プレアデス賛歌   作:M.M.M
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ナーベラルの王国語学習帳

「ナーベ、ナーベ、ナーベ・・・と」

広い室内に小さな声が響き、再び静寂が戻る。いや、聴覚の優れた者なら硬いものが紙の上をカリカリと滑る音が聞こえるだろう。聡い者なら同じリズムの音が繰り返されるのを聞いて「同じ単語を何度も書いているな」と想像できるかもしれない。その通りだった。ナーベラル・ガンマはエ・ランテルの宿にて筆記の練習をしている。もちろん王国語のである。

戦士モモンと魔術師ナーベとして人間社会で偽装身分を作った二人はいくつかの活動によりアダマンタイト級冒険者にさっさと昇進し、名声と信頼と収入を獲得し、計画は順調であった。しかし、アインズには不安があった。二人ともこの世界の文字が読めないことだ。小さな村ならともかく、都市内の識字率は高い。自分達が南方国家の出身という設定を差し引いても、文盲である事がばれると信頼が失墜しかねない。それを恐れるアインズは時間があれば文字を覚えるようナーベラルに命じていた。

「だいぶ上手くなった……と思うけど」

ナーベラルは紙の上に何度も書いた自分の字を見て、羊皮紙に記された文字と比較する。その羊皮紙は自分達に贈られてきた、アダマンタイト級冒険者になったことへ対する祝い状だ。同じ内容のものが貴族や商家のようないくつかの高い身分の人間から送られてきた。相手はコネクション作りや部下としての引き抜きを狙っていると彼女は聞かされたが、正直、よく理解していない。羊皮紙の文字と見比べ、自分の名前だけは綺麗に書けるようになったことに彼女はわずかな満足感を覚える。しかし、自分の名前を見ていつも疑問に思うことが彼女にはあった。

(どうしてナーベが3文字じゃないの?)

ナーベラルは王国語の基礎さえわからないので不思議に思う。そう、基礎さえわからない。これが大問題だった。

(他の単語は一体どういう意味なの?)

ナーベラルは羊皮紙に何が書かれているかさっぱりわからなかった。何枚もの紙に羊皮紙の単語を書き連ね、その長さや配置から「ひょっとしたらこの言葉はこういう意味なのでは?」と想像したりもするが、答え合わせのしようがない。王国語の勉強というより未知の暗号を一切手がかりなく解読するような作業であった。彼女は自分の名前を練習した紙の下から別の紙を出す。そこにはおよそ数十種類の文字が書かれていた。王国語の文字を全て書き出したアルファベットのようなものだ。羊皮紙から抜き出したのだが、その正しい順番はわからないし、本当にこれで文字が全て揃っているかもわからない。自分が書いた王国文字の一つ一つを眺め、彼女は机に突っ伏した。

「あああ……」

ナーベラルは思わず疲労を声に出した。いつもは鋭い目じりが下がり、ポニーテールもへにょりと曲がっている。維持の指輪(リングオブサステナンス)の効果により肉体的疲労はないが、精神的なものは防げない。

「せめて辞書があれば……」

ナーベラルは存在しないものをつい求める。この世界にも国語辞典のようなものは存在するらしいが(非常に高価らしい)、彼女がほしいのは「ユグドラシル言語/王国語」の辞書である。存在するはずがない。

「それとも家庭教師……ありえない。死んだほうがマシよ」

ナーベラルは首を振った。多くの理由によりそれは論外だった。彼女が現状を変える方法をあれこれと考えていると、ドアを誰かがノックした。

「誰?」

この高級宿には門番がおり、不審者が入って来ることはないが、人間は全て害虫としか思っていないナーベラルは警戒した。

「掃除に参りました」

「……少し待って」

念のため、ナーベラルは防御魔法を使う。物理攻撃対策、魔法攻撃対策、状態異常攻撃対策。並みの魔術師ならもはや過剰といってもいいだけの魔法をかけ、最後に勉強中の紙を羊皮紙の下へ隠し、ナーベラルは入室を許可する。

「いいわよ」

「失礼します」

入ってきたのは若い女性の従業員だ。容姿もなかなか整っているが、今だけは相手が悪い。

「早く済ませて」

ナーベラルは机の羊皮紙を読む振りをした。

従業員はてきぱきと部屋の掃除をこなす。といっても、箒で掃いたり布で磨いたりはしない。魔法を使うのだ。これはナーベラルも真似できない事だった。生活に関する魔法が発達しているこの世界では炊事、洗濯、商売に到るまで魔術師の出番は多い(無論、上流階級に限るが)。彼女は掃除係であるが、食材の保存や毒感知などの魔法も任されているとナーベラルは知っている。ひょっとしたら攻撃魔法の一つくらい使えるかもしれない。

(いいのよ。掃除なら私もできるし、戦闘になれば私の方が遥かに強いのだから)

自分が使えない魔法を使う従業員に面白くない感情を抱きつつ、ナーベラルは早く終わることを願う。長時間の勉強で脳が疲労し、万が一の攻撃にも警戒しているので精神的にきついものがあった。従業員は最後にくずかごのゴミを回収し、失礼しましたと言って部屋を出ていった。

ナーベラルは羊皮紙の文字から目を離し、再び机に突っ伏す。頭の中では王国語がぐるぐると回っていた。

どれほど時間が流れただろうか。彼女は再び王国語と戦う決心をし、羊皮紙に書かれた単語を解析しようとする。その時、胸騒ぎがした。何か大事なことを忘れている。そんな気がする。

(なんだろう?)

彼女は部屋を見回し、空になったくずかごを見る。

「ああ!」

ナーベラルは部屋を飛び出した。

 

ナーベラルはさきほどの従業員を見つけ、声をかける。

「ちょっといい?」

「ナ、ナーベ様!どうかなさいましたか?」

声をかけられた従業員は驚き、不安そうな顔をする。掃除について文句を言われると思ったのかもしれない。

「あなた、さっき持っていったゴミはどこへやったの?」

「え?あれは焼却して処分することになっていますが?」

ナーベラルは安堵する。燃やされるなら何の問題もない。くずかごにあったのは彼女が勉強のためにあれこれと王国語を書いた数枚の紙だ。あれを見られたら魔術師ナーベは字が読めないとばれるかもしれない。それともう一つ大きな問題があったため、掃除係が来る前に自分で紙を処理するつもりだったが、忘れてしまった。勉強疲れは言い訳にならないだろう。

「焼却したのね?」

「い、いいえ、私は焼却炉まで運ぶだけで、あとはあちらの者が燃やすことになっています」

本当に燃やされたか確認した方がいいとナーベラルは思った。

「ひょっとして、大切なものが入っていましたか?」

従業員の顔が青くなる。相手はこの宿にとっても都市にとっても最重要人物の一人だからだ。

「いいえ、少しも重要なものじゃないわ。ただ、些細なものが入っていて、回収できるものなら回収しようかと思っただけよ。本当に少しも重要じゃないけれど」

重要じゃないことをナーベラルは強調する。ここで騒ぎになって大勢があれを探しに行く事態は避けたかった。

「そうですか。でしたら……」

《人間種魅了《チャーム・パーソン》》

ナーベラルは無詠唱で魔法を使用した。女性の瞳に幕がかかり、顔から表情が消える。

「私が捨てた紙の内容を読んだ?」

「いいえ、読んでいません」

ナーベラルは安堵し、従業員から焼却炉の場所を聞き出した。

 

 

焼却炉はすぐ見つかった。やや太目の男が炉の前に立っており、その脇には空になった布袋がいくつか置いてある。どうやら全て燃えたようだとわかり、ナーベラルは安堵する。

「おや、どうかされましたか?」

男はナーベラルに驚いて声をかけた。

「いいえ、ゴミが全部燃やされたか確認したかっただけよ。全部燃えたのなら問題ないわ」

こいつもあの紙を読んでないか魔法で確かめたほうがいいだろうとナーベラルは考えた。しかし、男の様子が少し変だった。

「全部……」

男の顔に不安の色が見えた。

「どうかしたの?」

「あ、いえ、なんでもありません」

男が一瞬目をそらしたのをナーベラルは見逃さなかった。この男は何かを隠している。彼女は躊躇なく魅了の魔法をかけた。

「私が捨てた紙を読んだ?」

「いいえ」

「私に何を隠しているの?」

「ゴミの一部は子供が持っていきました。全て燃やしたわけじゃありません」

「なぜ持っていかせた?」

ナーベラルは怒りを向けるが魅了のかかった男は目をとろんとしたままだ。

「あいつは孤児なんです。金になりそうなものがないか探しに来るので。こんな場所で孤児がウロウロしてたらうちの評判が落ちるから追い出せと言われてるんですが、可哀想だから見て見ぬ振りをしてます」

くだらない。ナーベラルは心底そう思った。お前達のやることは全て意味や価値などない。お前達が気を払うべきことはただ一つ。私達を不快にさせないこと。それを守っていれば少なくとも私は殺さないでやる。なのになぜこうも不快にさせるのか。殺意の芽がみるみる成長し、巨木になる。この男を焼却炉に入れてやりたいと彼女は思うが、そういうわけにもいかない。

「そいつは私が捨てた紙を持っていったか?」

あんな紙切れの集まりを持っていくわけがない。ナーベラルはそう期待した。

「わかりません。ただ、あまり汚れていない紙はいつも持っていきます」

ナーベラルの中で巨木に雷が落ちた。足元がふらつく。

「そいつはなぜ紙を持っていく?」

「知りません」

「そいつはどこに住んでいる?」

「知りません。ただ、貧民街のどこかでしょう」

さっきまで煮え滾っていた心が冷え切り、重たいものがナーベラルの心に広がる。ああいう場所には行くなと命令されている。もはや至高の御方に失態を報告し、指示を仰ぐしかない。一般市民を殺すなという命令があり、そして責任は主に自分にあると理解しているため、ナーベラルは拳を握り締めてその場に立ち尽くした。

 

「まず言うが、お前がその場所へ子供を探しに行ってはならない」

アインズは伝言《メッセージ》を通じて言った。ナーベラルは跪いて自らに下る審判を待つ。

「別の問題が起きるかもしれない。シャドウデーモンたちに探させて、お前も巻物の千里眼《クレアボヤンス》で調べろ。子供の風体は聞いているな?」

「はい」

「私は忙しくてそちらへ行けない。お前達で探すのだ」

「アインズ様、此度の失態について私に何卒罰を」

「今回は不運もあったが、確かにお前の失態だな」

ナーベラルは首に冷たいものを感じる。処刑用の刃が当たる幻覚だ。恐怖はない。命令があれば自分の手でその刃を引くだけだ。

「後日、罰を決めて言い渡す。今はその紙の回収が先だ。それにはお前の名前を書いてあるのだな?」

「はい。何箇所か名前があります。羊皮紙にあった単語も多く書いてあるので紛れていますが」

「そしてその単語の意味はわからないと」

「申し訳ありません」

「そこを謝る必要はない。私もわからないのだ」

アインズはそう言うが、ナーベラルはひたすら頭を下げる。

「孤児なら字は読めないだろうし、仮に読めるものがいても意味がわからないかもしれない。ただ、万が一にもアレを誰かが理解したらまずい」

アレとはユグドラシルの文字のことだ。これが「魔術師ナーベは字が読めない」とは別にあの紙を人に見られてはならない理由だった。ナーベラルが勉強に使った紙には王国語についてナーベラルが推測したことや思ったことをユグドラシルの文字であれこれ書き込んである。「魔術師ナーベが字が読めない」それだけを誰かに気付かれるだけなら、実を言えばそんなに危機ではない。この都市で名声を高めた戦闘のプロについてそんな噂を流す勇気のある者がいると思えないし、仮にいても周囲は戯言と思ってくれるだろう。しかし、もしもユグドラシルのプレイヤーがあの紙とナーベの名前を見たら、余程の馬鹿でない限り「ナーベはユグドラシルから来て、王国語を勉強中なんだな」と思うはずだ。もちろん相棒のモモンの正体も察しがつくだろう。ナーベラルのミスは非常に危険なものだった。

「ロケートオブジェクトが使えないのは残念だな」

「申し訳ありません」

アインズの呟きにナーベラルは何度目かの謝罪をする。特定物品を探索する魔法ロケートオブジェクトは簡単に曲がったり折れたりする形状が不安定なものを探索できない。これが事態をさらに面倒にしていた。

「いや、できないことに愚痴を言っても仕方ない。すぐに捜索にかかれ」「はっ」

ナーベラルは部屋に潜む者達に指示を出した。

 

「はあ」

アインズはため息をついた。ナーベラルの失態は責められて当然のものだったが、話を聞く限り、王国語の勉強に一所懸命だったために起きたミスだ。アインズもそれがどれだけ大変かは知っており、かつ、自分が少しも王国語を勉強していないことに対して後ろめたさがあるため、あまり責めたくない気持ちがあった。

「いや、仕方ないんだ。時間がなさすぎて……」

アインズの仕事量は膨大だった。戦士モモンとしてのエ・ランテルでの活動。これだけで一日の半分以上は潰れる。そこで作った資金の管理、アウラが建設している偽ナザリックの進行度の確認、セバスたちが送ってくる王都情報の確認、ナザリックでのアンデッド召喚、そしてシャルティアを精神支配した未知の敵への備え。食事も睡眠も必要としない体ではあるが、時間はどれだけあっても足らなかった。

「王国語で自分の名前だけは書けるようになったが、それ以上はなあ……」

元のオツムが鈴木悟であるため、異世界文字の習得などどれだけ時間がかかるかわからない。それに、この世界でのアインズの仕事の優先順位として文字の習得はそれほど上位に来るわけでもない。最悪、アイテムや魔法で代用できるのだから。しかし、無視できることでもない。いつ戦士モモンとして人間の見ている前で文字を読む必要性に迫られるかわからないから。そんな時に脇に控える魔術師ナーベが文字を読めれば非常に心強い。自分に時間がない以上、ナーベラルに王国語の習得を任せるしかなかった。

「いっそ流れ星の指輪(シューティングスター)を使って文字を読めるように……。いや、こんなことで願いを消費していいわけが……」

アインズは禁断の方法を考える。ワールドアイテムの効果を除けばおよその願いをかなえてくれる超々レアアイテム。緊急事態に備えるために一切使っていないが、時折、その誘惑に駆られる時があった。

「待てよ。どうせなら文字を読めるより頭脳自体を強化してもらう方がよくないか?」

アインズは少し考える。

「支配者としての品格があって、頭脳明晰で、行儀作法を身につけていて、あらゆる分野に精通している。そんな存在に……」

そこまで呟いてアインズは頭を抱えた。

「それってもはや俺じゃないだろ」

アインズは自分のありもしない脳みそを交換する光景を想像し、自分の案を却下した。今はまだ自分を捨てないで、努力を続けようと決める。支配者失格であることが確定するその日までは。

 

 

「ご苦労さん」

若者は子供の頭を撫でる。子供も彼も服装はみすぼらしいが、不潔というほどではない。

「髪が伸びてきたな。そろそろ切るか」

「いいよ、ホーマ。俺、伸ばしてみたいんだ」

子供は小さな反抗をし、彼は笑った。

「馬鹿を言うな。不潔っぽくて印象が悪くなるんだ。俺だって短いだろ?格好で同情は誘いたいが、シラミや垢があると途端に嫌われる」

自分の茶色い短髪を指差してホーマと呼ばれた若者は言った。彼は4人の孤児達に金の稼ぎ方を教え、悪事を働かないよう注意しつつ、成長を見守っていた。彼らを養っているなどとホーマは言うつもりはない。子供達も働いているのだから。今日も一人の子供が同情を誘えた店のゴミから役に立ちそうなものを持って帰り、彼がその仕分けをするところだった。

彼は子供が持ち帰ったゴミやガラクタを順番に渡され、それらがいくらになるか考える。何かの製品に使ったであろう布や木、汚れた紙。食べ物は食あたりが怖いので食べるかどうかは慎重に決めなければならない。木やクズ紙は鍛冶屋などへ薪代わりとして売れる。破れた服などあれば大収穫なのだが、それは高級宿でもそうそう捨てられるものではない。

「一度着た服は二度と着ないなんて貴族もいるらしいが、この宿にそいつは泊まってないかね。ん?」

彼は子供が最後に渡した数枚の紙束に目を引かれた。

「ずいぶん質がいいな」

彼は紙の白さに驚いた。まあまあ状態の良い紙は漉き返して質の劣った紙、つまり再生紙にするための原料としても売れる。それともう一つの理由のために孤児達に機会があれば集めさせているが、その紙の雪のような白さは貴族が手紙を書くのに使いそうな一級品だった。折り目はなく、表面は滑らかで何かの処理を施しているのか光沢まである。新品で買えばかなりの値段になるはずだ。ひっくり返すといろんな単語がかなり汚い字で書かれ、それと一緒に見たこともない文字も書かれている。

「こいつも王国語の勉強中か?」

高級宿の客に異国からの旅人でもいるのだろうとホーマは想像する。片面だけを使って捨ててしまうことはありがたいような勿体無いような複雑な気分だった。

「うーん、これをそのまま商品として売れたらいいんだが」

「字を消したら売れない?」

子供は無邪気に聞いた。

「ああ、俺達がやってるみたいにか。無理だな」

ホーマは苦笑した。木炭で書いた文字なら腐ったパンで擦れば文字をいくらか消せることを彼らは経験上知っている。しかし、綺麗には消せないし、この紙のようにインクで書かれたものはどうにもならない。木炭もインクも綺麗に消せるのは魔術師の魔法だけだ。そして、そんな依頼を魔術師に出せば大金がかかる。赤字どころではない。

「こんな高級紙は初めてだ。惜しいなあ。でも、いつもどおり勉強用に使って、あとで古紙と一緒に売る以外には……」

「げえ、また字の勉強するの?」

子供は嫌そうな顔をした。これがホーマが紙を集めさせるもう一つの理由だった。貧民街にしては珍しく、彼は文字を読める人間だった。子供達に読み書きを教えるため、状態が良かったり余白の多い紙は持って帰るように言っていた。

「読み書きはできるようになったほうがいい。字が読めれば必ず職につけるとは言わないが、きっと役に立つ」

ホーマは真剣に言った。彼はいろいろと計算して子供達に貧しい格好をさせて市民から同情を誘っているが、彼らが大きくなればその効果はなくなる。文字が読めれば何かの職につけるかもしれないと期待していた。それに、子供に施しをしてくれるのは神殿や優しい市民だけではない。裏仕事をする人間に小金で雇われて悪事を手伝う。そんな孤児が大勢いる。もちろん人生は綺麗ごとばかりでは渡れないし、自分の意志で裏社会へ行くならそいつの勝手だと彼は思っている。しかし、自分が使い捨てと知らずに利用され、衛兵に捕まる子供達は哀れだった。

「綺麗な字が書けるともっと良いんだ。ああいうところで相手の価値を計ってる人がいて……ん?」

ホーマは再び文字の書かれた面を見たが、ある部分を読んで背筋が寒くなった。横棒に斜線、横棒、曲線に点が二つ。謎の異国文字で書かれた単語の意味はわからない。しかし、その下に自分達の言葉でナーベと書いてある。その名前は彼でも知っている。美姫という二つ名を持つ魔術師。この街で絶対に怒らせてはいけない住人の一人だ。

権力者、富豪、暴力者、戦闘者、敵に回したくない相手はいろいろいるが、魔術師を怒らせると何をされるかわからない恐怖がある。透明化や転移もそうだが、部屋から一歩も出ずに相手を殺せる魔法もあると聞く。その魔術師の中でこの都市最強と噂される人物の名前がなぜ書かれているのか。書かれているいくつかの単語から推測するに何かの祝い状から単語を書き写したらしく、王国語の基本的な仕組みがわからず、必死に解読しようとしていることが推測できた。

「そういえばあの宿に泊まってるんだっけ」

最高位の冒険者チームがこの都市最高級の宿に泊まっているのは彼も知っている。そのおかげであの宿は現在「この都市で最も安全な場所」と言われている。そこから拾ってきたこの紙にナーベの名前があることをふまえると彼の中で一つの推測が生まれた。魔術師ナーベは王国語の勉強をしているのではないか。しかもまだぜんぜん読み書きができないのでは。

「ねえ、どうかした?」

ホーマの不安な顔が子供にも伝染している。

「いや、なんでもない」

ホーマは笑顔を作りながらも自分がまずいものを見た気がした。この紙を彼が持っているなど本人は知るはずもないし、捨ててあったのだから何も問題ないはずだ。彼はそう自分に言い聞かせたが、不安は濃いインクのようにべっとりと心についたまま落ちなかった。

 

 

「アインズ様、発見しました」

ナーベラルは伝言《メッセージ》で報告した。シャドウデーモンがそれらしい子供を発見し、彼女が巻物の魔法で確認したところ、粗末な建物の中に5人の人間がおり、目的の紙もあった。なんと机の上に堂々と置かれていた。

「男が1人。子供が4人。やはり貧民街でゴミを拾い集めて生活しているようです」

「ふむ。5人か。どうするべきか」

「殺すべきだと思います」

ナーベラルは即答した。

「子供の方は字をどの程度読めるかわかりませんが、男の方は確実に読めますし、私のことに気づいている可能性が高いです」

彼女がそう言うのは当の男が子供達に字を教えている最中だからだ。読めないわけがない。

「子供のほうも念のために殺しましょう」

野菜を切りましょう。そんな言い方で彼女はさらりと言う。

「アインズ様がわざわざお出になられて、あれらの記憶を消される必要はございません」

「うーむ」

アインズの声には不満の色があった。

「そいつらはゴミを集めて、たまたまお前の紙を持ち帰っただけだろう?そいつらの不注意ではないし、私やナザリックに対して悪意や不敬があったわけでもない。お前の失態の責任をそいつらに負わせるのは理不尽じゃないか?」

「わ、私の失態を否定するつもりはありません!」

ナーベラルは慌てて言った。

「私はいかなる罰も受けます。ただ、この人間達が消えたところで問題はないと申し上げました」

「ナーベラル、一応聞くが、殺すと問題がある人間はどういう者か理解しているか?」

「それは……」

ナーベラルは答えあぐねた。彼女にとって人間は等しく無価値で、アリの階級をなんとも思っていないように人間の役職や階級などなんとも思っていないからだ。

「だろうな」

アインズの声に失望の色があり、ナーベラルの身が震える。

「地位の高い者とは可能な限り良い関係を築きたい。都市長や貴族などがそうだな。冒険者や魔術師も利用価値があるからなるべく殺したくない」

「では、この者たちは殺しても問題ないのでは?」

ナーベラルは恐る恐る聞いた。

「それは早計だ。裏社会の犯罪者なら消えても誰も探さないだろうが、貧民とはいえ一般市民が5人も消えたら騒ぎになるだろう?衛兵が動いて思わぬ余波が起きるかもしれない。それに、こいつらがどんな才能や異能の力を持っているかわからない。ンフィーレアがそうであるように、この5人の誰かがナザリックの役に立つかもしれないだろう?」

「……はい」

ナーベラルは渋々と同意した。

「殺すことはいつでもできるし、費用もかからないが、復活は誰でもというわけにはいかない。理解したか?」

「はい。では、この者達は記憶の消去だけで済まされるのですか?」

「そうだな。とりあえずはお前が行って、その男がどこまで気づいていて、何人がそれを知っているかを確認しろ。もちろん移動は転移で行え。子供達と一緒にいると面倒になりそうだからその男が一人になった時を狙え」

「はっ」

「転移すれば未知の敵に奇襲される心配はないと思うが……。一応、むこうにシャドウデーモンを何体かやって、あれも待機させるか」

アインズはいくつかの用心を考えた。

 

4人の孤児は勉強が終わると再び出かけていった。遊びに行くのではない。彼らは稼ぎに行く。貧乏暇なしだ。ホーマもここでじっとしているわけにはいかない。その前に、彼は自分の机、といっても木材を組み合わせただけの不細工なものだが、の上にある白い紙束を再び手に取った。紙自体は裏面をいつもどおり子供用の練習帳にしてよいだろう。そのあとは古紙や燃料として売らず、自分で燃やしたほうがいい気がした。では、その情報はどうすべきか。もちろん彼にこのことを誰かに話す気はない。冒険者の頂点を怒らせるほど馬鹿でも命知らずでもない。ただ、自分がこの秘密を知ってしまったという事実が小心な彼を苦しめていた。

(魔術師ナーベが俺のところへやってきたりして……。いや、そんなことはありえない……)

彼は自分に言い聞かせる。そんなことが起きるわけがないと。しかし、現実は非情であった。

「それが何か気付いてる?」

氷のような声にホーマが振り返ると彼の心臓が止まりかけた。ローブを着た女が部屋の入り口に立っている。彼はその女と会ったことはなかったが、誰かはすぐにわかった。わかってしまった。この世に二つとない美貌だったからだ。白く輝く肌。それとは逆に闇が輝く瞳と長髪。理想的な形をした鼻梁と唇。噂どおり、いや、噂どころではない美の極致。間違いない。彼女が魔術師ナーベだ。アダマンタイト級冒険者、漆黒の英雄モモンのパートナー。

普段のホーマなら見惚れて春めいた夢でも見ただろうが、今は最も会いたくない人物だ。扉を開けた音はなかったが、どうやって入ってきたのか。しかし、ここへ来た理由はわかった。

「あなた、気付いてるでしょう?」

ナーベはまた言った。

「いや……」

彼はとぼけようと試みた。

「悪いが、何のことかわからない。君は誰だ?いつ入ってきた?」

「魔法で聞くからすぐわかる」

その言葉だけでホーマは全てを諦めた。魔術師が魔法で他人を尋問するのは法律で禁止されているらしいが、証人がいなければ衛兵も捕まえられないし、この人を衛兵が捕まえるわけがない。

「わかりました」

彼は肩を落とし、衛兵に罪を告白する罪人のように喋り始めた。

「ナーベさんですね?たぶん、あなたの思ってる通りです。俺は知ってはいけないことを知ってしまったんでしょう?」

本当に字が読めないんですか、とは恐ろしくて聞けない。どうしてここがわかったのかも聞かない。たぶん魔法で見つけたのだろう。彼女ならそれくらいできるはずだ。

「一つだけ聞かせてください。あの子はこれを盗んできたんですか?俺は盗みを許していないんですが、もしそうなら俺の責任です。本当にすみません」

「子供達もそれが何か気付いているの?」

ホーマはその質問に恐怖を感じた。この魔術師はモモンと違って温かみのある人物という評判はなく、時に苛烈な行動をとると有名だ。殺されはしないと思いたいが、相手のまずい情報を握っているため、断言できない。

「いいや、あいつらはまだ字が読めません。早く覚えてほしいと思ってたけど、今は読めなくてよかったと思ってます」

ホーマは心底そう思った。

「そう」

ナーベは信じているのかいないのか、表情からは全くわからない。

「それで、返してくれる?」

「返しますが、これは盗まれたわけじゃないんですか?」

ホーマはそこを確認したかった。

「いいえ、間違って捨ててしまったものよ」

そこで彼は少し安堵した。子供が盗んだわけではなかった。自分の躾は行き届いているようだ。

「とにかく返してもらうわ」

「これを返して、それで終わりにしてくれるんですよね?」

ホーマは紙を人質のように扱う気はなかったが、返した瞬間にとんでもないことが起きそうで、思わず聞いてしまった。ナーベの瞳が横へ逸れる。隣には誰もいないし、何かを考えているのだろうとホーマは思った。しかし、何かを小さく喋っている。

「では、まずは魅了で確かめてから……はい、そのあとに……」

伝言《メッセージ》という魔法をホーマは思い出す。短い会話がしばらく続いた。

「では、さっそく」

ナーベはそう言うと彼の方を見た。何かが始まるとホーマはわかったが、できることはない。命の危機を感じる。その時、外から足音が近づいてきた。

「誰?」

ナーベは冷たい視線と質問をホーマに向けた。彼にもわからないが、検討はついた。

「たぶん、ギャリーかな?金をとりに来たんです」

「私は消えてるからさっさと話を済ませなさい。もちろん私の事は言わないように」

ホーマの目の前からナーベの姿が消えた。

 

 

二人の男が部屋に入ってきた。

「よお、ホーマ」

眠そうな目で声をかけた男は長身を上から下まで黒づくめの服で統一し、やや長い金髪をしていた。麻薬中毒患者のような暗い目で、本人は麻薬なんてやらないと言っているがホーマは怪しんでいる。裏社会で生きる男、ギャリーだ。後ろに控えるもう一人は革鎧を来て、腰に剣を下げた坊主頭。長身のギャリーより頭一つ分高い大男だ。ギャリーの仲間であり用心棒であるらしいが、ホーマは名前を聞いたことがなかった。

「やあ、ギャリー。いつものだろ?」

ホーマはポケットから金の入った袋を取り出し、相手に渡す。ギャリーは中を見て、半分ほど硬貨を取り出す。みかじめ料の徴収だ。

「儲からないか?」

「いつも通りさ」

ホーマは笑った顔を作る。相手の職業も今やってる事も少しも好きではないが、この男は無意味に暴力を振るう馬鹿ではないし、子供達にある程度の安全を保証するために必要な相手だった。衛兵は頼まれてもこんなところには来ないからだ。

ホーマは現状をどう打開するか考える。ギャリーをこのまま帰すべきか。あえて引き止めてナーベを牽制するか。しかし、無駄な抵抗をしているとナーベに思われて、本来なら殺すつもりはなかったのに、機嫌が悪くなって殺そうと決めるかもしれない。

(この二人がいたところであの人に勝てるはずないだろうしな……)

ナーベの言ったとおり、ギャリー達を早く退出させようと彼は決めた。強者を前にして弱者は財産を差し出すか、慈悲を願うしかない。

「大変だな。お前は期日前にきっちり金を払ってくれるから俺は助かるよ。たまに逃げたり、上がりを誤魔化したりする奴がいるからな」

袋を返し、ギャリーは笑って言った。

「俺だって利き腕がなくなるのはご免だよ」

ホーマは右手をひらひらと振る。彼のグループを騙した者は利き腕を切断される決まりだ。そしてホーマは右利きだが、左手でも字が書けるよう練習をしている。切られた時のためだ。ギャリーの言っていることは事実で、ホーマは子供達と一緒に得た儲けを誤魔化していた。彼もやりたくはなかったが、子供達や自分が病気になった時に備えるため仕方なかった。儲けを正直に言えばみかじめ料が上がり、神官への治療費が払えなくなる。

「頼むから誤魔化さないでくれよ。決まりとはいえ、俺だって腕を切るなんてしたくない。もしもの時はお前の腕も小さい連中の腕ももらうと仲間の一人は言ってるが、まあ、それはさせないつもりだ」

「よくわかってるよ」

ホーマは怯えを必死に隠した。彼の集団は効果的に相手を恐れさせる方法を知っているらしい。

「それじゃあ、次回も頼むな」

「ああ」

無駄に世間話をする気もないのだろう。ギャリーは帰ろうとする。ホーマは相手に帰ってほしいような欲しくないような複雑な気分だった。少なくともギャリーと話している間はナーベの「審判」を受けずに済むからだ。その時、ギャリーの目が部屋のあるもので留まった。なんだろうかと彼が見てみると机の上にある例の紙束だった。

「そこの紙、ずいぶん色が良いな」

「ん?」

こいつ目敏いにも程があるぞとホーマは思う。しかし、言われてみるとこの殺風景な部屋であの純白さは異常に目立つ。ナーベという突然の来訪者がいなければ、その程度の予想はでき、他のボロ紙の下に隠すなり、服の下にでも隠していたかもしれないが、そんなに気が回る状態ではなかった。ナーベが消えた時、彼はとくに考えもせず机の上に紙を置いた。その結果がこれだった。

「ああ……、高級店でチビたちが拾ってきたやつだ。紙を買う金なんてないのは知ってるだろ?」

「……ああ、そうだったな。文字を教えてるんだっけか」

ギャリーは無表情に言った。頼むからあれに興味を持たないでくれとホーマは祈る。

「どこかでたくさん紙を手に入れる方法って知らないか?チビどもがすぐ使い切るんだよ」

ホーマは話題を変えるためにその質問をした。しかし、それが仇となった。

「今、話題を変えようとしたな?」

ギャリーがホーマの目を見て言った。

「え?」

ホーマは演技力を総動員してとぼけるが、ギャリーは何かを感知したらしい。他人の弱みや秘密を探って生活しているような男だ。その嗅覚は極めて鋭いのだろう。一歩前に踏み出し、再びホーマの目を見る。

「ホーマ、あれはただの紙か?」

ホーマは大きく息を吐いた。ギャリーは完全にあの紙を怪しんでいる。ここから話題を変えるのは不可能だ。こいつは馬鹿でないと思っていたが、ここまでとは。どうして裏社会の仕事などやめて衛兵に転職しないのだろうと彼は思う。頭のよい犯罪者をどんどん捕まえてくれるだろうに。

「あれはチビたちが拾ってきた。これは本当だ。ただ、内容がまずいものなんだ」

思いつく嘘がないため、ホーマは正直に話す。自分がじわじわと崖に近づいている感覚がした。ギャリーはつかつかと歩き、その紙に手を伸ばす。その手が止まった。紙にホーマの手が置かれたからだ。

「ギャリー、これを見なかったことにした方がいい」

ホーマは初めてギャリーに敵対的ともいえる行動をとった。彼は真剣に目で訴えながら考える。おそらくギャリーは自分がまずい手紙か資料を手に入れてしまったと考えているのだろう。それは紛れもない事実だったが、ギャリーに見られると事態がますます悪くなることくらいは彼にもわかった。

「それほどのネタか?」

ギャリーは少し驚く。

「ああ」

ギャリーは馬鹿ではない。王国軍の幹部や役人のように、脅すには危険すぎる相手がいると知っている。ホーマは相手が察してくれることを願った。これは自分だけのためではなく、ギャリーの身の安全のためでもあるのだと。

「店の裏帳簿ってわけじゃなさそうだな。軍か、それとも役人の不正の証拠か?」

答えを知ったらこいつはどんな顔をするか。ホーマは苦笑したくなった。

「ギャリー、頼む」

「まあ、お前はいつも上がりを期日までに収めてるし、何度か頼みを聞いてもらったこともあったな……」

「そうだろう?」

引いてくれるか。ホーマは淡い期待を抱いた。

「腕と引き換えでどうだ?」

「腕?」

ホーマは思わず聞き返した。

「お前の腕一本と引き換えにその紙を読まない。その覚悟があるか?」

ギャリーはつれてきた用心棒に視線を送り、相手は腰から剣を抜いた。どちらもその目は冗談を言っていない。ギャリーとはいくらか冗談を言い合える仲になったと思っていたが、すべて勘違いだったとホーマは思い知る。

「お前の覚悟を確かめたいんだ。俺は覚悟のある奴には敬意を表する。切った後でやっぱりその紙を見せろなんてふざけたことは言わない」

ホーマは必死に考える。落書き帳といってもいい数枚の紙切れのために腕を犠牲にするなど馬鹿げている。それにギャリーが腕を切ったあとに約束を破って紙を見る可能性もあるではないか。だが、この紙を見せた場合、ギャリーも自分も命をとられるかもしれない。4人の子供達は誰が世話するのか。真っ白な紙を見るがそこに解答が書かれているはずもない。しばらく時間が流れ、彼は決断した。

「わかった。一応聞くが、どうせ利き腕だろ。上手く切ってくれよ」

ホーマは最悪よりマシな方を選んだ。ギャリーは馬鹿ではなく、自分を殺しはしないだろう。それに対してナーベは未知だ。どこまでするのか全く読めない。最良のケースは自分が腕を切られ、ギャリー達が帰り、ナーベに紙を渡して話が終わることだ。それ以外のケースでは自分は死ぬ可能性がある。絶対に腕を切られる道と死ぬかもしれない道。どちらもろくでもないが、選ぶ道は明らかだ。本当に運が悪いとホーマは思った。しかし、運が尽きたわけではなかったらしい。

「その話、待ってくれる?」

氷の声が部屋に響いた。

 

 

話は聞かせてもらったわ、とばかりに入り口にナーベが立っているが、最初からいたことをホーマは知っている。振り返ったギャリーと用心棒の顔は見えないが、その表情は簡単に想像できる。

「それは私のものなの。返してもらえる?」

「あんたは……」

ギャリーの声には驚きと困惑があった。

「返してもらえる?」

ナーベの顔には何の感情も窺えない。怒っているわけでも焦っているわけでもなさそうだ。ホーマにはそれが逆に不気味だった。

「いや、落し物は落とし主に返すのが決まりだ。これはあなたのものなんだね?じゃあ、返すよ。いいだろう、ギャリー?」

ホーマはむこうに加勢することに決めた。正直、したくはないが、抵抗するより協力して機嫌をとるほうがいい。やはり弱者は強者に慈悲を願うしかないのだ。

「ああ、そうだが……」

ギャリーは一瞬何かを考えたらしい。

「これは捨ててあったものと言ってただろう、ホーマ?都市法ではゴミを拾っても持ち主に返す義務はないはずだが?」

やめてくれとホーマは言いたくなった。おそらくギャリーはそれが魔術師ナーベの何らかのまずい手紙だと推測したのだろう。ある意味、それは当たっている。もちろんギャリーも相手を本気で怒らせる気はないはずだ。一人で軍に匹敵する存在と戦って勝てるはずがない。だからここは相手がどこまで怒るかを計りつつ、法律を盾にとって情報の確保に動いているのだろう。彼から見ればギャリーが法律を盾にとるなどふざけた行為ではあるが。

「……そう」

部屋に霜が下りそうな声にホーマは鳥肌が立つ。

「ギャリー、これは俺が拾ったものだ。俺がどうしようと問題はないだろう?」

「いや、その理屈は通らないぞ」

ギャリーは反論した。

「お前の子供達がゴミを回収できるのは俺達が保護しているからだ。そこを否定するならこれから先俺達は一切協力しないってことでいいのか?」

板ばさみだとホーマは思った。彼は二匹の獣の口に引っ張られる状態になった。戦力的にはナーベに加勢したいが、ここでギャリーに恨まれると自分も子供達もロクな未来が待っていない。彼は救いを求めるようにナーベを見た。彼女は一瞬視線を外す。また、誰かと話をしているな、と彼は思う。

「じゃあ、買い取るわ。いくら払えばいいの?」

これはホーマにとって意外な発言だった。最悪、この場の全員を殺して紙を奪い返すんじゃないかと恐れていたが、むこうも穏便に解決する気はあるらしい。同時に、これはギャリーの望んだ展開だろうとも思う。結局のところ、彼らは金しか求めていない。紙の内容を見なくても金になるならそれで良いのだ。

「そうだな」

ギャリーは顎に手をやった。おそらく頭の中では相手の経済状態を考え、猛烈な勢いで計算が行われているだろう。いくら吹っかける気か。ホーマは固唾を呑む。

「金貨百枚」

ホーマは死を覚悟した。

「冗談だ。金貨1枚」

その言葉にホーマは安堵しつつ、ナーベの様子を見る。彼らの収入が噂通りなら金貨1枚など小銭だろう。だが、ナーベは気づいているだろうか、と彼は不安になる。問題は紙そのものより情報だ。ギャリーがここで引いてもあとで自分から情報を聞き出そうとするはずだ。魔術師ナーベは読み書きがまだできない。その情報でどんな利益が得られるかはわからないが、決して知られたくはないだろう。

(ということは、やはり紙を回収したあとに俺の口封じを……)

彼の心に重たいものが広がる。しかし、ナーベが口にした言葉は意外なものだった。

「金貨百枚ね。いいわよ」

ホーマとギャリーは一瞬石になる。

「いや、百枚は冗談で……」

ギャリーはありえない金額に動揺したようだ。

「百枚じゃ少ない?じゃあ、千枚」

ありえない金額が十倍に増え、ギャリーは言葉を失う。

「二千枚。五千枚。一万枚」

ナーベは数を増やしてゆく。

「十万枚。百万枚。一千万枚。一億枚」

「わかった!もういい!」

ギャリーは絞首台に立たされた人間のように叫んだ。

「この件からは手を引く。二度と口に出さない。約束する」

「……そうなの」

ナーベは無表情のまま言った。ホーマはギャリーに遅れて彼女の発言を理解した。あの値段はギャリーの命の値段なのだ。取引が成立すれば殺され、あの世で金を受け取ることになる。そう言われていることをギャリーはすぐに理解したのだ。

(これが強者のやり方なのか)

ホーマは思った。ギャリーは本当に口が上手く、交渉の席についたら最高位冒険者でも苦労するだろう。しかし、ナーベはそんなことをしなかった。圧倒的強者は交渉のテーブルに座らず、それをひっくり返して剣を振りかざす。それで話を終わらせることができる。最初に交渉に乗る振りをしたのはナーベか彼女と魔法で話をする何者かの遊びだったのだろう。一個で軍に匹敵する存在だからこそできる解決法に彼は驚嘆した。

「そこの男に二度と近づかない?」

ホーマを指してナーベは言った。

(ああ、俺から話を聞き出さないようにするためか。とすると、俺は殺されないのか?)

ホーマの中で小さな希望が生まれた。といっても、すぐに状況が変わるかもしれず、決して楽観的にならないように努める。

「ああ、約束する。殺されたくないからな」

ギャリーは怯えた顔でそう言い、すぐに部屋から去った。

 

「行かせてよかったのですか?」

ナーベラルは小さな声で聞いた。

「ちょっと待て。……うむ。良し。あっちの男達の問題は解決した。しかし、そいつはなかなか大したやつじゃないか」

アインズは楽しそうに言い、その声はナーベラルの頭の中だけに響く。

「お前の秘密を知られないためにあそこまでするとは」

「腕一本など大した事ではありません」

ナーベラルから見れば腕を切り落とすなど大した事ではない。ルプスレギナやペストーニャなら簡単に治癒できるからだ。

「人間の世界では手足の再生はかなり高位の魔法らしい。大金も必要だとか。こいつの身分を考えれば一生治せないことを覚悟してああ言ったのだと思うぞ。簡単に治せる立場の者とは言葉の重みが違う」

それなら少しは認めてやろうかとナーベラルが思ったかはわからない。ただ、反論はしなかった。

「では、さきほどは中断されましたが、あれに魅了の魔法をかけますので、そのあとは……」

「待て、ナーベラル。紙を回収すればユグドラシルの文字が他所へ流れる危険は消える。そいつの記憶消去もユグドラシルの文字の部分だけにしようと思う。もちろん他にお前の秘密を知ってる人間がいないかを聞いてからだが」

「記憶を全て消さなくてもよろしいのですか?」

ナーベラルは不思議そうに聞いた。

「そいつがお前のことを口外する勇気はないだろう。もちろん魅了で確認するがな。それより、そいつの利用法を思いついた」

「この人間に、ですか?」

ナーベラルは目の前で立ちすくむ汚い格好の人間を見る。こちらが会話の最中であり、邪魔すると命が危ないとわかっているのだろう。相手は不安を顔に出したまま審判を待っている。

「それとナーベラル、お前の今回の失態への罰を考えていたが、今、それも決めた」

「はっ、この命で謝罪を」

「いや、その必要はない。ナーベラル・ガンマ。そいつの利用法でもあるのだが、お前には一つの屈辱を与えよう」

アインズは審判を告げた。

 

 

ギャリー達は貧民街を歩いてゆく。路地にいる大人も子供も彼が来たとわかると怯えを見せ、すぐに身を隠した。彼のグループが貧民街を仕切っているからだ。以前まではある傭兵団に属する者達がこの辺りを支配しており、彼らはそこまで幅を利かせていなかった。しかし、ある日からその一派は全く姿を見せなくなった。ついに王国軍か冒険者に追われて討伐されたか、遠い土地へ逃げたのだろうと彼は想像している。その瞬間的なポストの空きを彼は見逃さず、仲間達と素早く入り込み、貧民街の次の支配者に納まった。その時、やっと運が向いてきたと彼は思った。しかし、今、彼は最悪の気分であった。

「クソ」

ギャリーが普段つかない悪態が口から出た。

「ナーベは思ったよりずっと知恵が回りますね」

彼の仲間であり用心棒であるガリクソンが言った。

「ああ、クソ。本当にそうだ。こっちのペースに引き込まれなかった。交渉なら上手いこと誘導できる自信があったが、むこうはそんなものを無視して武力をちらつかせてきた。それで正解だ。本当に賢い女だ」

ギャリーはその事実に苛立っていた。手紙に金貨1枚という価格をつけたのは本当に金貨1枚がほしかったからではない。相手が怒らず、応じそうな金額として彼は提示した。ナーベがそれに応じた場合、相手の怒りのレベルを計りつつ、細かい条件を確認して話を引き伸ばし、会話の中で手紙の所有権がホーマではなく自分達にあると認めさせる気だった。そして当然のこととして手紙の内容を確認する。その企みはナーベの冗談交じりの恫喝であっさり消滅した。

「それで、ホーマから話を聞くつもりは……?」

ガリクソンは恐る恐る聞いた。

「ないに決まってるだろ」

ギャリーはガリクソンの目を見て何度か目をしばたたかせ、自分の耳をぽりぽりと掻いた。サインだった。

「……そうですか」

ガリクソンにも意味は伝わったらしい。盗み聞きに警戒しろという意味が。

「この件はもう忘れよう。それよりジャイロの件だが、あいつの口は必ず割らせるぞ」

「……ああ、あいつですね。わかりました」

ジャイロなどという名前は今初めて口にしたが、ガリクソンもそれがホーマのことだと理解したようだ。ギャリーは満足する。この件を二度と持ち出さず、ホーマにも近づかないという約束は全くの嘘だった。顔に怯えを出し、即座に逃げ出すことでこちらはあきらめたとナーベに信じ込ませる。うまくいったはずだと彼は思う。怯えていたのは事実なのだから。

しかし、念のためにここでも演技を続け、別人の名前で会話を進める。魔術師なら占術の魔法で相手の状況や会話を知ることができるだろうし、家の外では誰が聞いてるかわかったものではない。

「ジャイロの持ってたブツ自体はもう手に入らないでしょう。証拠がなくても話だけでネタになりますかね?」

「ジャイロに話を聞いてみないとわからん」

二人は架空の人間の話をしながら歩く。

「ジャイロは俺達より……えーと、アイツの側につくんじゃないですか?聞いても答えないかも」

アイツ。もちろんナーベのことだ。

「答えるかじゃなくて、答えさせるんだよ。それに、あいつは俺達に大きな借りがある。そこを突けば口を割るはずだ。あいつは痛みより不義を持ち出すほうが操りやすい」

ギャリーのいう大きな借り。ガリクソンにもそれが何かはわかっている。ホーマが儲けを誤魔化していることだ。ギャリー達はとっくにそのことに気づいていたが、あえて放置していた。いざという時に大きな要求を飲ませるためだ。今回がまさにその時だった。

「ただ、ジャイロから話を聞き出せるかはまだわからない。奴が殺されたら不可能だからな」

「アイツに消されるってことですか?」

ガリクソンは驚いた。

「可能性はある。俺達が来たから奴を消さないかもしれないが、あれくらいの上位者になると気にせず殺すかもしれない。衛兵も怖くて調べないだろう」

「なんて奴らだ。衛兵なら街の平和をきっちり守ってほしいもんです」

「全くだ」

彼らを良く知る者がこのセリフを聞けば呆れ果ててものも言えないだろう。

「待ってください。ホ……ジャイロが殺されたらそれをネタにできませんか?」

「馬鹿を言うな。証拠を残すはずがないし、どんなに間接的にやっても俺達が関わってると丸わかりだ。大急ぎで殺しにかかってくるぞ。アイツがやって来たらお前が戦ってくれるのか?」

「す、すいません」

ガリクソンは謝った。

ギャリーは何度も言っていることをすぐ忘れる仲間の愚鈍さに苛立つが、自分を抑える。中途半端に賢いのも困るからだ。

「衛兵や役人のような強者の弱みを握ってもあからさまな強請りなんてできるか。むこうが武力に頼ったら終わりだ。こっちが弱みを握っていることにも気づかれちゃならない。そういう意味ではアイツと接触したことで俺達はすでに失敗してる」

「大丈夫ですかね?」

ガリクソンは不安そうに聞く。今回は衛兵や役人より遥かに恐ろしい相手だから。

「いつも以上に慎重にやる必要がある。俺達二人はアイツとその相棒の前には絶対に出られない。接近させるなら別の奴にさせよう。気を引き締めろ。手順を間違えたら俺達は行方不明にされるぞ」

ギャリーは弱みを握った相手がある程度の武力や財力を持っていた場合、決してその人物に恨まれないように行動し、なおかつ利益を引き出していた。彼が最も気に入っているのはある商店の不正行為を知ったときの仕事だ。役人にばれたらしばらくの期間は営業停止になる。本来はその程度のネタだった。店の主人はそれを某人から隠すために汚い工作を行い、それを隠すためにさらに汚い工作を行い、最終的に懲役刑になる罪と借金を抱えるようになった。そこの娘は両親を助けるために健全な酒場で働き始め、そこから不健全な酒場へ代わり、麻薬と賭け事を覚え、最後は娼館で働くようになった。どちらも仲介したのはギャリーであり、すべては彼が巧妙に誘導していたのだが、本人達は陥れられたと今も気づいていない。利用されたことにも気づかせない。大型の獣に寄生虫のように取り付き、養分をすする。それが彼の強者に対する戦い方だった。ただし、この巧妙な犯罪には欠点もある。あからさまな強請りや脅迫と違い、時間がかかることと協力者が多いために分け前が減ることだ。それでもギャリーはこのやり方が自分の性に合ってると考える。強者に恨まれたり、衛兵に追われるのはご免だったから。

「やはり俺達がどう動くかはアレの内容次第だな。全く想像ができない。犯罪の証拠ってわけじゃないだろうが」

「どうしてです?あれだけ脅してくるってことはやばい内容じゃないですか?」

「お前なあ」

ギャリーは周囲に注意しつつ、相手に小声で聞く。

「お前はやばい事を書いた紙をそのまま捨てるのか?自分で燃やすだろう?」

「ああ、確かにそうですね」

ガリクソンは理解した。

「そこまで危険な内容じゃないはずだ。かといって無視できるようなものでもない」

ギャリーはあの紙の内容について考えを巡らせた。

(紙は5枚あった。手紙にしては長すぎる。折り目がついてないからどこかから送られてきたんじゃなく、ナーベ自身が書いたんだろう。何かの下書きじゃないか?それを一度捨てたが、誰かに盗み読みされるのが怖くなって回収しに行った。そしたら孤児が持っていったと聞かされ、慌てて探しに行った。そんなところか?どうやって手紙の場所を見つけたかはわからないが、魔術師なら難しいことじゃないんだろう)

「もう少し俺達が来るのが早かったら……クソ。過ぎたことを考えるのは馬鹿のすることなのにどうしても考えちまう」

ギャリーは頭をかいて苛立つ。逃した魚はそれだけ大きかった。

「ジャイロが俺達のところへブツを持ってきてくれたら最高だったんですがね」

「おいおい、ジャイロは臆病だから俺達に従ってるんだ。アイツを敵に回す勇気なんかあるわけない。ブツを処分して一生黙っているつもりだったはずだ」

ホーマは本当に馬鹿な奴だとギャリーは思っている。奴は子供達を守ってもらっていると思い込んでいるだろうが、もっと知恵があればギャリー達に渡す金を使って自分の武器を買うなり、子供達を自衛させるなりするだろう。どんなに才能が不足しても人は努力すればそれなりの強さを得られる。必死になれば冒険者の金クラスまで強くなれるはずで、そこから先は才能の世界だと彼は思っている。それをあきらめて他人に戦いを任せたり、慈悲にすがるのは馬鹿だ。貧民街は馬鹿の集まりだ。ここでいくら幅を利かせても自分はネズミの王様だ。だからこそ早く上に行きたいと彼は思っている。それにはもっと金が要る。

(しかし、何かの下書きだとして、一体何が書かれている?)

ギャリーは金銭目的もあるが、魔術師ナーベが隠したがる秘密に強く興味を引かれた。ガリクソンに言ったとおり、その内容は大犯罪というわけではないはずだ。しかし、見られて平気なほど小さなものでもない。あの雪のような頬が赤く染まるような秘密なのだろうか。

5枚。彼はそこがどうしても引っかかった。何度も書き直している。南方から来た才能ある若い魔術師が何度も書き直すようなこと。書き直すことで彼に思い浮かぶのは詩人の創作くらいだが、それはないとすぐに判断する。詩を書くような趣味なら失敗作の処分も手馴れているはずだ。書いていたのは慣れないことだ。魔術師。南方から来た。何度も書くこと。練習。練習。練習?ギャリーに一つの天啓が訪れた。

「練習、か」

「え?」

急に立ち止まったギャリーをガリクソンが訝しむが、今は話しかけるなとギャリーは言い、思考に没頭した。

「ありえるな」

まだ可能性の段階であるし、ガリクソンはそれほど鉄仮面ではなく、隠し事が顔に出るタイプなので今は話せない。しかし、魔術師ナーベは読み書きの練習中であるという推測にギャリーは自信を持ち始めた。彼の脳が高速で計算を始める。もしも文字の読み書きができないなら、ああも必死に紙を回収する理由もわかる。この都市で文盲が軽んじられるというだけではなく、冒険者としての登録にも法律上の問題が出てくる。字が読めないなら契約書の内容も確認しようがないからだ。実際には文盲に近い冒険者も少なからずいるだろう。小さな村の出身なら珍しくもなく、仲間が読めるのだから勉強を後回しにする者や怠け者もいるはずだ。しかし、そこは問題ではない。ナーベがそれを隠したがっていることが重要なのだ。それを隠すために危険なことまでしようとする。ならばそれを利用してやればいい。

(例えば、ナーベが利用する店を探す。店員を買収するか脅して商品の受取書に見せかけた書類にナーベの署名を求める。その内容を利用して経歴に小さな汚点を作る。それを隠すために裏工作をするように誘導して、そのままずるずると……)

ギャリーの中で陰険な企みが無数に生まれてくる。彼は非常に賢かった。与えられた少しの情報から真っ白な紙の裏側に書かれたものへたどり着いたという点では賞賛されるべきだろう。しかし、彼の知能は考える方向を全く間違っていた。彼があれこれと企み、それがまとまりかけた頃、ふとガリクソンの気配がないことに気づいた。

「ガリー?」

彼は左右を見る。ガリクソンの姿はない。

「ガリー?」

彼に何も言わずに行ってしまうはずがない。来た道を振り返ったがやはりいない。誰もいない暗い路地。そこにいるのはギャリーだけだ。

「おいおい……」

彼は何が起きたのかを瞬時に理解した。ガリクソンは襲われた。透明化の魔法を使う何者かに。血痕がないから刃物は使ってない。形跡を残さないためか、気絶させて尋問する気か。彼は脱兎のごとく駆け出した。しかし、3歩も行かぬうちに何かが彼の体を抱きしめた。

「え?」

ギャリーは腕が動かせなくなり、自分の体を見るも何も見えなかった。透明化の魔法。それを思い出すが、その何かは足と首にもその腕なのか触手なのかを巻きつけた。巨大な蜘蛛が後ろから絡みつくような感覚だった。

「が……あ……!!」

ギャリーは叫ぼうとするが、声が出ない。直立して口を大きく開けるその姿はそばで誰かが見れば道化のようで滑稽だっただろう。しかし、見る者はいない。みんな彼を恐れて逃げてしまった。

(透明化したモンスター?この都市内で?召喚された?)

ギャリーは氷のように冷たい声と目を持つ魔術師を思い出す。

(あいつだ……。俺があきらめてないと見破った……。違う!そうじゃない!)

彼の思考の中に火花が散った。これもまた彼に降りた天啓だった。

(念のためだ!念のために殺しておく!俺があきらめるかなんて関係ない!)

人の命などなんとも思っていない。恐ろしい考え方にギャリーは窒息感と四肢を締め付けられる苦痛を感じながらも身が凍った。彼は人を殺したことはなかった。それだけは避けていた。

(こんな奴が最高位冒険者だと……ふざけるな……誰か……)

ギャリーの意識は闇の中に沈んでいく。最後に頭に浮かんだのは世にも美しい魔術師の顔だった。その日からギャリーとガリクソンの姿を見たものはいない。直後に彼を探す者ならいた。彼の仲間達だ。しかし、彼らもまた行方不明になった。以後、彼らを探す者はいなかった。

 

 

「物が男性か女性か中性か。それで冠詞の形が変わるんです」

「どうして?」

魔術師ナーベは苛立って聞く。

「そもそも物に性別があるなんておかしいでしょ?生き物じゃあるまいし、家や家具に性別があるの?」

「王国語はそういうものなんです」

ホーマは辛抱強く言い聞かせる。場所はホーマの部屋であり、ナーベは椅子に座ってホーマから王国語の授業を受けていた。ギャリーが去った後、ホーマは一瞬記憶があいまいになった。おそらくは魅了の魔法を使われたのだろうと彼は推測している。自分が紙の内容を誰かに話していないか。そして、その情報を悪用するつもりがないか。この2つを確かめたのだろう。魅了とは隠し事がある場合には恐ろしい魔法だ。しかし、潔白を証明するには都合がいい。悪用する意志がなかったおかげか、ナーベも命まで取る気はないようで、ホーマが例の紙束を返した後、一つの提案をした。魔術師ナーベに王国語を教えることだった。給金も出すらしい。そう言う彼女の顔は引きつっており、どうみても自分から望んで提案しているわけではなさそうだったが、その裏に何があるのかを彼は考えないことにした。この仕事の依頼を拒否したらどうなるのか。それも考えないことにした。

「そもそもこの冠詞というのは何のためにあるの?必要ないでしょ?」

「チビらも同じことを聞いたことがありますけど、そういう決まりとしか言えません」

「どういう基準で物の性別が決まるの?見分け方は?」

ナーベはさらに聞く。

「見分け方はほとんどないですね。女性が使うものでも男性名詞だったりしますし、やっぱり覚えるしかありません」

ホーマは子供達に教えるよりずっと丁寧にナーベに教える。彼女の短気っぷりは4人の孤児達を遥かに凌駕するからだ。

「廃止しなさい」

ナーベは憤然として言った。

「それは国王に言ってもらわないと」

ホーマは苦笑して言った。この人なら本当にそうするかもしれないと彼は思う。ナーベの第一印象は冷酷な女だったが、しばらく話してみるとそう悪い人間ではないと彼は思う。いや、これっぽっちも温かみはないし、傲慢ここに極まれりという態度や物言いはある。他の人間を虫のようにしか思っていない。

(そういえば王族は平民を動物のように思っていて、裸を見られても気にしないって話があったな)

美姫という二つ名のとおり、本当にどこかの大国の姫君なのかもしれないと彼は思う。そうでないとここまで傲慢な性格の説明がつかない。

(いや、傲慢とはいえないかもしれないぞ)

ホーマのような貧乏人でも馬車を乗り降りする豪商の娘や貴族の令嬢を遠くから見ることはあった。確かに美しく輝いていたが、それは高価な宝石や衣装のおかげであって、ナーベのように質素なローブで身を包めばただの市民に紛れてしまうだろう。その身だけで光り輝き、最高位冒険者としての実力と実績もあるのなら傲慢は傲慢でなくなる。

「国王に言えばいいのね。わかった」

「ほ、本気で言うつもりですか?」

ホーマは焦った。自分のせいで王国に波乱が起きるかもしれない。

「ノミの作った決まりにどうして従う必要があるの?」

ここまで言えるならもはや褒めるしかないと彼は思った。

「いや……すごいですね。ナーベさんは」

「は?」

「国王をノミ呼ばわりするなんて俺にはできません」

「国王じゃなくてあなたたち全員のことよ」

住む世界が違うと彼は思い知る。ギャリーも自分も国王も変わりはない。圧倒的強者から見ればそうかもしれない。

(変わりはない?)

ホーマの中に疑問が生まれた。アダマンタイト級冒険者に比べれば大半の衛兵やゴロツキなど市民よりほんの少し強い程度のものだ。では、自分が彼らを恐れたり、ギャリーに金を払ってきたのはなぜだろう。

(そういえば本当にギャリー達が来なくなったな)

あれだけ脅されたら無理もないかと彼は思った。ギャリーと縁が切れたので子供達を守る別の手段が必要になる。誰に頼むべきかを彼は考えていた。

(頼む?どうして誰かに任せるんだ?)

「ナーベさん」

「は?」

「変なことを聞きますけど、俺が他の人に報酬を払って身を守ってもらうように頼むのはおかしいと思いますか?」

「当たり前でしょう」

ナーベは世界の基本法則のように言った。

「コメツキムシがひれ伏すべきなのは私達だけよ。それ以外にひれ伏してどうするの?」

ホーマは相手の言いたいことを考える。頼るなら真の強者に頼り、そこらの自称強者に頼るなということだろうか。

「ナーベさんにひれ伏したら助けてもらえます?」

「助けるわけないでしょ」

彼女は一度だけため息をつき、虫の屍骸を見るように、つまりいつもどおりの目でホーマを見た。

「あなた、自分がひれ伏すことや差し出す物に価値があると思ってるでしょう?なんの価値も意味もないのよ」

この言葉はホーマに衝撃をもたらした。強者の前に跪いて財産を差し出し、慈悲を願うしか弱者にできることはない。そう思っていた。だが、それは何の意味もないとナーベは言った。

()()()()がどれだけ機嫌を取ろうが、報酬を払おうが、価値も意味もないの。ゲジゲジが足にまとわりついてくるのと同じで不快だわ」

下級市民がすり寄る姿はそういう風に映るのかとホーマは思った。しかし、それを認めるしかなかった。自分達が払える報酬など僅かであるし、ひれ伏すだけならタダだ。それで強者にどんな保護を期待していたのだろう。本当の危機が訪れたときにギャリーが命がけで守ってくれると思ったのだろうか。

「ちょっと?これって何の話?」

ナーベがキレかかっている。まずいと彼は思った。

「あ、すみません」

ホーマは深々と頭を下げる。

「それで、冠詞とかいうもの以外は?他は同じなんでしょう?」

「いいえ、動詞の形も主語の種類によって変わります。多いと40通りくらいありますね」

「は?」

ナーベは自分の耳を疑ったらしい。

「大丈夫です。動詞は語幹さえ覚えればだいたいの意味は……」

ホーマは王国語の授業を進めながらも、これまで続けてきた自分の生き方を考え直し始めた。

王国語の授業は何度か続き、そして、終わりの時が来た。

 

「これが授業料?」

渡された謝礼を見てホーマは寒気がした。それほどの金額だった。

「俺は今から殺されるんですか?」

「殺すならお金を渡さないでしょう?」

ナメクジ程度の知能もないの、とナーベは付け加えた。

「言うまでもないけれど、口止め料でも手切れ金でもあるわ。誰にも今日のことを言わないこと。約束を破ったらどうなるかはわかる?」

「はい、わかります。ただ、手切れ金ってことはもう会うことはないってことですか?」

ホーマは残念そうに言った。

「会う理由がないでしょう?」

「そう……ですか?」

ホーマは美姫が住まう王城の壁に梯子をかけてみた。

「会いに来たら殺す」

「あ、はい。わかりました」

城の窓から火炎瓶が降ってきた。文字を教えている間にホーマの中で芽生えていた何かが消えてゆく。馬鹿げた夢だった。

「じゃあね」

「あ、待ってください」

ホーマは持っていた小冊子を渡した。

「これは?」

「王国語の文字一覧と文法の仕組みを書いてます。俺は学者じゃないからあちこち不完全だろうし、ナーベさんの国の文字がわからないから辞書にもなりませんが、良かったら使ってください」

ナーベは受け取った冊子を見た。表情は変わらない。再びホーマの目を見る。

「そう。ありがとう」

彼女はそう言うと転移の呪文を唱え、その姿は消えた。名残を惜しむ時間などなかった。剣の達人に斬られた相手がしばらくそれに気づかないように、ホーマは少し経ってから別れが終わったことに気づいた。周囲を静かな時間が流れる中、彼は手に持っている金を見る。

「これまで消えないよな?」

これで金も消えたら、自分が見たのは全て夢だったと信じるだろう。ジャラジャラと音を鳴らし、重さを確かめる。消えないらしい。これだけ金があれば数年は暮らしてゆける。

(いや、それじゃだめだ)

ホーマは思う。まずは戦い方を習おう。引退した冒険者の中には個人道場を開いている者がいる。金さえ払えば自分が留守の間だけ子供達を任せられる者もいる。戦い方を覚えたら子供達にも教えよう。4人の子供達の誰かに武術か魔術の才能があるかも確かめたほうがいいだろう。自分に武の才能が全くなければ商人組合に金を払って職人に弟子入りする道もあるが、それは確かめてから考えればいいことだ。武術剣術がいくらかものになりそうなら冒険者の道も考えよう。冒険者。その頂点に君臨し、さきほどまでそこにいた女性の顔を彼は思い浮かべる。

「ナーベさん、か」

呟きは部屋にかき消え、再び静寂が戻る。それを破るものがあった。子供達の喧騒だ。帰ってきたらしい。彼は世にも美しい夢を頭から消し去り、現実を歩き出した。








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