やはり今日、更なる死刑執行になってしまっている。
7月6日からの20日間、6人の精神状態はいかばかりだったか。
勿論、それぞれ重い罪を犯したのだが、
歴史に残る残虐な死刑執行になってしまった。
「大臣」などではなかった残っていた6人、執行せずに来年を迎える選択肢もあったのに。
林泰男は、少しは悪い奴であってほしかったが、面談すれば地裁判決文が言う通りだった。死刑判決の中にこの文脈、異例中の異例です。
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「麻原および教団とのかかわりを捨象して、被告人を一個の人間としてみるかぎり、被告人の資質ないし人間性それ自体を取り立てて非難することはできない。およそ師を誤まるほど不幸なことはなく、この意味において、被告人もまた、不幸かつ不運であったと言える」と述べている。
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なぜ3つの袋をもらったのか、なぜ何度も突いたか、本人も正確には分からなかっただろう。
日々、肩に重い荷がかかる、言葉を出すことが申し訳ないように言っていた豊田亨
横山真人は、直接には一人も殺さなかったのに。取調官の稚拙さで、頑なになってしまっていたままだった。
端本悟は、坂本事件の後の1990年、弁護士や家族らでの行動にて、富士山総本部前で遇えた。彼は何度か実家の近くにまで戻ってきていたという。麻原により、ルビコンの川を渡らされていた。
正確に話すことがともかく償いの一歩、自分のすべきことだと考えて、努力し続けていた広瀬健一、その学生あてメッセージがある。
調査して、1991年、一人で会った佐伯一明、あの時正直に話してくれればよかったものを。幼い頃を思い出した哀しい絵が手元にある。
オウム事件では、本来、松本死刑囚一人の死刑だけで必要十分だった。
他の12人は、私を殺そうとした人を含めて手足にされていたのだから。
手足を死刑にしてどうするんだ、と。
松本智津夫の死刑を執行して、時を経過させ、12人がどう話していくか、知りたかった。
「麻原彰晃」が、更に道連れにしていったな、という印象を持ちます。
一人ひとりの顔
そして覚えている刑務官の顔が浮かぶ。刑務官の苦悩を疎かにしてはならないと強く感じる。
※メディアにおかれては、私の感想その他の取材につき、電話に多く出られずすいません、上記をご利用くださいませ。
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