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オーバーロード:前編 作者:丸山くがね
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戦火-1

 カルネ村。

 100年ほど前にトーマス・カルネという開拓者が切り開いた、王国に所属する村。

 帝国と王国の中央を走る境界線たる山脈――アゼルリシア山脈。その南端の麓に広がる森林――トブの大森林。その外れに位置する小さな村だ。

 人口はおおよそ120人。25家族からなる村は、リ・エスティーゼ王国ではそれほど珍しくない規模だ。

 近場にある城塞都市、エ・ランテルまでおよそ50キロ。人の足で2日かかる距離にある。 


 森林で取れる森の恵みと農作物が生産の主だ。

 森で取れる薬草類を商人が年に3度ほど買いに来ることを除けば、徴税吏が年に1度来るだけの村。ほぼ人が来ない、時が止まったという言葉がまさに相応しい、そんな王国にありがちな小村である。



 エンリ・エモットはそんな村の一員として16年間暮らしてきていた。


 朝は早い。基本的に太陽が出る時間と共に起き出す。大都市のように魔法の明かりなんかが無いこの村においては珍しい光景ではない。

 最初にすることは家の近場にある井戸で水を汲むことだ。水汲みは女仕事だ。家においてある大甕に水を満たし、まず最初の仕事は終わる。その頃になると母親が料理の準備が終わり、家族4人そろって朝食だ。

 朝食は大麦や小麦のオートミール。野菜のいためたもの。場合によっては干し果実がつく。

 それから父と母とそろって畑に出る。その頃12歳になる妹は森まで行って薪を取ったり、畑仕事の手伝いをしたりと働く。村の中央――広場外れの鐘がなる、正午ごろ。一旦仕事の手を休め昼食となる。

 昼食は数日前に焼いた黒パン。干し肉の切れ端が入ったスープである。

 それから再び畑仕事だ。空が赤く染まりだす頃、畑から帰り夕食の準備となる。

 夕食は昼食と同じ黒パン。豆のスープ。これに猟師が動物を取ったなら、肉のおすそ分けが入る場合がある。そして厨房の明かりで家族でおしゃべりをしながら、服のほつれを縫ったりと働く。

 寝るのは18時ごろだろう。


 そんな日々。

 何時までもそんな生活が続くものだと思っていた。



 その日、いつものようにエンリは朝を迎え、井戸に水を汲みに行く。

 水をくみ上げ、小さな甕に移す。家の大甕が一杯になるまでにおおよそ3往復する必要がある。


「よいしょ」


 エンリは腕をまくり、甕を持ち上げた。水が入ればかなりの重量になるが、今では持つこともたやすい。

 もう一回り大きい甕なら往復回数が減って楽ができるのでは、そんなことを思いながら家までの帰路につく。

 そのとき、何か聞こえた気がして顔をそちらに向けた。空気が煮立つというのか、エンリの胸中にあわ立つ何かが生まれる。


 ――木でできた何かが打ち砕かれる音。

 そして――


「悲鳴――?」


 絞められる鳥のような、それとは決して違うもの。

 エンリの背筋に冷たいものが走った。信じれない。気のせい。間違い。否定的な言葉がいくつも生まれ、はじけ消えていく。


 慌てて駆け出す。悲鳴の会った方角に自らの家があるのだ。

 甕を放り出す。こんな重いものを持っていられない。

 長いスカートが足に絡まり転びそうになるが、運良くバランスを維持し走る。


 再び、聞こえてくる声。

 エンリの心臓が激しく鼓動を打つ。

 悲鳴だ。間違いない。


 走る。走る。走る。

 こんな速く走った記憶は無い。足がもつれ転びそうになるほどのスピードで走る。


 馬のいななき。人の悲鳴。叫び声。

 大きくなっていく。


 エンリの視界、かなり遠いが鎧を着た男が村人に剣を振るうのが見えた。

 村人は悲鳴をあげ、崩れ落ちる。そのあと止めを刺すように剣が突き立てられた。


「……モルガーさん」


 こんな小さな村に見知らぬ村人はいない。今殺された人物だってよく知っている。ちょっと騒がしいが気立ての良い人だ。あんな風に殺されて良い人ではない。立ち止まりそうになって――歯をかみ締め、足により力を入れる。

 水を運んでいるときはさほど感じられない距離が、今では非常に長く感じられる。

 怒号や罵声が聞こえ始める。そんな中、ようやく家が目に入った。


「お父さん! お母さん! ネム!」


 家族の名を叫びながら、家のドアを空ける。

 そこには見慣れた3人が小袋を片手に怯えたような顔をしていた。その顔はエンリが入ってくると一気に崩れ、その中から安堵の色が姿を見せた。


「エンリ! 無事だったか!」


 父の農作業で固くなった手がエンリを強く抱きしめた。


「ああ、エンリ……」 


 母の暖かい手もエンリを抱きしめる。


「さぁ、エンリも来た。早く逃げるぞ!」


 今現在のエモット家の状況はかなり悪い。エンリを心配していたため、すれ違うことを恐れて家から出ることができなかった。戻ってくるかどうか分からない、家族の一員を見捨てることができなかったのだ。

 そのため逃げる時間を失った分、危険がかなり近くまで迫っているだろう。


 家族で逃げ出そうとして――玄関口に一つの影。日光を背に立っていたのは全身を完全に板金鎧<プレートメイル>で覆った騎士。胸元にはバハルス帝国の紋章。手には抜き身の刃物――ロングソードを持っていた。


 バハルス帝国――リ・エスティーゼ王国の隣国であり、侵略戦争を時折仕掛ける国。だが、その戦争は城塞都市エ・ランテルを中心に起こり、この村までその手を伸ばしたことは無い。

 だが、その平穏もついには破られたということか。


 ヘルムの隙間から、エンリたちの数を数えているのが凍てつくような視線で感じられる。嘗め回すようないやな視線をエンリは感じた。

 騎士が剣を持つ手に力を入れていくのを、篭手の部分の金属がきしむ音で伝えてくれる。

 そして家に入ろうとして――


「うおぉ!!」

「ぬ!」


 ――父が入ろうとしていた騎士にタックルをかける。そのままもつれあいながら二人とも外に転がり出た。


「――はやくいけ!!」

「きさま!」


 父の顔を血が薄く滲んでいる。突撃をかけたとき、どこかを切ったのだろう。

 父と騎士は二人でもみ合いながら、大地を転げまわる。父の持つナイフを片手で押さえながら。騎士の抜いた短剣を片手で押さえながら。

 家族の血を目の当たりにして、エンリの頭の中は完全に白紙になった。父に加勢したほうがいいのか、それとも逃げた方がいいのか。


「エンリ! ネム!」


 母の叫びに意識を戻し、母が悲痛な顔を横に振る。

 エンリは妹の手を握ると駆け出した。後ろ髪を引かれないかというなら充分に引かれる。だが、早く少しでも早く大森林まで逃げ込まなくては。



 馬のいななきや悲鳴、怒声、金属音。そして――焦げ付くような臭い。

 村のあちらこちらからエンリの耳に鼻に目に――飛び込んでくる。どこからのものなのか。それを必死に感じ取ろうとしながら走る。広い場所を走るときは背を小さくして。家の影に隠れるように。

 体が凍りつくような恐怖。心臓が激しく鼓動を打つのは、走っただけではない。それでも動けたのは手の中にある小さな手。


 ――妹の命だ。


 多少先行し走っていた、母が角を曲がろうとして硬直、そして急に後ずさる。

 後ろ手にあっちに行け。

 その理由に思い至った瞬間、エンリは口をかみ締め、こぼれそうになった泣き声を殺す。


 妹の手を握って少しでもその場から離れようと走る。次に起こる景色を目にしたくないから。



 村の外れが近づいてくる。

 走るエンリは後ろで騒がしい金属音を聞く。その音は規則正しい。

 祈るような気持ちで後ろを一瞬だけ見る。そこには予想通り。最悪な予想通り、1人の騎士がエンリたちを追って走ってくる。

 あと少しなのに。吐き捨てたい気持ちを必死にこらえる。そんな余力は無いからだ。


 荒い息で呼吸を繰り返す。今にも力尽きて倒れてしまいそうだ。エンリが1人ならもう走れなかっただろう。ほとんど引っ張るような感じで走らせている妹の存在がエンリに力を与えてくれる。


 走りながら再びチラリと後ろを伺う。

 互いの距離は殆ど変わっていない。鎧を着ながらも、その速さに衰えは無い。

 汗が引き、全身を冷たい何かが襲う。これでは……妹を連れてでは逃げられない。


 ――手を離せ。


 エンリの耳にそんな言葉が聞こえた。


 ――1人なら逃げられるかもしれない。

 ――こんなところで死にたいのか?

 ――もしかしたら1人づつで逃げた方が安全かもしれない。


「黙れ、黙れ、黙れ!」


 エンリは歯軋りしながら呟く。妹の手を握る手により力を入れながら。

 なんという最悪な考えを浮かべる姉だ。


「早く、逃げるよ!」

「う、うん」


 妹が泣きそうな顔をしながらも決して泣かないのは何故か。

 それは簡単だ。エンリを信じてるからだ。姉ならきっとどうにかしてくれると信じてくれているからだ。


「あっ!」


 歩幅の大きいエンリに合わせてきた帳尻がついに合ったのか、妹が体のバランスを崩す。それに引っ張られる形でエンリも姿勢を崩した。


「早く立って!」

「うん」


 しかし、そのタイムロスは大きい。

 エンリの直ぐ側でチェインのきしむ音。息を僅かに切らせながら立っている騎士。その手に持った剣は血で濡れていた。それだけではない。鎧や兜にも血が跳ねた後がある。

 エンリは立ち上がった妹を後ろにかばいながら騎士をにらむ。 


「抵抗しなければ、苦しまず死ねるぞ」


 そこにあるのは優しさではない。嘲笑気味の感情だ。逃げても直ぐに殺せる。そう言いたげなぬめりつく様な口調。

 エンリの胸が一気に燃え上がる。何をこいつは言っているんだ、と。

 騎士は動くことを止めたエンリに対し、ゆっくりと手に持った剣を持ち上げる。上段に上げられた剣がエンリを切り裂くよりも早く――


「なめないでよねっ!!」

「ごがっ――」


 ――鉄でできた兜にエンリは思いっきり拳を叩き込む。全身に満ちていた怒りを、そして妹を守らねばという気持ちを拳に宿して。金属を叩くという行為に怯えは無い。全身全力を込めての一撃だ。

 骨が砕けるような音が体内から聞こえ、一瞬遅れて激痛がエンリの全身を駆けた。騎士は殴られた衝撃で大きくよろめく。


「――はやく!」

「うん!」


 苦痛をこらえ走り出そうとし――赤熱感をエンリは背中に感じた。


「――くっ!」

「きさまぁああ!!」


 嘗めて掛かった小娘に顔を殴られるなどという屈辱。それが騎士に冷静さを失わせていた。


 エンリが助かったのも騎士が冷静さを失い、逃げそうになっていたからとにかく剣を振ったという適当なものだったからだ。もうその幸運は無い。エンリは傷を受け、騎士は怒りを覚えた。もはやエンリが助かる道は無いだろう。 


 エンリだって充分に理解している。大森林に向ったって、逃げ切れる可能性は低いと。大森林までいくばくかの距離がある。馬を連れてるだろう騎士から逃げれるとはとうてい思えない。家に戻って地下の隠し倉庫に隠れるという手もある。だが、そんな甘いことは許してくれないだろう。

 それでも死ぬのはごめんだし、何より妹を預かっているのだ。命に代えても守ってみせる。

 心臓の鼓動にあわせて背中の灼熱感と激痛が強まっていく。ぬるりとしたものが背中を流れる。

 ――でもまだ走れる。

 エンリは歯をかみ締め、騎士から離れようとし――



 そして絶望を見た。





 そこには闇があった――。



 それは死の体現。決して勝ちえぬ存在。

 漆黒よりなお濃い黒のローブを纏い、異界から闇とともにこぼれ落ちたようだった。

 ほぼ骨しかない白骨死体を思わせる顔の、空虚な眼窟には濁った炎のような赤い揺らめきがあり、冷たく獲物を見据えていた。

 片手には神が持つような神々しくも恐ろしい、この世の美を結集させたような杖を握り締めていた。


 空気が凍りつく。

 絶対者の君臨を前に、時すらも凍ったようだった。


 エンリは一瞬呼吸を忘れた。

 自分も妹も殺される。だから自分だけにしか見えない、あの世への使者が姿を現した。

 エンリはそう思った。後ろの騎士が動きを止めるまでは。


「かぁ……」


 悲鳴ともいえない呼気が聞こえた。

 それは誰が漏らしたものか。自分のようであり、全身を震わせる妹のようであり、後ろで剣を持った騎士のようであった。痛みなんかもう感じない。それどころか、恐怖以外の何も感じれなかった。


 ゆっくりと、肉がこそぎ落ちた骨しかない指が伸び――そして何かを掴むように広げられた手はエンリを通り越し、騎士に突きつけられた。目を離したいのに、怖くて目を離すことができない。離したらもっと恐ろしいものに変化してしまうような気がして。


「ひぁ……」


 鉄と悲鳴が相まって耳障りな音となる。心臓の鼓動は激しく動きすぎて、今にも止まってしまいそうだ。


《――グラスプ・ハート/心臓掌握》


 死の体現が何かを握り締めるしぐさを取った瞬間、エンリの後ろで金属のけたたましい音がした。

 「死」から目を逸らすのは怖いが、心に宿ったほんの少しの好奇心に負け、後ろに視線をやったエンリは大地に伏した騎士の姿を捕らえた。騎士はもはや動くことをしない。

 死んだ。

 そう、死んだ。

 エンリに迫っていた危険は笑ってしまうほど簡単にこの世を去った。しかし喜ぶことなんてできない。なぜなら「死」は形を変え、より濃厚になっただけだ。


 「死」が動き出した。エンリに向って。

 視界の中に納まっていた闇が大きくなっていく。そのままエンリごと飲み込んでしまうのではないか、そんな思いが浮かぶ。

 エンリは妹を強く抱きしめた。

 もはや逃げるなんて頭には無かった。相手が人であればもしかしたらという淡い希望を抱いて動くことはできる。だが、眼前にいる存在はそんな希望を簡単に吹き飛ばしてしまう存在だ。

 一瞬で痛くないよう死ねますように。そう願うのがやっとだ。

 エンリの腰元に抱きつきガタガタと恐怖に怯える妹。助けてあげたいのに、助けることができない。自分の無力を謝るしかできなかった。せめて自分が一緒に逝く事で寂しくないように。


 そして――


「え?」 


 ――エンリは間抜けな声を上げた。


 「死」はエンリの横を通りすぎていったのだ。


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