日本のミュージカルにおけるブラックフェイス問題。 | 休暇中鑑賞日記

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8年ほど主に舞台のプロデューサーをやっていました。新卒以来はじめての長期ゆったり期間突入。しばらく何でも鑑賞しまくります。


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大晦日のバラエティでブラックフェイス問題が燃え上っている。

ブラックフェイス問題が常に絡んでいるのはミュージカルも同じなので、

今日はこのことについて考えてみたい。

 

日本で翻訳ミュージカルを上演する際、

黒塗りとまではいかなくても、全身を褐色に塗ったりすることは多い。

『メンフィス』『シスターアクト』劇団四季『ウェストサイド物語』など、

例として挙げられる作品はいくつもあり、その度に違和感を覚える人はいた。

(ただし、ウェストサイド〜はアフリカンアメリカンではなくヒスパニック)

 

アジア人である日本人が違う人種を演じる、という難しさが根底にあるので、

究極的にはある程度の「不自然さ」からは免れない。これは誰もが同意するところだろう。

 

しかし、だからといって「見た目で区別がつかないのだから褐色に塗るしかない」とは思わない。

それならば、『ミス・サイゴン』では我々と同じアジア人であるベトナム人に対して、

白人役は「白塗りをしたり付け鼻をしよう」、という発想になってもおかしくないのに、

そうはなっていない。(ちなみに、付け鼻も差別的な表現にあたるのでNG

 

当たり前だが、人種というのは肌の色だけで見分けられるものではない。

個人的な話になるが、私は日本人にしては異様に肌が白い方で、

医者に「肌質は白人に近いので、気温に鈍感だったり皮膚癌になりやすいから注意して」

と言われているくらいなのだが、今まで一度たりとも白人に間違えられたことはない。

 

アジア人が違う人種の役を演じているのだから、

ある程度のお約束を踏まえた上で鑑賞するしかないわけで、

『ミス・サイゴン』の観客は、髪の色や衣裳などを手がかりにしながら、

頭の中で人種を分けてキャストを認識していくし、実際できている。

 

「見た目で差をつけなければいけない=肌の色を変えないければいけない」

という主張には、穴があると言わざるをえないと私は考えるし、

少なくとも、誰かが傷つくのを犠牲にしてまで強行しなければいけない表現手法だとは思わない。

シンプルに、ブラックフェイスは絶対にNO!という方向でいいのではないだろうか。

 

アメリカでは、『オセロ』ですらブラックフェイスを止めているという流れがある中で、

日本だけが無関係とは言えないだろう。そもそも、その海外の作品を上演しているのだから。

 

なお、日本で上演されたミュージカルの中にも、人種表現に独自の解決策を見出したものはいくつかある。

 

まず、設定自体を変えてしまうという方法。

 

劇団四季の『コーラスライン』で、リチーの「I’m black.」というジョークを

(見ただけで分かることを、わざわざ説明するという可笑しさ)

「男です」というセリフに変えているのは有名な話だし、

『タイタニック』のジミーズも、サザーランド版では人種が分からなくなっていた。

 

ただ、ストーリーによっては黒人設定ありきでないと成立しないことも多いにある。

そういった場合はどうしてきたのか?

 

『メンフィス』のジェロ、『フル・モンティ』のブラザー・トムのように、

日本以外にルーツのある役者をキャスティングするという方法は、最もシンプルだろう。

(とはいえ、ブラザー・トムはハワイ先住民とのハーフなので、

アフリカンアメリカンにルーツがあるというわけではないが)

 

今までで最も踏み込んでいたなと思うのは『MITSUKO』で、

ハインリッヒ・クーデンホーフ伯爵と結婚し、

オーストリア=ハンガリー帝国へ渡った実在の日本人女性・光子を描いた

この作品の日本公演では、光子を安蘭けい、

光子の夫であるハインリッヒをマテ・カマラス、

光子の息子リヒャルト役を辛源とジュリアン、

リヒャルトの妻イダ役をAKANE LIVが演じていた。

 

これら、実際に他人種に/他人種にもルーツを持つキャストを起用して

ただ1人の日本人女性・光子の周囲を固めることで、

異国で奮闘し孤独を深めていく光子の状況を際立たせていたのだ。

 

日本でのミュージカル役者の層は薄い。多様な人種を集められるわけではない。

しかし、やろうと思えばここまでできる。そう示したキャスティングだったと思う。

 

ブラックフェイスについては、その差別の歴史を鑑みても

「ダメなものはダメ」を貫かないといけないと思うが、

あらゆる人種について「肌の色を変える」以外に伝える方法を

作品毎に真剣に考える必要がある。時代はそうなっているのだと思う。

 

人種差別で傷つく人がいない世界。それは理想かもしれないが、

理想があるからこそ世の中は良くなっていくわけで。

「表現が窮屈になる」ではなく、より良い世界のために

新たな表現方法が広がっていく…と考えられる世の中であってほしい。

 

ところで、先日ベストに挙げた『パレード』では思いっきり黒塗りしていて、物議を醸した。

私もそのことは認識していながらも、感想では話題として避けた。

あそこまでよく考えられた演出だから、ブラックフェイスについて

スルーしたわけではなく、敢えてなのだろうと思ったからなのだが、

今考えると、「そう思い込みたかった」だけかもしれない。反省している。

 

あの作品に出てくるアフリカンアメリカンは複数人いるが、

いずれも偏見を受けていた典型的な黒人のイメージとして登場し、

ストーリー上でも、単に黒人というだけで疑われたりするし、それに対する不平不満も表現される。

 

あの時代、あの国、あの地域で黒人がどのような存在とみなされ、

どう扱われていたのか、それをデフォルメする意味での黒塗りなのかと思っていたのだが

(だとしても、やっていいとは言えないが)

昨日検索して読んだキャストのブログによると、

そのことについて話し合いがなされたわけではなかったらしい。

明確な意図を持ったうえでの黒塗りでなかったのだとしたら、

問題があったと言わざるを得ないが、こればかりは演出家や主催にしか分からないことだ。

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