すつもりじゃない?」

「もうしない!神に誓う!」

彼は自然神を信仰しているが、善神や平和の神を信仰しているわけではない。しかし、今だけは真剣に彼らに誓った。神様、もう悪いことはしませんと。

はあ、というため息が聞こえた。

「どうする?」

「…………殺すべき」

(どうしたらこいつは許してくれるんだ!!)

ドリーは涙を流し始めた。

都合のいい時だけ善人には戻れない。その言葉がよみがえる。

「ねえ、一度だけチャンスをあげましょう?もう彼の目は見えない。それを代償として真面目に生きていく気はある?」

「え?」

治してくれないのか?

彼の口からその言葉が出かかった。

「何の代償もなく解放されると思ったの?」

優しい声にも冷たいものが混ざった。

「私も彼女も貴方を殺すことに些かの躊躇もないわ。やっぱり反省してないのね。それじゃ、さようなら」

殺意が二つに増えた。

「ひいいい!わかった!このまま生きていく!だから命だけは!」

男はガタガタと体を震わせて慈悲を請う。

「……だそうよ?どうする?私は一度だけチャンスをあげようと思うけど」

「…………姉様がそう決めたなら」

「ありがとう」

ドリーの心に光明が差す。

「貴方が再び悪事を行った時、私たちはまたやってくる。いいわね?」

「はい!」

二つの気配が消えた後もドリーは平伏し続けた。

やがて一匹のクアランベラトがその肩に止まり、「かあ」と鳴いた。

 

 

「金貨150枚。けっこうな値段になったわね」

集めたマジックアイテムを魔術師協会で査定してもらったユリは言った。

「…………アインズ様、お喜びになる?」

周りに人がいないのでシズは尊い名前を口に出す。

「ええ、きっと」

ユリは微笑んだ。

強力なアイテムこそなかったが、それは始めから期待していない。しかし、普通のマジックアイテムは当初「1つもなくても驚かない」と言われていたので総数18個、金貨150枚という結果は至高の御方を喜ばせるものだろうと彼女は思った。アダマンタイト級冒険者への報酬に比べればそこまで大金というわけではないが、半日歩いただけでこの収入であり、他の都市でも見つかる可能性はある。

マジックアイテムはまだ売却していない。魔術師協会とは別にマジックアイテム専門の商人もいると市場で聞き、買取額に違いがあるか確かめたいからだ。より高い値がつく品はそちらへ売ればよい。

「…………最後のお店、けっこう遠い」

「そうね」

シズの珍しいぼやきにユリは同意する。距離的に転移アイテムを使いたかったが、あれは見たことのない場所へは使えない。店の場所を聞き、治安のいい高級住宅街を通るので問題ないだろうと彼女は判断した。

しかし、今日に限っては違っていた。

「離して!」

ユリの耳に幼い声が届いた。敷石舗装された道の先を見れば男が屋敷から小さな少女を抱え、馬車に乗せようとしている。

ユリは怒りを覚えつつ、次に少女の顔を見て驚く。神殿で出会った少女だった。その子供を抱える男はどう見ても家族が雇った使用人には見えない。良くて山賊だ。

(まさか誘拐?)

ユリは足に力をこめるがすぐに感情を押し殺して利害を考える。ナザリックに利益がない限り目立つ行動をとるべきでない。では、利益があれば?

少女の身なりの良さを見てユリは一つの考えが浮かび、行動を決めた。

「ユリ姉!」

シズが発した言葉は遥か先のユリの背中へ向かう。地面を蹴って真横に跳躍する高速移動スキルだ。50メートル以上の距離をユリは5歩で詰める。

「おわっ!」

一瞬で馬車の前に現れ、進路を塞いだユリを見て男は驚く。

「失礼ですが、貴方がしていることは合法的なことですか?」

ユリはまず質問した。事情もわからないのに暴力はまずい。

「助けて!」

少女が助けを求めた。ユリの心に細波が立つ。足音で後ろにシズが追いついたのがわかった。

「な、なんだ、お前ら?」

男は数歩下がる。普通なら女の一人二人など凄んで追い払いそうな風体だが、ユリの動きが普通でなかったため警戒している。

ユリは屋敷の敷地内を見る。4人の人間がいた。最初に観察したのは夫婦らしき中年の男女だ。夫は額縁に入れて「破滅した男」と題名をつければ映えそうな絶望の表情をとっている。妻らしき女のほうは泣いており、そして神殿で出会った使用人の男が悲痛な顔で女性の肩を押さえている。全員が何かを諦めたような表情で、突然の暴力で家族を奪われる風ではない。

(誘拐じゃなさそうね)

まずいと彼女は思う。誘拐なら両親に恩を売り、高級住宅街に住む人間なら所有しているだろう調度品や装飾品を見せてもらおうと考えていたからだ。宝石や貴金属品に隠蔽されたマジックアイテムが紛れている可能性があった。

ユリは3人とは別にいるもう1人の人物を見る。絶望する夫の傍にいる山賊風の男その2だ。おそらく娘を連れて行こうとした男は部下で、この男が上司だろうと彼女は推測する。

「……ん?どうした?なんだ、お前ら?」

男はユリの顔を見て一瞬恍惚となったが、すぐに自分たちの邪魔をしてると理解し、危険な表情に変わった。

「邪魔する気か?」

「これは誘拐なのですか?」

ユリは違うだろうと思いながらも聞いてみる。

「お前らには関係ない。怪我する前に消えろ」

リーダーはユリの方へ歩き出す。攻撃性を剥き出しにし、今すぐ退かなければ襲い掛かるといわんばかりだ。

しかし、ユリから見れば子犬が威嚇するようなものだ。おそらくこちらの出方を試しているのだろうと思う。

ならばどうすればよいか。

こちらもちょっと威嚇してあげよう。

「消えろと言って……」

そこまで言って男の口と足が止まった。

少女を捕まえていた男も彼女を手放して「ひい!」と声を上げた。

残りの者は何が起きているかわかっていない。

「お……おお……」

彼の体が震え始める。顔に汗が噴き出し、すぐに顎から滴った。冒険者、ワーカー、騎士、犯罪者、様々な危険人物を彼らは相手にしてきた。格上の相手もいたし、危険な瞬間もあった。しかし、それらとは次元の違う恐怖が彼らを包んでいた。

(ウズルスどころじゃねえ!)

金貸し屋、ジョマは断頭台に立たされたように震えながら思った。彼が出会った中で最も危険な人物はウズルスというワーカーだった。自分の仲間と一悶着あり、相手の性格を見るために凄んでみたのだが、逆に暴風のような殺気を浴びてすぐに平伏した。謝罪が少しでも遅れていたら首が飛んでいただろう。

しかし、あれが可愛いと思えるレベルの猛者が目の前にいた。人間というよりモンスター、それも災害級モンスターに睨まれているような感覚だった。

「これは合法的なことですか?」

ユリは静かに聞いた。

「そ、そうだ……お、俺たちは、ほ、ほ、法に則ってる……」

彼は震えながら答えた。

ユリはちらりと少女を見る。

「そうは見えませんが?」

「ほ、本当だ!奴らに聞いてくれ!」

彼は懇願するように叫んだ。

ユリは使用人のほうを見る。彼はすぐ理解した。

「旦那様は彼らに借金をなさっているのです。支払いの期限が来たため、屋敷の財産は差し押さえられ、経済的に養えなくなったお嬢様は彼らのご好意により知り合いの夫婦の家に養子に出される()()()()()()()()()()()()

ユリはすぐに意味を察した。借金のカタというやつだ。少女の行く先はろくな場所ではないのだろう。帝国でも王国でも人間の奴隷制度はなくなったので無茶苦茶な要求はできないという話だが、法ができて犯罪が消えるなら苦労はしない。セバスの救った人間がよい証拠だ。

同時に、ユリは自分が彼女を救う手段がないことも理解する。相手は合法的に事を進められるように根回ししてるはずで、帝国法など知らないユリに止める方法はない。相手は今は恐怖で凍り付いているが、こちらも違法な事はできないと気づけばすぐに仕事に取り掛かるだろう。

ユリは母親の元へ走って戻った少女を見る。怯えた目をし、小さな手が母親の服を必死に掴んでいる。この手を離したら奈落の底へ落ち、二度と上がれないと理解している者の目だ。

「屋敷の財産はもう没収したのですか?」

「いいや……」

男は怯えたまま言った。

ユリは相手の恐怖が消えないうちに話を進めようと考えた。

「なら、ちょうどよかった。私達は美術品を見て回っています。屋敷にあるものを見せて頂けますか?良いものがあればこの場で買い取りますから」

「そ、それは……」

男はどうするべきかを考え出した。相手は得体の知れない怪物であり、さっさとあの子供を運んでしまいたいというのが本音だろう。

「良い品があれば即金で買い取ります。そちらも買い手が今見つかるなら都合が良いでしょう?」

ユリは財布を開ける。中にあるのは黄金の輝き。それを見て男の表情が少し変わった。その横では借金に苦しむ家族が羨望に満ちた顔をする。

「び、美術品の業者ってことか……?」

「まあ、そんなところです」

彼女は微笑んだ。

「…………姉様」

シズが不安の声を出した。

「心配ないわ。ここに良い品があるかもしれないでしょう?それならあの御方も喜ばれるでしょう。すぐ済むことだし」

ユリがそう言った相手はシズだけではない。自分自身に対してもだった。

自分は隠蔽されたマジックアイテムを見つけるために屋敷を見て回るだけ。それだけだ。もしかしたらその最中に()()()()この家族の利用方法を思いつくかもしれないが、その時はナザリックの利益になるのだから助けてやればよい。

そう、これはナザリックのためだ。

決してあの少女のためではない。

そうではない。

そうであってはならないのだ。

 

 

玄関に入ると多くの美術品が出迎えた。ガラス細工、陶磁器、金属器。貴族がこういう美術品や調度品で身分や財力を誇示するのは理解できるが、それにしても多いなとユリは思った。普通ならもっと空間にゆとりを持たせるはずだ。見た瞬間こそ豪華だが、狭々しく落ち着きがない。

「ずいぶん多いのですね」

「ああ……」

借金取りのリーダーは恐る恐るユリとシズを案内する。

「ここの方は貴族なのですか?」

「元、貴族だ。あの男は。称号を剥奪されてから異常なくらいこの屋敷を飾りだした」

虚飾という言葉がユリの頭に浮かぶ。

「なあ、一つ聞かせてくれ。本当に良い品があったら買い取ってくれるんだよな?」

男は不安な顔で聞いてきた。

「もちろんです」

「そうか。信じるぜ。商売なら俺もしっかりやるよ。俺はジョマっていうんだ。金貸しや美術品のことなら相談に乗るから今後ともご贔屓に」

ジョマの目から恐怖が薄れ、商売用の表情になった。

「さっきは早く縁を切りたいと思ったが、話が通じるなら仲良くやりたいもんだ。気になる品があったら言ってくれ。応接間はこっちだ」

(切り替えが早いわね……)

ユリは少し感心した。こちらの強さに気づいて萎縮したが、すり寄って味方にできれば心強いと思ったのだろう。

応接間は玄関より遥かに多くの美術品が飾られていた。客人にそれを見せびらかすための空間なのだから当然ではあるが、それにしても多すぎる。店か倉庫のようで、ユリの美的感覚からすれば醜悪といえるほどだった。

「もっと整理すればいいのに」

ユリはつい呟いた。

「貴族位を失った奴はたいていこうなるんだ。同じ事をする客をもう一人知ってるよ」

ジョマが言った。

「領地と本邸(カントリーハウス)を失ったあとは別邸(タウンハウス)や別荘に引きこもる。そして働かずに財産を食いつぶすんだ」

「どうして?力をつけて位を取り戻せばいいのでは?」

仕事に関係ないことだが、ユリは聞いてしまった。

彼はどう説明したらよいか悩んだ風だった。

「つまりな、連中は自分が働く側になるなんて想像もしてないんだ。下々の者を監督してれば税を納めてくれる。普通は領主がいくらか無能でもある程度は部下が補ってくれる。しかし、我らが皇帝陛下は無能な領主を許さない。より有能な人間がいたら首を挿げ替える。軍の指揮官として教育された人間が急に歩兵になってまともに戦えると思うかい?」

ジョマは二人にすり寄るためか饒舌に喋った。

「位を剥奪されてもしばらくは蓄えや恩を受けた人間がいるから暮らせる。その間にどこかの商会に入ったり、商いでも始めたらひょっとしたら返り咲けるかもしれないが、そんな有能な奴はそもそも位を剥奪されないだろ?。あの父親も他の顧客も下り坂を転げ落ちるべくして落ちてるんだ」

「なるほど……」

ユリはなんとなく理解した。

「あいつらは皇帝を誰かが排除すれば貴族に戻れるって馬鹿な夢を見ながらこういう屋敷に閉じこもるのさ」

彼は両手を広げて部屋全体を示す。

「…………貴方達はその夢を応援しながら残った財産を搾り取る」

シズがさらりと言い、彼は「うっ」と呻いた。

「…………それはあの皇帝の計算のうちなのだろうけど」

「え……?なんだって?」

彼がシズに聞き返した。

「…………位を剥奪した者達が反乱を起こすと困るから蓄えた財力を奪いたい。でも全てを没収する理由がないだろうし、強く恨まれる。だから自分で散財するように仕向けているんだと思う。元貴族に貴方達が接触するよう皇帝が促してるのだと思ったけど、違うの?」

(あの皇帝ならやりそうね)

ユリはナザリックで会った皇帝を思い出す。上辺だけ見れば好意的な態度や喋り方だったが、相手の好意を搾り取ろうという計算が透けて見えた。

「そういわれると……」

彼は少し考えた。

「俺のボスは元貴族が越してくるとすぐに嗅ぎ付けるし、そいつらの趣味や家族構成にものすごく詳しいんだよ。あいつらから金を取り立てる時に限って騎士団がうるさく言ってこないし、いつも不思議だったんだが……そういうのってまさか……?」

シズはたぶんと呟いた。

「マジかよ?前からヤバい人だと思ってたが、すげえな……」

彼は奈落の底を覗き見たような顔をした。

「あんたらも恐ろしいが、皇帝の恐ろしさはそういう所なんだよなあ。そういう意味じゃあんたらよりずっと敵に回したくねえ」

「本当に?」

「え?」

彼は聞き返したがユリは「いえ、なんでも」と言った。

「…………姉様、良い品はある?」

「ええと、良い品は……ないわね」

百はあろうかという調度品を見ながらユリは言った。魔法がかかった品なら数点ある。花瓶に花を長持ちさせる保存魔法がかかっていたり、香炉や琴に精神安定の魔法がかかっていたりするが、隠蔽されてるわけではない。

「…………じゃあ、もう出よう」

「待って。他の部屋にも調度品があるのでしょう?」

ユリは借金取りに聞いた。

「ん?ああ……」

彼女達は1階を見て回る。細かい細工のされたガラスの置物。風景の描かれた絵画。ちらほらと高級そうな品が置かれているが、マジックアイテムですらない。

ユリはその間にナザリックにとってあの家族に利用価値がないかを考える。

何も思いつかない。

借金で破滅しかけた愚かな家族の利用価値などそうそうない。

食堂や居間、使用人ホール、キッチンまで見て回り、2階へ上がろうとした時、ユリは階段に敷かれた絨毯を見た。

「これは……」

「おっ、わかるのか?普通は乗った後に気づくんだが」

男は不思議そうに言った。

「第1位階の浮遊魔法ですね」

「そうだ。乗せた物の重さを軽くする魔法がかかってる。その絨毯を敷いた『疲れない階段』ってやつさ。貴族の家にもたまにある」

「へえ……」

ユリは少し感心した。といっても、アンデッドである彼女は疲労しないのだが。

「興味あるかい?10金貨でどうだ?」

商魂たくましいわね、と彼女は言いたくなった。

「いえ、興味はありません」

「そうか……」

男は残念そうに言って疲れない階段を上がる。

「もしも気が変わったら北市場に行って俺を捜してくれ。差し押さえたマジックアイテムはそこで売るから」

「ええ……」

適当に返事をした時、ユリは男の言葉が少し引っかかった。しかし、どこがどう引っかかるのか自分でもわからなかった。

2階には衣裳室、執事室、家政婦室、寝室などがあった。もちろん目当てのものは何もない。

その後に入ったのは子供部屋だった。あの少女の部屋は花が溢れ、人形がたくさん置かれている。もちろん隠蔽されたマジックアイテムなどない。

ユリは逃げるようにその部屋から去る。やはりあの家族の利用価値は思いつかない。本当に何もないのでは、と思い始める。

「この部屋は?」

最後に残った部屋についてユリは尋ねる。

「この家の長男の部屋だ。最近、死んじまったが」

「そうなのですか?」

「ああ。貴族位を剥奪されたといっただろ?それからはその兄貴が働いて家族を養ってたんだ」

ユリが部屋を開けると整頓された空間が出迎えた。古い杖と魔法に関する書物があり、調度品は何もない。

「杖がありますが、魔法詠唱者だったのですか?」

「そうだ。普通の奴にあの放蕩夫婦を養えるもんか。哀れな男だったぜ。稼いでも稼いでも親が使っちまう。馬鹿な親を持つと苦労するってことだな。ここもフルトの家も……」

彼は知らない名前を呟いたが、ユリはそこに興味はない。

ただ、彼女はその男の表情を奇妙に思った。

「貴方でも他人を哀れむことがあるのですか?」

「おいおい、俺だって鬼じゃないさ……」

男は心外だという表情に変わった。

「だが、金を貸して取り立てるのが俺達の仕事なんだ。あの小さい妹のことだって可哀想とは思うが……」

男はそこで言いよどむ。

「俺達にはボスがいて、そのボスは俺を信頼してこの仕事を任せてくれてる。だからしっかりやりたいんだ。情にほだされて仕事ができない、なんて言えない」

男の目が真剣なものに変わった。

「あんたが恐ろしく強いのはわかってるが、俺はあの娘はきっちり連れて行くぜ?それが今日の俺の仕事なんだからな」

「……ええ」

この時、男は気づかなかった。自分が遥か格上の強者を少し動揺させたことに。

ユリは机の引き出しを開ける。魔術師なら何らかのマジックアイテムが残っているかと思ったが、何もない。

「よほど貧弱な魔術師だったのね……」

彼女はつい呟いた。

「ん?いや、かなりの腕だったぜ」

男が訂正する。

「魔法学院では上位の実力だったと聞いてる。家族を養うためにワーカーになったんだが……」

「……え?」

ユリは聞き返した。

「ワーカー?」

「ああ。パルパトラって爺さんが率いるワーカー集団にいたんだが、知ってるか?一ヶ月くらい前に腕利きのワーカー達に声がかかって、何かの調査を命じられたらしい。そしてどのチームも全滅したって……どうした?」

表情の抜け落ちたユリに男は尋ねた。

「……いいえ」

ユリは一つの光景を思い出していた。矢で射られた愚かな魔術師の姿を。

彼女は踵を返して部屋を出る。その時、かすかな呟きが彼の鼓膜を震わせた。

なんて愚かな……という呟きが。

彼女は部屋を出ると陰鬱な気分と戦わなければならなかった。哀れに思っていた家族の一員がまさかあの侵入者の中にいたとは。その男に哀れみなどない。死んで当然だと思う。自分たちはワーカーたちを殺し尽くしたが、相手が強ければ自分たちにも被害が出ていたかもしれないのだから。かつて第8階層まで侵入してきた者達のように。

とはいえ、とユリは思う。その愚かさの代償は命で支払った。親や兄弟姉妹にまで責任を取らせようと思わないし、そういう命令も出ていない。

はあ、と深いため息が出た。

「…………姉様、もう行こう。商人に査定してもらうんでしょ?」

シズが諭すように言った。

「ええ、もう……」

ここでする事はない。

ユリはそう言おうとしたが、頭の中で引っかかっていた借金取りの言葉がシズの言葉と繋がった。

「一つ伺いたいのですが……」

ユリは借金取りに聞く。

「貴方達は差し押さえたマジックアイテムを専門の商人や魔術師協会に売らないのですか?」

「え?ああ、北市場で売るつもりだ。むこうだと大した売値にならないだろ?」

「そうなのですか?」

「そりゃそうだろ?うまくいけば奴らに売った時の倍以上の値段で売れる」

「2倍,ですか?」

ユリは驚く。

「品にもよるがな。協会とかはその場で金が入るのが魅力だが、自力で売ったほうが儲かるのは当然だろ?中間業者に取られないんだから」

もしかしたら、とユリは思う。

「不躾な質問ですが、ここの家族の借金はいくらですか?」

「え……?」

男は質問の意図がわからなかったが、答えて損はないと判断したらしい。

「利子を含めて金貨210枚だが?」

よくもそんなに借りたものだ、とユリは言いたくなった。

「差し押さた財産分を差し引くと?」

「えーと、全部で……160枚だ。だから……」

「金貨50枚。それがあの子供の値段というわけですか」

「いや、それは……」

男は口ごもる。

ユリの考えはこうだった。

自分たちは長く帝都に滞在できないため魔術師協会か商人にマジックアイテムを即金で売却しようとしている。しかし、この家族の借金50金貨を肩代わりし、代わりに彼らに北市場でマジックアイテムを販売させたらどうか。報酬に50金貨は多いかもしれないが、口止め料も含んでいると考えればよい。もしも150金貨の倍の300金貨で売れるなら報酬を差し引いても自分たちは250金貨が手に入る。

もちろんこれは絵に描いた餅だ。実際に2倍で売れるとは限らず、時には値引きが必要になるだろうし、盗難をどう防ぐか、などの諸問題はある。そこに自分なりの解決策を加えつつ、彼女は計画全体を眺めた。悪い考えではないと思う。

どうするか。

これを至高の御方に進言してみるべきか。

怖い、とユリは思う。

とても恐ろしい。

ナザリックの利益を考えてはいるが、それは建前とも言い訳ともいえるもので、自分の感傷から提案しているのは紛れもない事実だ。

それでも……。

ユリは覚悟を決めた。

「すみません。少しだけ2人にしてもらえますか?」

「え?」

「お願いします」

ユリは微笑みつつも威圧して彼を1階へ追い払う。

「シズ、相談があるんだけど……」

ユリは伝言の魔法も巻物も使えないため、シズに連絡してもらうしかない。そのためにはまず彼女に自分の計画を伝えようとした。

しかし、その前にシズが口を開いた。

「…………姉様、今考えてる事は絶対にしては駄目」

それは冷たい声だった。

 

 

「え?」

ユリは思わず聞き返した。

「…………あの家族にマジックアイテムを売らせようとしている。違う?」

「そのとおりだけど……」

シズがなぜ絶対に駄目とまで言うのかユリにはわからなかった。

「…………その約束をしたらアイテムが全て売れるまであの家族と付き合うことになる。それが半年になるか1年になるかわからない」

「確かにそうよ。でも……」

自分たちは今すぐ資金を必要としているわけではないと彼女は言おうとした。

その前にシズが続ける。

「…………皇帝が元貴族達の散財を促してると言ったのを姉様は覚えてる?あの家族が大量のマジックアイテムなんて売り始めたら間違いなく皇帝の関係者が調査する。もしも姉様が関わってる事と姉様の性格に皇帝が気づいたらこの事を最大限に利用するはず。違う?」

「それは………」

ユリは反論できなかった。今は一応変装しているが、顔は嫌というほど目立つ。彼らを強く口止めしてもいずれ手練手管を弄する役人に話してしまうだろう。あの借金取りの男も間違いなく喋る。自分達はマジックアイテムの回収や売却自体に法的問題はないと思っているが、あの皇帝なら何らかの理屈をこねて問題にするか、それはなくてもユリ・アルファの性格を見抜き、あの家族を使って情を揺さぶるはずだ。

世の中には情に縛られる者と情を利用する者の2種類がいる。自分は前者。皇帝は後者だ。あの皇帝は可能な限り情報を搾り取りつつ、様々な貸しを無理やり押し付けてくるだろう。メイドといえどナザリックで低からぬ地位にある者が借りを作ったとなれば後々の交渉で響いてくる。

「……そのとおりだわ」

自分の進言でシズが言うような結果を迎えれば申し訳が立たない。いや、そもそも至高の御方はその危険を予想しているからマジックアイテムを即売却する判断をしたのではないか。きっとそうに違いない。

ユリは自らの浅慮が情けなくなった。

「…………それとは別に、姉様はここの家族を根本的に誤解している」

「誤解……?」

ユリは意味を理解しようとした。

「…………姉様、あの使用人の話を思い出して。屋敷の財産を差し押さえられたと言ってたでしょう?屋敷自体は差し押さえられてない。あの父親は屋敷を売れるのにあえて売らないんだと思う」

「そんな馬鹿な……」

ユリは唖然とした。

「あの男に聞けばわかる」

二人は借金取りの所まで行った。

「……え?ああ、そうだぜ」

彼はあっさりと言った。

「この屋敷を手放して安い所を借りれば娘どころか財産の一部も残せる。最初、俺はそうするだろうと思ったが、あいつは屋敷じゃなく娘を持っていけと言ったんだ」

ユリは呆れて何も言えなかった。この家族は何もかも失って破滅しかかっていると思い込んでいたが、実際は借金以上の財産を持っていたのだ。自分たちが立っているこの屋敷という財産を。

「あの父親は死んでも自分の屋敷は手放さないと言ったよ。実際はもう失ってるんだけどな。ここは別邸で、没収された領地に自分の屋敷があるんだから」

貴族とは本来そうである。領地にある本邸に住み、領民を保護監督するのが彼らの責務であり、帝都にある別邸は議会や催しで一時的に宿泊する施設に過ぎない。領地と領民を失っている時点でそれは貴族ではない。あの父親は別邸に閉じこもることで辛うじて自分はまだ貴族であるという幻想を見ているのだ。

なんと幼稚で愚かなのだろうとユリは思った。

「…………今ここで借金が消えてもあの父親はまた借金をする。あの子供の行き先は変わらない。それとも姉様もペットを飼うつもり?」

シズのその言葉に彼女は背筋がぞわりとした。

セバスの失態のことだ。あの少女を救うには誰かが引き取るしかないだろう。自分がそうするのか?セバスのように?できるはずがない。

「…………姉様、私はそんなことを報告したくない」

シズのすがるような、責めるような目を見て彼女は心から後悔した。妹はずっと不安の視線を送っていた。ユリがこの家族にこれ以上執着するようならシズもナザリックに忠誠を誓うものとしてソリュシャンのように密告せざるを得なくなる。自分が感傷から赤の他人を気遣っている間に妹は苦しんでいた。

「いいえ、その必要はないわ。ごめんなさい」

ユリは謝り、妹の頭をなでた。

「もうここに用はないわ。行きましょう」

 

 

玄関から外へ出るとユリは少女の手を握る母親の元へ行った。このままあの家族を無視して去ることも出来たが、それはしたくなかった。彼らは変な期待を持っているだろう。何らかの奇跡が起きて娘は連れて行かれないのではないかと。それは自分のせいなのだから自分で否定すべきだ。ただ、あの父親と話す気にはなれなかった。

「お屋敷を拝見させて頂きました。どの美術品も素晴らしいものだと思います」

ユリは屋敷を褒める。大嘘だが、真実よりはずっと救いがある。

「ですが、私たちの主人が求める品とは趣が異なるようです。私は単なる興味本位で屋敷を見て回りましたが、それが皆様に奇妙な期待を抱かせたのでしたら申し訳ありません」

ユリは深く頭を下げた。

「私たちはもう行かねばなりません」

「わざわざありがとうございました」

使用人だけが礼を言った。

ユリは少女の目を見た。

お姉ちゃんは私たちを助けてくれないの?

そんなことを言いたげな瞳を彼女はまっすぐ見た。

ええ、そうよ、と心の中で言う。

ユリとシズは屋敷の外へと向かった。

その時、屋敷の門から入ってくる男がいた。革のズボンにチョッキ。そこらを歩く市民にしか見えない。しかし、このタイミングでふらりと現れた男はまるで窮地に妖精が出現したような神秘性があった。

「すみませんがワーカーをされていたベイルさんのお屋敷はこちらですか?」

おそらくあの魔術師の名前だろうとユリは思った。

「そうだが、あんたは?」

なぜか家族の代わりに借金取りが答えた。

「鼠の尻尾亭という宿の経営者です。ベイルさんを含め、彼のチームが全員行方不明になったのはご存知ですね?」

「ああ、それは知ってるが……?」

「規定の期日が過ぎましたので、私たちは彼らが死亡したとみなします。そこで、宿にお預かりしている彼らの資金についてなのですが……」

「そんなものがあったのか?」

借金取りが驚いた。

「はい、チームとしての共同資金を預かっておりました。彼らはもしも全員が死亡した際は資金を等分してそれぞれの遺族に渡すことに決めていました」

「そ、そりゃあいくらだ?」

「いくらなのだ?」

借金取りと父親は同時に聞いた。

「チーム資金は金貨250枚。よってベイル様のご遺族にはそのうち50枚をお渡しすることになります」

「あの子が……」

母親は地面に膝をつき、泣き出した。借金の不足分とまったく同じという偶然を妹想いの兄から届いた最後の介助と捉えたのだろう。彼女は嗚咽混じりに息子の名を呼んだ。

「つきましてはベイル様の死亡届を出していただけますか?そうすれば手続きを開始できますので……」

「だめ!」

一人の少女が小さく叫んだ。

「お兄さまは死んでなんかいない!」

その少女を見て、誰もが顔を背けたくなった。そんな表情をしていたからだ。

「お兄さまは帰ってくるわ!私、神殿でちゃんとお願いしたんだから!」

彼女は幼い声で必死に訴えた。

誰も何も言えなかった。

「そうだ……」

弱弱しい声がどこかから漏れた。

「あいつは……帰ってくる……死んでなどおらん……」

父親だった。

息子の死を否定するのは自分が破滅したことへの拒絶か。それとも自分の放蕩が息子を殺したことからの逃避か。あるいは両方か。

「あの子は聡明だ……必ず仕事を終えて帰ってくるはずだ……」

父親に言葉をかける者はいない。

いや、一人いた。

「帰ってきません」

ユリの声だった。

「その人は仲間と一緒に死にました。もう帰ってきません」

彼女ははっきりと言った。そんな妄言を許すわけにはいかなかった。ナザリック地下大墳墓は許可なく入ってきた無礼者を許可なく出したことはない。これまでも。これからも。

「違うわ!お兄さまは帰ってくる!」

少女はぼろぼろと涙をこぼし、敵意の目でユリを見た。

彼女は静かにその目を見返した。

「何もそこまで言わなくても……」

そう言ったのはあの借金取りのジョマだ。

「事実ですから。その人はお金のために汚い仕事をして死んだのです」

ユリは元凶となった父親を冷たい目で見た。

「では、さようなら」

ユリは優雅に歩き、屋敷を後にする。続けてシズも。

善意は打ち止めだった。

これ以上は関わらない。

これ以上関われば妹と大事な仕事を裏切ってしまうから。

「…………ユリ姉」

屋敷を出てしばらく歩き、少女の泣き声が聞こえなくなってからシズが口を開いた。

「なにかしら、シズ?」

「…………ううん、なんでもない」

「そう」

ユリは思う。あの家族は50金貨を相続することでしばらくは救われるだろうが、未来は確定している。またあの父親は借金を頼み、あの男も金を貸すだろう。

だが、ユリの知ったことではない。あの子を引き取ってどこかで暮らさない限り、彼女は救われない。ユリにそんな慈善事業をする気はなかった。帝国にも王国にも孤児は無数におり、悲劇は無数にある。今回の件で誰が悪いのかと聞かれれば愚かな父親は当然として長男も悪かったとユリは答える。他人の住まいに上がりこんで金銭を奪うなど言語道断だ。ましてや至高の御方のお住まいに。それがどれほど罪深いことか教える者がいなかった。

(子供の頃から教えていれば……)

ユリは少し考えた。魔導国が他の国を支配するのは時間の問題であり、その中で子供や孤児はどう扱われるのだろう。子供たちを教育する機関を設けてはどうか。優秀な子ならナザリック強化に繋がるだろうし、優秀でない子でも知識と技術を与えてやればやはりナザリックの強化へ結びつくのではないか。神殿で思いついた怪我人や病人の治療よりずっと良い案だと思う。もちろん自分が内政に関われるとは思わない。しかし、もしも……もしも自由に意見を述べよとあの御方に命じられたら、今考えたことを言ってみようか。

ユリの耳に再び悲鳴のような声が届いた。今日はやたら縁があるらしい。道の反対側で顔の良く似た二人の少女が馬車に乗せられるところだった。

「クーデリカ!ウレイリカ!」

母親が屈強な男たちに阻まれながら娘たちの名前を叫んでいる。

「行きましょう、シズ」

「…………うん」

ユリとシズはそこを素通りする。

悲劇などそこらじゅうにあるのだから。

 

 

庭師はいつもどおり芝生と草木に異常がないかを確認する。剪定は昨日終えたばかりだが、植物とは成長が遅いのに枯れ萎れはあっという間だ。美しい庭だからこそ草木の色が少しでも変われば目立つ。不調があればドルイドを呼んで治癒してもらわなければならない。1週間ほど前に盲目のドルイドに治してもらった樫の木の状態を確認している時、庭師は外から声をかけられた。

「すみません」

彼が振り向くとこの世のどんな花でも例えられない美貌がそこにあり、しばらく声を出せなかった。彼は夢から這い上がり、やっと返事をする。

「は、はい、なんでございましょう?」

そのとき、彼はようやく美貌の主が上等なメイド服を着ていることに気づいた。首には大粒の宝石をあしらった装飾品が輝いている。

「あちらのお屋敷は誰もお住まいになってないようですが」

女性はそういって示した先には剪定どころかいかなる管理もされていない荒れた屋敷があった。庭は雑草が生い茂り、この庭師からすれば屋敷や庭と呼ばれる資格がない。

「以前にお住まいになっていたご家族はどうされたのでしょう?」

「ああ、あのお屋敷ですか……」

庭師は記憶をさかのぼる。かつてある貴族が所有していたものだ。数年前まではそこの長男が使用人と住みながら魔法学院に通っていた。父親が貴族位を剥奪されてからは家族全員でそこにしばらく住んでいたが半年ほど前から明かりもつかなくなり、完全に放棄されたとみなされている。庭師の仕える貴族一家はそこが貴族でなくなった瞬間に付き合いも興味もなくなった。貴族とはのし上がるか廃れるかの2つしか道はない。利用価値のなくなった敗者を気にかけたりしない。

「半年ほど前から誰も住んでいないようです。ご家族がどこへ行かれたかはわかりかねます」

「そうですか……」

美貌の主は丁重に礼を言うと歩き去ってゆく。途中、彼女はその屋敷の前にさしかかると足を止め、荒廃した屋敷を見た。庭師は理由もわからずその光景に胸を締めつけられた。

涼風が吹く。

彼は幼い少女の笑い声を聞いた気がした。きっと帝国雀の鳴き声だろう。

彼の思ったとおり、一羽の小さな帝国雀が荒れた庭で鳴いており、そこへもう1羽がやってきた。2羽は楽しそうに戯れ、やがて大空へ飛び去った。

メイドは再び歩き出す。庭師は影すら美しいその後姿を眺めていたかったが、自分を叱り、作業に戻った。彼には彼の仕事があり、手を抜いてよい理由など一つもなかったからだ。








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