一面「平成」提示、改元の3カ月半前 当時の官房副長官が証言一九八九年一月七日の昭和天皇逝去の約三カ月半前、当時の竹下登首相と小渕恵三官房長官(いずれも故人)に新元号の最終候補として「平成」を含む三案が初めて報告されていたことが分かった。来年五月一日の新天皇即位に伴う改元を控え、平成改元時に官房副長官だった石原信雄氏(91)が共同通信の取材に証言した。 報告されたのは、八八年九月十九日に昭和天皇が吐血して容体が急変し、翌二十日に竹下氏らが官邸で対応を協議した緊急会合の席上。政府はこれまで「平成」の選定過程を明らかにしていない。 石原氏によると、八八年九月二十日午後の会合には竹下、小渕、石原各氏に加え、元号担当だった的場順三内閣内政審議室長(当時)が出席。的場氏が「元号の選定基準をクリアできるのは事務的に報告すれば三つだ」と説明し「平成」「修文」「正化」を示した。中国史の学者らに非公式に考案を委嘱していた中から選ばれたものだった。 竹下、小渕両氏は特に意見を述べず、三案を絞り込む議論も行わなかった。ただ情報漏れを警戒し、案が示されたこと自体も口外しないと申し合わせたという。 石原氏はこの日の様子を「陛下の容体は最悪の事態もあり得る厳しい状況で、改元の問題は急務だった」と語った。元号案は、ごく限られた内政審議室の担当者が極秘に選定作業を進めており「絞り込まれた三案が首相と官房長官の目に触れたのは、この日が本当に初めてだ」と明言した。 八九年一月七日の昭和天皇逝去後、同日官邸で開かれた有識者懇談会や全閣僚会議でこの三案が示され、新元号は「平成」に決まった。 今、あなたにオススメ Recommended by
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