引用とコスト 「これがポストモダンだ!(2)」へのあれこれ

先日、togetterにこんな話題がまとめられてました。

これがポストモダンだ!(2)

ちょっと煽りっぽいタイトルがついてますが、分析哲学 vs. ポストモダンという大きな(そして月並みな)話ではなく、なにかを論じるときに哲学者の名前をどう使うか、といった哲学の話をするときの方法の問題として読むのがいいんじゃないかと思っています。

まとめで応酬を繰り広げてるのは江口聡さんと植村恒一郎さんです。江口さんは生命倫理やセックスの哲学で有名な先生で、倫理学や大学教育についてブログを通して活発に発信されています。植村さんは近現代哲学の専門家で、特にカントや時間論の研究で広く知られています。ジェンダー論についての論文もありますね。

やり取りの主要な対立軸がわかるのはこのあたりのツイートでしょうかね。

江口さんも、「○○:(哲学者名)」哲学の研究には意味がない、というような話はしていない。そうじゃなくて、テーマベースで哲学の議論をするときに哲学者の名前を出すのはあくまでもクレジットにすぎない、というような話をしています。動物倫理の話をするときにピーター・シンガーの議論というのはよく参照されるけども、その多くは別にシンガー研究をしているわけではない。あくまでも「議論をセッティングしたひと」として学問上の作法として名前が出され、読者が「本当にシンガーはそんな話をしてるのかな」と確認したいときのために参照指示がなされているのだ、という趣旨だろうと思います。

それに対して植村さんは哲学研究の主要な仕事は、ある哲学者の議論を踏まえたうえで、その議論が別の文脈や状況設定でもそのまま通用するかを確かめてみることにある、というようなことを言っているように見える。「異なる意味を立ち上がらせる」というのはちょっと難しいのですが、これまで誰も理解してこなかった(ことによると原テキストを書いた本人すらわかってなかった)議論のポテンシャルが分かるかもしれない、というようなことでしょうか。

問題はここからで、私には植村さんのやりかたはリスクがあるように思うし、そのリスクにどれくらい自覚的なのかちょっとわからない、という印象を受けてます。

純粋に哲学的な議論でも応用倫理的・実践的な問題でも、過去の哲学者の議論に関連するものがあったらそれを引いてくることには別に全然問題はない。それに異議を唱えているプロの哲学者というのはほとんどいないと思います。死刑の話をするのにベンサムやミルをもってきたり、民主主義にいかなる権威があるかを議論するのにそれは実はプラトンの『エウテュプロン』と同型の問題である、とかを指摘するのは一般に有益でしょう(プラトンがやったのと同じ返し方が有効だ、ということがわかるわけですから)。

ただし、こうした過去の哲学者の議論の引用や参照が歓迎されるのは、あくまで議論そのものを展開するにあたってそうすることが必要だと認められたときだけです。よく「自分の意見が主、引用は従」と言われたりしますが、これは単に量的なものだけでなく「引用する際にはその引用をする必然性を示せ」みたいな意味が入っていると思います。

論文をできるだけ読みやすいものにするのは著者の義務です。自分では議論の根幹に関わるものだと思っていても、ほかの人がそう読んでくれる保証はまったくありません。だから多くの場合、引用した後にはその引用がどういう内容なのかを敷衍したり全体の議論との関係を説明するパートが続きます。このとき「従」であるはずの引用があまりに難解だと論文全体の読みやすさは著しく下がります。引用それ自体に読者がひっかかりを覚えてしまうだけでなく、その内容を説明するパートが丁寧であれば丁寧であるほどトピックベースの議論からはなれて文献解釈の要素が濃くなってしまうからです。議論がどこに向かっているのかわからないものを読むのは一般にかなり苦痛です。せめて文献解釈の論文なのかトピックベースの論文かくらいははっきりさせてほしい。それは無茶な要求ではないでしょう。

先のtogetterのやり取りで私があまり植村さんの意見にのれないのは「その話題、そのテーマにその哲学者の引用を出すときのコストとリターンの収支があってるか」という視点があんまりないように感じるからです。自分が知っている哲学者の引用をあるテーマにぶつけるのが楽しい、という感覚は私はちょっとわかります。でもそれは我慢のしどころというやつで、可読性や構成の単純さを犠牲にしてまでやる意味があるかどうかは考えものです。哲学がノーマルサイエンスかどうかみたいな話はここではしませんが、知見の共有が大事だくらいは認めてくれるでしょう。もちろん、そういうコスト感覚をもったうえで、その範囲内で色々試してみたいというなら支持できるのですが、どうもそういう書き方になっていないように私には見える。クリエイティヴなことをやっているんだから読みにくくなっても仕方ない、と言っているように見えたということです。

ここで「援用せざるをえませんでした」と書いていることから植村さん自身は引用の必然性について意識されてることはうかがえます。でも世の中にはそういう意識があまりない人が書いた論文も数多くあるように思えるし、誰もが植村さんのような名人ではないので、この辺についてもう少しはっきり言ってほしかったなあ、というのがtogetterを読んでの感想でした。

結論としては「テーマベースの議論をするときに過去の哲学者を引っ張ってくるときにはコスパを考えましょう」ということです。それだけの話です。

 

長いあとがき

この話に関連してちょっと気になっているのが川瀬和也さんの以下のtweetです。

川瀬さんはヘーゲルの文献研究と分析哲学のどっちにも業績があって、個人的に大変尊敬している研究者の一人です。ヘーゲルはいま分析哲学でも見直しが始まっていて、その流れのなかでこういう悩みが出てくるのはわかるような気がします。

僕自身は「アリストテレスやカントはいいけどヘーゲルはちょっと…」みたいな感覚はなくて、なんでも有効に使えてればオッケー、という感じなんですが、あえて言うなら研究蓄積に多少差があるかなとは思います。ここでいう研究蓄積というのは論文の絶対数というより、ヘーゲル研究者じゃない哲学関係者が読んでわかる本や論文の数がアリストテレスやカントに比べてちょっと少なくて「このへんについては誰それの解釈を参照してください」で済まないことが多すぎる、ということです。

こういうときにどうすればいいかと言うと、自分たちで良い解釈論文の数を増やしていってその解釈を常識にしていくしかないのかな思ってます。川瀬さんは実際にそういったことをやっていて、それは本当に偉いことなので尊敬している、というわけです。

私はといえば、一応リクール研究者の端くれなのでそういう論文を書きたいと思ってます。頑張ります。(『リクール読本』では「リクールを使って現代の議論に参加するのはコストが高いかもしれない」と書いたけど、もちろん状況次第で変わるとも思ってますよ)。

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