【現代語訳】(ねず式意訳)回天詩(天を動かす歌)
これまでに三度、死を覚悟をする
大難に遭ったが、死ななかった。
勤務で水戸と江戸の往復のために
利根川を渡ったのは25回にのぼる。
これまでに五度、要職を与えられた。
都度、自分はふさわしくないとお断りしたが、
毎度、任務を命ぜられ、責任を全うしてきた。
責任を果たすため、
39年の人生で7回転勤した。
人生の出来事は偶然ではない。
我が国の盛衰も偶然ではない。
いま、職を解かれて幽閉され、
風呂にも入れず、
皮膚には垢が沁み着いている。
どんなに人生が世俗の垢にまみれたものであったとしても
骨髄には忠義の炎がある。
前漢の武帝時代の名将である霍去病(かくきょへい=嫖姚)は、
叔父とともに八百名の騎兵を率いて匈奴の征伐をした。
後漢の定遠公(班超)は、西域に遠征して、五十余国を平定した。
私には、彼らほどの武門の力量はない。
春秋時代の魯の歴史家、左丘明(さきゅうめい)は、
「春秋左氏伝」「国語」を著し、
前漢の歴史家、司馬遷(しばせん:馬遷)は「史記」を著した。
私には彼らほどの文才もない。
しかし大義を明らかにし、人心を正し、
皇道を打ち立てなければ、
我が国は滅んでしまう。
ならば自分の心を奮い起こし、
八百万の神々に身命を惜しまずと誓おう。
昔の人は「斃(たお)れて後(のち)にやむ」と言った。
私も斃れるまで皇道を打ち立て守り抜かん。=====
この詩がなぜ幕末近い時代の武士たちの心を動かしたかというと、そこに至る背景があります。
江戸中期の安永年間から文化年間に至る時代に御在位されていた天皇が代119代光格天皇(こうかくてんのう)です。
天皇は、朝廷が軽んじられる時代をなんとかしようと、文化14年(1817年)に皇位を仁孝天皇にご譲位されて上皇となられました。
そして築かれたのが京都・学習院です。
これはもともとは貴族の子女たちの教育のためを目的としたのですが、学習院ができるとすぐに全国の諸藩の藩主たちが、自藩のエリート武士を学習院に入門させました。
そしてそこで、我が国の本来の形についての、あらためての教育を受けたのです。
具体的には、我が国は万世一系の天皇が、神々にもっとも近い国家最高の権威であって、幕府や将軍はその天皇から位を授かって政治を行う政治権力であること。
政治権力者である将軍は、各藩を諸藩の藩主に委ねますが、その藩主が預かる領土領民は、すべて天皇の「おほみたから」であること。
その「おほみたから」が豊かに安心して安全に暮らすことができるように、最大限の努力を払うのが、藩主の役目であり、その藩主のもとにある武士たちの役目であるといった内容です。
この学習院の卒業生たちが、世の中の中心に座る頃になると、ひとつの大きな変化が起きています。
それが、勅使下向の際の座席の設定です。
毎年お正月に、将軍家が京都御所の天皇に新年のお祝いを持参します。
その御礼に、京都御所から江戸の将軍のもとに下向するのが、勅使下向です。
勅使は大納言または中納言クラスの方が務めるのが慣例でしたが、当然のことながら、天皇の名代ですから、本来は将軍よりも上座になるものです。
ところが室町以来の慣行で、将軍が上座、勅使が下座というのがしきたりでした。
これがおかしいといって争いになり切腹に至ったのが播州浅野家の浅野内匠頭で、切腹が1701年、赤穂浪士達の吉良邸討ち入りが1703年、つまり光格天皇のご即位の77年前の出来事です。
赤穂浪士の討ち入りは、大きな事件にはなったものの、さりとてそうそう簡単にしきたりが動くわけでもありません。
けれど学習院ができ、その卒業生たちが社会の中心となっていくと、さすがにこれはおかしいだろうということになって、勅使が上座、将軍が下座に変更されました。
足利義満以来、400年ぶりに、ここでようやく天皇と将軍の位置の補正が実現したのです。
もともと江戸の昌平坂学問所にしても皇室尊崇を教えていましたし、水戸藩ではもともと国学が盛んでもありました。
そして学習院がその理由を明確に教えるようになることによって、我が国において藤田東湖の言う、
皇道奚患不興起
斯心奮発誓神明
(皇道なんぞ興起(こうき)せざるを憂えん
この心奮発して神明(しんめい)に 誓う)
という皇道精神が復活するのです。
そしてこの精神が、幕末の黒船来航に際して、あらためて天皇のもとに国をひとつにまとめていこうという動きに繋がります。
ところが明治新政府が江戸時代の社会政治経済文化を全否定し、その全否定された中にあった大日本帝国が敗戦によって再び社会政治経済文化面において全否定されました。
結果、戦後は「皇道(こうどう)」という用語自体がすっかり死語になってしまいました。
しかし国際化社会にあって、我々日本人が世界の中で生きていくためには、我々日本人自身が、日本とはどのような国であって、どのような歴史を持ち、どのような社会構造のもとで政治経済が運営され、そこから生まれる日本文化とはどのようなものなのかを、しっかりと外国人にも説明できるようになることが求められます。
そしてこのとき皇道は、まさに日本の原点として、実はもっとも重要な原点になります。
思うに、いかなる革命改革も、人々の思いに共通するものがなければ成就しません。
ですから西洋では、革命のことをレボリューション(Revolution)といいます。
これは、リボルバー(Revolver)の変化した語で、回転式拳銃のリボルバーと同じです。
要するに回転する復古運動が、革命の原動力になるのです。
もっとも世界の歴史にはその例外もあります。
それが東洋社会にある易姓革命と、西洋における共産主義革命です。
この両者は、社会における民衆の幸せを無視して行われます。
このため、革命を主催する側の都合で、反対派は完全に粛清されます。
つまり殺されます。
ですからロシアの共産主義革命では6600万人もの粛清が行われ、Chinaの共産主義革命を主催した毛沢東も4000万人以上を殺したと言われています。
いま、我が国において、そのような大規模な粛清(殺人)を伴うような革命を希望する人など、ほとんど皆無であろうと思います。なかにはいるかもしれませんが、完全に少数派です。
そのような少数派と一緒になって、「だから少数派を粛清するのだ」と言ったところで、日本社会で世間の承認は得られません。
なぜなら日本人は、どこまでも和の民だからです。
いまの日本を変えるなら、日本の大衆を動かして行かなければなりません。
そのために必要なことは、極左的言動でもなければ、極右的言動でもない、あるいは極端に対立や闘争を図ろうとする保守的言動でもなければ、極端な反日的言動でもありません。
サイレントマジョリティーと呼ばれる圧倒的多数の中間層の心を動かすことです。
和を大切にする日本人は、極を嫌います。
だいたい北極にしても南極にしても、人は住みにくいのです。
右から左まで、仮にそれが正規分布に従うとするならば、圧倒的多数は中間層にあります。
そしてその中間層が夢見ているのは、いつの時代にあっても「よろこびあふれる楽しいクニ」です。
我が国の神語では、この地球そのものが「豈国(あにくに)」として作られたとあります。
豈国とは「よろこびあふれる楽しい国」のことです。
まさに圧倒的多数の中間層の求める理想社会像です。
けれど世界の歴史は、ごく少数の極にある者が、圧倒的多数の中間層を支配し収奪し、これに従わない対極にある人々を敵として争い、攻撃し、殲滅してきたという歴史です。
よろこびも楽しみも、すべては勝者である極にある人たちだけのものであって、中間層は、ただ利用されたり奪われたりするたけでした。
ところが我が国は、国家の頂点に政治権力者ではなく、権力を持たない最高権威をいただくことで、いとも簡単に圧倒的多数の中間層を「おほみたから」とする、究極の民主主義を実現してしまいました。
そしてその国家の形を、古代からずっと保持してきたのが日本です。
この仕組みが「シラス(知らす、Shirasu)」です。
権力による統治のことを、ウシハクといいます。
日本は、そのシラスの中にウシハクを内包させることで、国家の秩序を保持しながら、同時に民衆をこそ「おほみたから」とする社会を形成してきたのです。
そういえばどこかのサイトに、私が「この二つは対立概念である」と述べていると書いているものがありましたが、そんなことを述べたことはこれまで、一度もありません。
人を批判して自分が正しいと自慢したいそういう人たちの気持ちはわからないではありませんが、そもそもそういう対立的なものの考え方をしているから、極になってしまって、世間に受け入れられなくなるのです。
「自分は正しい、他人は間違っている」という世界に入り込めば入り込むほど、世間から乖離していきます。
そして世間から乖離すれば、それがどんなに正しいことであったとしても、人に認められることはありません。
聖徳太子は十七条憲法の中で、このことを次の通り篤く戒(いまし)めています。
第10条
忿(こころのいかり)を絶ち、
瞋(おもてのいかり)を棄(す)て、
人の違(たが)うを怒らざれ。
人みな心あり、
心おのおのに執あり。
彼を是(ぜ)し我を非し、
我を是し彼を非す。
我、必ずしも聖ならず。
彼必ずしも愚ならず。
共にこれ凡夫(ぼんぷ)の耳。
是非の理(ことわり)なんぞよく定むべき。
相共に賢愚なり。
鐶(みみがね)の如くして端(はし)なし。
ここをもって彼人、瞋(いか)ると雖(いえど)も、
かえってわが失(あやまち)を恐れよ。
われ独(ひと)り得たりと雖も、
衆に従いて同じく挙(おこな)え。
(原文)
絶忿棄瞋 不怒人違 人皆有心 心各有執
彼是則我非 我是則彼非 我必非聖 彼必非愚
共是凡夫耳 是非之理能可定 相共賢愚。如鐶无端
是以 彼人雖瞋 還恐我失 我獨雖得 従衆同擧
「彼を是(ぜ)し我を非し、我を是し彼を非す」というのは、互いに「自分が正しい、お前は間違っている」と対立している姿です。
けれど「我必ずしも聖ならず。彼必ずしも愚ならず」です。
自分は聖人ではないし、相手もまた愚かな人ではないのです。
そもそも何が正しくて、何が間違っているのかなんて、神様でもなければわからないことです。
人を殺すのは良くないことですが、元寇の際に唐と高麗の兵をやっつけなければ、いまの日本はなかったのです。
つまり「是非の理(ことわり)なんぞよく定むべき」です。
だから何かあって腹を立てても(瞋(いか)ると雖(いえど)も)、「かえってわが失(あやまち)を恐れよ」と聖徳太子は書いています。
ここで腹を立てることを「瞋(いか)る」と書いています。
「瞋」という字は宮沢賢治の「雨ニモマケズ」にも「欲ハナク決シテ瞋(いか)ラズ」と出ていますが、簡単に言うと目をむいて怒りまくっている様子を表す字です。
要するに口角泡を飛ばして相手を糾弾するのではなく、かえって自分のあやまちを恐れなさいというのです。
日本を変えたい、日本を取り戻す。
そのために政治を変えたいという思いは同じです。
けれどそのためには、政治以前の問題として、我が国に古代から続く天皇と「おほみたから」というシラスの概念を、圧倒的多数のサイレントマジョリティーに普及していかなければなりません。
日本を取り戻す。
それは藤田東湖でいえば『回天』です。
そしてその『回天』は、皇道に基づいたときにはじめて、民衆こそが「おほみたから」であるという根本概念に行き着きます。
なぜなら皇道とは、天皇のシラスによって民衆が「おほみたから」とされ、ウシハク政治権力がその民の豊かさと安全と安心のために責任をもって働く国の形をいうからです。
藤田東湖は回天詩で、「塵垢(ぢんこう)皮膚にみつるとも・・・」と書きました。
それはひとことでいうならば、
「どんなに馬鹿にされてもけなされても、
皇道興起という大義のために、
心を奮発して神々に命ある限り戦い続けると誓い、
行動する」
ということです。
この精神のことを志(こころざし)といいます。
そしてこの精神を幕末に受け継いだのが、幕末の志士たちです。
残念なことに、一部に過激行動に走る者たちが出てしまったことも事実です。
けれど国の政体を変えたものは、諸藩の大名から末端の武士のひとりひとりに至るまで、圧倒的多数の武士たちが皇道興起こそ、外国に打ち勝ち、我が国を護ることになるのだということを理解し、行動したからです。
いまの日本は、武士たちだけでなく、圧倒的多数の有権者たちを目覚めさせなければならないという難しさがあります。
それは、政治を変える前に、人々の意識を変えるという戦いです。
保守がオウムになってはいけません。
「斃(たお)れて後(のち)にやむ」は、神倭伊波礼毘古命の「撃ちてし止まん」の変形です。
今生の命ある限り、どこまでも皇道復古のために戦う。
それは極になる戦いではなくて、どこまでも「よろこびあふれる楽しい国」つくりのための戦いです。
日々是新(ひびこれあらた)に、明るく楽しく前向きに進んで行きたいと思います。
お読みいただき、ありがとうございました。
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