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想学談林―管理者のブログ

50代に突入した創価学会の元活動家のブログです。 日蓮や仏教の事について、日々考えていますが、その事についてはこのブログとは別に、「想学談林」というホームページにまとめています。 ここでは日々に考えた事についてつらつらと書き連ねています。

【20180724】僕の日蓮観➂

こんにちは(´・ω・`)

法華講の方からのメールに関する回答を続けます。
法華講の方は以下の様に語り続けています。

「ドイツ帝国の鉄血宰相といわれたビスマルクの言葉に「愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶ」(経験から学ぶことが基本ではあると私は思いますがこの言葉の意図しているところはそうではなく)とあるように、まず仏法の流伝について考えてみた際に、血脈相承・資師相承というものが正宗だけではなく他宗においても歴史的な事実として認められることはあなたにも首肯されることと思います。それによって各時代の時流に鑑みて全く同じ教法を宣揚するということではないにしても祖師・先師たちが誰からも教わることなく勝手な己義を供給するというようなことはあり得ないことです。」



ここで法華講の方は、日本のすべての仏法の流伝には「血脈相承」と「資師相承」があり、それは何も日蓮正宗だけではないと述べています。
僕自身思うに、確かに宗派毎に相承や血脈というのはあると思いますが、宗派が殊更「血脈相承」と「資師相承」を持ちあげている時というのは、それはつまりその宗派に求心力や主張する正統性が無くなってきた時代であると考えていますが、どうでしょうか。

例えば日蓮の場合、佐渡の流罪の地に居た最蓮房から「血脈」という事について質問されました。恐らくそれは天台宗に伝わっていた血脈や相承という事に関連した質問ではなかったかと思いますが、その回答として書かれた御書が「生死一大事血脈抄」であると言われています。その冒頭で日蓮は以下の様に言われています。

「然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり法華経を持つとは是なり」

つまり久遠実成の釈尊と、法華経、そして私たちには差別がないと理解して妙法蓮華経と唱える事が「生死一大事の血脈」だと定義をして、そこに形式としての相承等は無いという事を述べました。

「上行菩薩末法今の時此の法門を弘めんが為に御出現之れ有るべき由経文には見え候へども如何が候やらん、上行菩薩出現すとやせん出現せずとやせん、日蓮先ず粗弘め候なり、相構え相構えて強盛の大信力を致して南無妙法蓮華経臨終正念と祈念し給へ、生死一大事の血脈此れより外に全く求むることなかれ」

そしてそれ以外に血脈などはなく、求めてはいけないとも言っています。

でも確かに宗派という「組織」であれば、その組織を維持する上で後代の責任者を決めねばならず、その決めるという事について「血脈」という事を言うのであれば、そこには当然「血脈」というのは存在するのかもしれません。しかしその場合の血脈とは「組織の責任者」としての責任の譲渡の話であって、信仰の志の事とは別次元の話であると理解しなければならないのです。

だから日興師も遺戒置文の中にも以下の条項を付けたのではありませんか?

「一、時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事。
 一、衆議為りと雖も仏法に相違有らば貫首之を摧く可き事。」

これは宗派の責任者とその宗派を信じる人々が、教義に対しては互いに緊張感をもって望む事を求めた条項であり、ここから見える事は、組織として相伝を受けている「貫首」であったとしても、それは例外ではないという事です。

と、、、ここまでの主張は創価学会が宗門の血脈を否定する代表的な論法なので、紹介をしておきます。

しかし僕は既に体こそは創価学会の中で「役職」によりラベリングされ、一応、幹部コードが割り振られている身ではありますが、心は既に創価学会の中にはありません。ましてや日蓮正宗に身を縛られている立場でもありませんから、別に心の中に宗門の「絆(ほだし)」も無いのです。

その立場から言わせてもらえば、「祖師・先師たちが誰からも教わることなく勝手な己義を供給するというようなことはあり得ないことです。」と言われていますが、この現代において、宗門の祖師と呼んだ人達、また先師と呼ぶ人達の言葉だけで、全て納得できる答えがあるとは思えません。

例えば日蓮の言葉を御書に書かれたまま語ったところで、それに共感を覚える人は皆無では無いと思いますが、それがすべて網羅性を持っているとは言えないでしょう。

時代は常に変化し、人々のいきる社会も変化を続けます。そうであれば、始祖や先師の言葉を如何に展開すべきなのかは、それを受け継いだ人たちの責務だと思いますが、どうでしょうか。

例えば人の死と死後の事について、また輪廻転生という事について、御書で語る事が出来ますか?

宗門には日寛師の「臨終用心抄」というのがありますが、こちらについて堀日享師も富士宗学要集」の中で「弘化三丙午八月栗木仁兵衛敬本には題に臨終用心抄とありて、奥に富士日寛師説法也とあり、嘉永五年壬二月中旬広察本には寛師の名なし、臨終用心抄とはあり、此の二本共に了哲本とは同じからず、又転写の為の相違にあらず、或は聴聞者の覚書なるが故に互ひに繁簡あるものか」と日寛師著作の書である事に疑問を投げかけていますし、そもそもこの臨終用心抄には「黄檗禅師の伝心法要に云く臨終の時若し諸仏来て云々」と禅師の言葉を引用したり、「致悔集下八に云く」と日蓮の書簡以外のものを多用しています。

「身延日重の見聞愚案記と等同もしくは似た内容が多々あり、この抄、全てが日寛上人のオリジナルではない。」

こんな事さえ言われていますが、要約して言えば、日蓮正宗に伝わる教義では、人間の死有の事や死後の事、そして輪廻転生の事については明確に語り切れないという事を顕しているではありませんか?

欧米では十九世紀末から、人の霊性、そして輪廻転生について研究され、昨今ではNDE(臨死体験学)というものまで学問の遡上に上がっている時代において、僕は現在の宗門の僧侶中心の教学では、人の越えるべき死有の問題、また死後の事について、また世界で多く確認されている「生まれ変わり」と言われる輪廻転生に関わる問題には対応不可能だと考えています。

「誰からも教わることなく勝手な己義を供給」と言いますが、例えば近年のNDEの内容や、チベット仏教の中で語られている死生観について、宗門内や創価学会でも語れる相手すらいなければ、そこは自分自身で学んだ内容を思索して考えを深めていくしかありません。

そういう行為を「勝手な己義を供給」という言葉でバッサリと切り捨てるのであれば、それは既に哲学的な「死に体」である事を宣言しているに過ぎないでしょう。

哲学や思想は根底に普遍的なモノを据えながら、時代においてその思想が流布するには、時代に合わせた展開が必要になります。

そこに鎌倉時代から何ら進展すらしていない哲学では、この現代社会をリードし行くものになれないのは当然であり、それで良しとするのであれば、「富士のふもとの山寺の寺信仰」としてとどまっていればいい話で、僕の思索に対して「己義」などと言う事は、的外れも良い処の論理だと思いますよ。

人類社会は常に進歩を続けています。
その中で人々が感じる苦悩も、本質的には変わりはないかもしれませんが、それを人々に説明するのは、それ相応の思考の間口が必要であり、その間口を狭める様な「己義」という単語は、容易く使う言葉ではないのではありませんかね?


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