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【評価】『Firewatch』感想レビュー クラシック、ミステリー、実存主義

 

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ビデオゲームが忘れつつあったテキスト

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ビデオゲームの起源の一つは、ごく限られた技術水準でも実現可能で、かつビデオゲームならではのアプローチを可能としたテキストアドベンチャーであった。

だが、ある地点を持ってテキストベースの文化は、技術水準の向上に伴って映像ベースへシフトしていく。日本ゲーム文化における大きなウェイトを占めるJRPGもまた例外でなく、これまでテキストで想像するしかなかった世界は、3Dグラフィック技術により眼前まで実現されたのだ。

 

前置きが長くなったが『Firewatch』は少なからず、このテキストに基づいた古典的ADVの在り方に対して強い郷愁を抱いている。

それもそのはず、本作を作ったCampo Santoの主要メンバーは『Walking Dead』等で知られる、現代におけるADVメーカーTelltaleのスタッフなのだ。そして彼らはこの作品を「非常に保守的」と自ら評している。

「『Firewatch』はTelltaleで費やした時間とあそこで学んだすべてがそのまま反映されているゲームです。外側からは非常に野心的なゲームに思えるかも知れませんが、内側から見れば − 最低でも僕の頭の中では − 非常に保守的なゲームですよ。Telltaleで優秀なゲームを生み出すために何が必要なのかについて色々と学んできたので、『Firewatch』でも自分が得意としてきた、ストーリー、セリフ、キャラクターに重点を置きました」

2016.2.17 | 『Firewatch』:大自然とミステリー | Games

事実、彼らの見通しに大いに同意する。本作はぶっちゃけかなり古臭いゲームである。

舞台はワイオミング州の国立公園。主人公は森林の異常をたった一人で見守る「Firewatch」のヘンリー。そして唯一の話し相手が、同じ見張り番ながら上司であるダリア。

ゲームプレイはひたすら、この2人が無線機を通して会話をしながら、森林の見張り番をすることに徹する。無論それは平穏なものなどではなく、奇妙な闖入者、そして過去の見張り番の失踪といったサスペンス要素を交えつつ、恐れるべき炎との戦いにも組するものだ。

だがそれでも、このゲームには過激なアクションも熾烈な銃撃戦もない。ただ無線機越しに話をして、会話を考えて、森を歩くことだけなのだ。つまりやっていること自体は、古典的テキストアドベンチャーなのである。

 

取り巻く「2つの謎」

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そこで問題は文章の中身である。ビデオゲームにたっぷりとテキストを盛り込む事が古典的であれば、当然そこから何か進歩を見出さねば単なる懐古に終わろう。

だが安心して欲しい。本作のテキストは正しく珠玉、ゲーム史においても類を見ないものだった。

まず本作は、最初簡易的なテキストアドベンチャーから物語が始まる。主人公が伴侶となる女性を見つけ、彼女との結婚生活、そして認知症を患った彼女から逃げるように、主人公は森林の番人としての仕事に飛びつくまでの過程を描いた、ごく短い内容だ。

この時点で、プレイヤーは既に極めて重い何かを背負うことになる。底知れぬ人間としての恐怖、絶望、苦悩。そして何よりそれは、世界が滅亡するとか、「セカイ系」と呼ばれるような脅威でなく、ごくありふれた、愛する人を失いかける「現実的な脅威」なのである。

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ともかく、その仕事で唯一の話し相手となるのが、主人公の先輩となる同じ番人であるデリラである。彼女は愉快で、どんな些細な報告にも耳を貸してくれる、コミュ力の塊のような女性であり、これにはプレイヤーも「お、ちょっとかわいいな」と思う。(だが38歳だ)(未婚だ)(浮気性だ)

ところが、本作を通じてついぞ彼女の姿が露になることはない。更に言えば、具体的に彼女の過去や人格についても、会話以外で知り得ることはない。彼女の容姿はプレイヤーの数ほど存在するのであろう。更に言えば、一人称視点故に主人公の姿すらプレイヤーには知り得ない。

これが、本作における1つ目の謎である。主人公であるヘンリー、いつも話すデリラ、そして森で出会うごく一部の人間たち、彼らは一体どのような容姿をしているのか、プレイヤーは頭の中であれこれと妄想を膨らませる。

そして面白いことに、それこそが古典的ゲームの遊び方であった。現代に比べて表現の幅が狭く、巨大な霊峰も美麗な大河も、全てドット絵なりテキストで表現された時代、プレイヤーは想像を通して大冒険に胸を馳せた。こうした反証からも、本作が古典的な魅力を掘り返そうとした事は明らかだ。

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で、もう2つ目の謎が、本作においても大きなテーマとなるミステリー要素、即ち森と番人の謎である。立ち入れない洞窟、謎のフェンス、失踪した少女、そして主人公とデリラを襲う何者かの悪意。

こちらの謎も、本当に良く出来ている。誰も存在しないはずの森に、紛れもなく存在している人間の悪意。一人称視点であることも踏まえ、物語は途中からホラーの様相を呈する。

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これに加えて、Firewatchで描かれる美しくも広大な森が極めて効果的に機能する。最初はただ美しく見えた山道も、そこは視界も効かず誰の助けも仰げない自然の脅威。さぞ丁寧なロケーション調査を重ねたのだろうか、広さは大作のオープンワールドと比べるべくもないはずが、本当にワイオミング州の国立公園で生活しているようなリアリティに溢れている。

対象的に、ごく効果的に描かれているのが、番人のセーフハウスとなる「監視所」である。ここには、森と異なり、人間の食料や本、諸々の機材等が所狭しと置かれ、実際にそれを手に取ることも出来る。この妙に拘った監視所こそが、深淵と化した森の中で、いっとう安心できる空間に映るのだ。

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ヘンリーの変化とFirewatchのゴール

こうした森における様々な体験と謎を通して、ヘンリーは着実に何かを得ていく。

そもそも、Firewatchとなる者は娑婆から逃げ出した人間である。それはデリラが1日目に聞いてくる事からも察せられる。誰とも会わずに済む仕事だから、この仕事が良い。

ヘンリーは人間に対し恐怖を抱いた。自分の恋人が壊れてゆく様を、ただ黙ってみていることしか出来ない恐怖。己の無力さを痛感したに違いない。そして森の番人となった。

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だが、デリラとの会話、そして森を散策する体験から、着実に前に進もうという意識が芽生える。ビデオゲームにおいて定番である「成長」だ。

だがこうした機微な人間性の成長は、決して「体力」とか「攻撃力」といった形で反映できるものではない。会話の内容から、徐々にヘンリーが外交的に、積極的になっていることは、プレイヤー側も理解できる。それはステータスに現れない、人間としての本当の強さである。

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この作品における選択肢は極めて興味深く、選択肢によって物語が分岐することはほぼないのだが、代わりにヘンリーの人間性をプレイヤーが変えることが出来る。他人に対して不安を打ち明けるのか、問題に対して解決しようとするのか。

陳腐な表現だが、この脚本は正直に美しい。本当に良く練られたものだと思う。大筋としてはありふれたものだが、そうした内容こそ再現することは実に難しい。

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ともかく、こうしたテキストベースの古典的なゲームとして、本作は紛れもなく名作と呼ばれるだけの領域に到達している。テキストもさながら、美麗な森と監視所の対比、声優の熱演、地図やウォーキートーキーといった微細な小道具に至るまで、正に本物と認めざるを得ない拘りと、その融合を魅せている。

 

実存主義的なゲームとしてのFirewatch

もう一歩踏み込んで、本作の持つ魅力を、個人的な見解から述べよう。

私は以前『Dear Esther』という作品をプレイした時深い感銘を受けたことがある。

2012年に発売された本作は、主人公の独白を聞きながら島を探索するだけの一人称視点のADVで、本作とも似た「ウォーキングシミュレーション」と呼ばれるジャンルの開祖的な作品である。

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私が本作をプレイしていて感じたのは、これは『風ノ旅ビト』や『ICO』とは全く異なる、文学的な作品だということだった。

これまでゲーム性を廃したゲーム、雑な呼び方で「アート的ゲーム」というと、大半は文字や記号を廃して、純粋にあるがままの操作と視覚を重んじる作品である。

が、『Dear Esther』はこの限りでなかった。明らかに本作は「歩くだけのゲーム」ではなく、その半分は「話を聞くゲーム」だったからだ。

主人公である男が話す、詩的な表現を交えた、ごく個人的な話は、プレイヤーにほんの半分程度しか真実を伝えず、だがそれでも、男の半生と精神世界を味わうという点において、とても印象的な作品だった。

 

それは正しく、一冊の本を読み終えた時の読後感に近かった。本というのは、基本的に誰が見ても同じ、客観的な像というものがない。登場人物の容姿、人々の真理、そういった多くの情報が文字という媒体のもとに制限され空白となる一方、読者はその限界の中に空想を見出す。

カフカの『変身』をご存知だろうか。主人公の男が突然Ungezieferという存在に変身する物語だが、肝心の「Ungeziefer(日本語では害虫と訳される)」の姿は作中から完全に理解できず、また表紙にその姿を描こうとした出版社に対して、具体的な姿を描かないようにカフカが指示したのだ。

つまり、テキストというのは、あくまでテキストの上でのみ表現されるものであった。そして『Dear Esther』はビデオゲームでありながら、テキストで表現されない空白と、CGで表現されない空白、二重の空白をプレイヤーの想像に委ねていたのだ。

そして、この二重の空白と、主人公の強烈な個性を一人称視点を介してプレイヤーに注入する方式を重ね、私はこれを「実存主義的ゲーム」と評した。

 

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で、Firewatchは恐らく多分にこのDear Estherのアプローチからインスパイアされた実存主義的なゲームではないか、と私は考えている。

特に興味深いのは一人称視点と人物の曖昧な認識のシンクロである。先程述べたように、本作において主人公であるヘンリーも、デリラも、人間の明確な姿というのは全く見えてこない。

それは時に、森の鬱蒼さによって説明されているのだが、そもそも森に立ち入った理由を考えると、人が「見えない」でなく「目を逸らしている」とも解釈できる。

そもそも、実存主義とは戦後サルトルらによって進歩主義のバックファイア、その恐怖や不安から生まれた考えという見方が強い。

「世界は醜く、不正で、希望がないように見える。といったことが、こうした世界の中で死のうとしている老人の静かな絶望さ。だがまさしく、私はこれに抵抗し、自分ではわかっているのだが、希望の中で死んでいく。ただ、この希望、これをつくり出さなければならない」

サルトル

一人称視点によって客観視されない自己の存在、プレイヤーと主人公の境界、目に見えない他者の悪意、認知症という現実においても克服し難い問題、介護という社会的課題。

抗いがたい人間の苦悩が、ビデオゲームという媒体を介して、プレイヤーにとめどなく流れ行く。その体験は正しくビデオゲームならではと言えよう。

故に、本作は古典的テキストゲームに根ざす可能性を、現代の技術とCampo Santoのオリジナリティ、そして素晴らしいアートやアクトによって引き出した傑作である。

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ついでに、実存主義とビデオゲームの関係性は、掘り下げるともっといろいろ出てくると思うので、また別の機会に記事にしたい。