オシムの言葉で渡欧した日本人医師。最先端のスポーツ医学に触れた衝撃。

オシムの言葉で渡欧した日本人医師。最先端のスポーツ医学に触れた衝撃。

 ワールドカップのベルギー戦で大魚を逸したサッカー日本代表に、いったい何が足りなかったのか。「予防医学」が足りなかった。そう言われてもピンとこないだろう。「怪我の予防に活用できるデータの蓄積」が欠けていた。これでもまだ疑問符しか出てこないはずだ。

 では「育成年代の指導者の目先の結果に囚われない勇気」が不十分だったと言えば、どうか。あるいは「怪我を押して試合に出場し、未来を絶たれた若い才能」と言えば?

 まったく別の言い方もできる。日本でも怪我の発生や身体特性に関するデータの蓄積が進み、ヨーロッパのサッカー大国と同じように予防医学が広く行き渡れば、そして怪我をした育成年代の才能がスポーツドクターの勧めで痛み止めを飲むのを止めるようになれば、ワールドカップの制覇も夢ではなくなる。予防医学の効用は怪我の予防や減少だけでないからだ。

 その考え方を応用すれば、個々のパフォーマンスの向上や、多彩な個性の躍動すら期待できるようになる。

スポーツ医療は欧米と比べて……。

 ここからは、日本に予防医学の考え方を根付かせようと、すでに動き出している整形外科医の取り組みを紹介したい。以前は「なでしこジャパン」のドクターを務め、2015年にはアジアサッカー連盟の「ヤング・メディカル・オフィサー・アワード」を受賞した齋田良知(順天堂大学整形外科)の日本ではおそらく前例のない挑戦だ。

<日本のスポーツ医療は、欧米諸国から大きく後れを取っている>

 そうかもしれないと薄々感じていた齋田が、完全にそうだと認めざるを得なくなったのは、2015年4月にイギリスのロンドンで開催された「サッカー選手の医療」だけを対象とする学会に出席してからだ。

 衝撃は大きかった。学会で取り上げられている話題自体が、日本とかけ離れていただけではない。ドクターたちの姿勢がまったく違っていた。研究の先端性を競うのではなく、新たな知識や経験を進んで共有しようと努めていたからだ。情報をシェアする大きな目的は、怪我の予防と減少だった。

オシムに面と向かって言われたこと。

 齋田の脳裏に蘇ってきたのがイビチャ・オシムの言葉だった。オシムとは、ジェフ千葉で監督とチームドクターという関係だった。名将の誉れ高いオシムが日本代表監督に転身してから、齋田は面と向かってこう言われていたのだ。

「日本のドクターは真面目で一生懸命やってくれるが、ヨーロッパのスポーツ医学のほうが絶対に上だ。何がどう違うかは、実際に向こうに行ってみなければ分からない」

 ロンドンでの学会の後、齋田は居ても立ってもいられなくなり、人脈を頼りにACミランの門を叩く。一度は断られながら、育成部門でなら学んでよいとの許可を得て、齋田は2015年12月から17年1月までミラノで貴重な時を過ごす。その知見を通してはっきり浮かび上がってきたのが、日本のスポーツ医療に巣くう看過できない問題だった。

治癒するのは選手自身という認識。

 日本でサッカー選手が、大事な試合や大会の前に怪我をしたとする。指導者から問われるのは「痛いか、痛くないか」だ。痛みがあれば、痛み止めを飲む。プロの世界に限った話ではない。育成年代でも、こうした措置が一般的なのだ。

 イタリアは違う。痛み止めは使わない。薬効が切れたら、また痛くなるだけだと分かっているからだ。向こうのドクターたちは原因を突き止めようとする。なぜ、痛いのか? 身体の使い方が良くないからか、トレーニングが合っていないからなのか――。

 痛みの原因を特定できれば、リハビリへと進む。必要な筋力をつけるか、痛みの原因となっている動きの癖を矯正するか。いずれにしてもイタリアのフィジオセラピスト(理学療法士)は、痛みを取り除く方法を教えるだけだ。治癒するのは選手自身という認識が浸透している。これに対し、日本の選手は治してもらうという受け身の意識が強い。

 筆者でも容易に想像できるのは、怪我が治らず、サッカーそのものを断念する日本の若き才能たちの姿であり、拭い切れない無念だ。痛み止めを飲むのは、大事な試合や大会を目標としてきたからだろう。気持ちは分かる。しかし、長い目で見ると、損失の大きさを思わざるを得ない。どれだけ多くの才能が、開花する前に潰れてしまったか。

「怪我の予防」という概念がない。

 齋田によると、そもそもイタリアにあって日本にないのが「怪我の予防」という概念であり、そのためのスポーツドクターという考え方だ。イタリアのスポーツドクターは怪我を予防し、減らし、さらにはパフォーマンスを向上させるために存在する。

 日本は違う。怪我をしてからお世話になる、つまり手術をしてくれる整形外科医がスポーツドクターという位置付けだ。筆者でも想像できる。慢性化した怪我をせっかく整形外科の手術で治しても、痛みの原因を突き止めないままなら、再発するかもしれない。付け加えると、日本には怪我の予防やパフォーマンスの向上を専門とするスポーツドクターを育てるシステム自体が、事実上存在しないと言う。

 ACミランで齋田が仰天したのは、膨大なデータが蓄積されていたからだ。精密なデータを測定する機器も、システマチックな記録を担う人材も揃っている。例えば小学生年代でスクールに入り、そのまま育成組織に上がって高校生年代まで在籍した選手なら、どのようなトレーニングを何回して、試合でどう起用されたか、その間の体組成の変化やフィールドテストの伸び具合、そして怪我の履歴が細大漏らさず残されている。

 スポーツドクターはそうしたデータを怪我の予防に活用し、あるいはデータから怪我の原因を突き止める。さらには同じような身体特性を持った、より年少の選手の怪我の予防にも役立てる。言うまでもなく怪我が減れば、それだけ練習に打ち込める。質も上げられる。怪我が原因でサッカーそのものを断念するケースも減るだろう。

UEFAにはデータ共有の仕組みまで。

 こうした統計記録は、サンプルの数が多いほど価値も上がる。驚くべきなのは、ヨーロッパにはミランのようなクラブがいくつもあり、しかもデータを共有する仕組みすらできているからだ。

 UEFA(欧州サッカー連盟)が2001年から続けている「エリートクラブ・インジュアリースタディ」には、異なる18カ国から50以上のクラブが参加しており、そこにはレアル・マドリー、バルセロナ、マンチェスター・ユナイテッド、ユベントス、バイエルン、パリ・サンジェルマンといったトップクラブも含まれる。

 国と国の垣根を越えたこの調査から、練習量や試合間隔によってインジュアリー(怪我)の発生率がどう変わるか、どんな状況で怪我が増え、どんな身体だと怪我が起きやすくなるかなどを推定できる。ちなみにワールドカップ過去10大会のベスト4を調べると、その78%(延べ40カ国中31カ国)を欧州諸国が占めている。偶然であるはずがない。

遺伝子を見て練習内容を変える試み。

 齋田が見据えているのも、怪我の予防によるサッカー競技者の裾野拡大や、中途断念者の減少だけではない。身体特性のデータを蓄積していけば、いずれはトレーニングの個別化やカスタマイズも可能になるだろうと予想している。

 齋田がチームドクターを務めている「いわきFC」(東北2部リーグ)では、すでに所属全選手の遺伝子を解析し、骨格筋などの発達に影響を及ぼす遺伝子の有無でチームを3つのグループに分け、ストレングストレーニングの内容(負荷や回数など)を変える試みを続けている。

 持って生まれた遺伝子がそれぞれ異なる通り、ひとりひとりの資質に違いがあるという認識が広まり、日本中に浸透していけば、多彩な個性を伸ばせる土壌ができてくる。型にはめるのではなく、それぞれの特性を見極め、伸ばそうとするコーチングにもつながってくる壮大な試みなのだ。

「大迫のように倒れない選手を」

 当然、土壌まで変えようとする取り組みが容易なはずはない。

 イタリアから日本に戻った齋田は、まずは生まれ故郷の福島県いわき市でデータ蓄積の取り組みを始めている。いわき市サッカー協会内に医事委員会を立ち上げ、市内の中学校と高校のサッカー部に所属する1年生の男子を対象に身体測定と体力測定を実施した。たった1回のそのテストだけで、身体特性の傾向が掴めるなど収穫を得たそうだ。その一方で、怪我の発生調査は早くも壁に突き当たっている。

 理由は定かでないが、いずれにしてもサッカー部の顧問など指導者からの反応が芳しくないと言う。教師が忙しすぎるか、人手が足りず、手が回らないのかもしれない。3カ月ごとに怪我に関するデータを回収するという当初の計画は、見直さざるを得なくなった。

 齋田はすでに次の一手を打とうとしている。6月には多忙の合間を縫い、ロシアを訪れた。ワールドカップという至高の舞台で日本を代表する選手たちの戦いぶりを見極め、日本のトッププレーヤーを世界水準に照らして比較するためだった。コロンビアから2−1で勝利を収めた初戦を観戦し、齋田は確信したという。

「技術的には世界のトップにも、もう遜色ないです。だとすれば、大迫のように倒れない選手がもっと増えれば、鬼に金棒ですよね」

「全員が必ず成長する」日本に。

 問題は時間だ。データの蓄積には20年、30年という年月が必要となる。それではヨーロッパとの差がなかなか埋まらない。

 これは筆者の楽観にすぎないが、ショートカットも不可能ではないだろう。意識の持ち方なら、一瞬で変えられる。思い出していただきたい。イタリアのサッカー選手は痛み止めを飲まない。原因を突き止めて、取り除こうとする。

 そうした意識改革も一筋縄ではいかないはずだ。痛みの原因を突き止めようにも、齋田のようなスポーツドクターが全国どこにでもいるわけではなく、痛みを取り除くリハビリも自在に可能なわけではないだろう。痛み止めの弊害を分かっていながら、例えばスポーツ推薦で入学したなどの事情もあるかもしれない。

 予防医学をパフォーマンスの向上や個性の多様化につなげる齋田の取り組みがやがて軌道に乗れば、「たまたま才能のある子がいて、たまたま成長するのではなく、全員が必ず成長する」(齋田)日本になっていくだろう。大迫勇也のような“上手くて強い”選手となる資質を持った人材もたまたまではなくコンスタントに現れ、日本代表の戦力となる。

 そんな未来をただ待つのではなく、齋田の取り組みを通して得られた重要な知見を共有するための、そして制度改革や意識改革を促すような発信を、これからも継続していく所存だ。

文=手嶋真彦

photograph by Getty Images


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