2018年07月24日

白取春彦『超訳 ニーチェの言葉』

今のこの人生を、もう一度そっくりそのままくり返してもかまわないという生き方をしてみよ。
『ツァラトゥストラはかく語りき』

これがニーチェの人生についての究極の思いだろう。良くも悪くも、自分自身のすべてを受けいれられるのかという問いといっていいだろう。人間は自然によって生みだされ、人間自身は何ひとつ生みだせないのだから、究極的にはどんな運命であれ最後は受けいれるしかないという、諦念といってもいいだろう。
あらゆる苦悩は、受けいれられないことを起因にしているのだし。


この人生の中で多くの体験をしたあげく、わたしたちは人生を短いとか長いとか、富んでいるとか貧しいとか、充実しているとか空しいとか判断している。
しかし、自分の眼がどこまでも遠くを見ることができないように、生身の体を持ったわたしたちの体験の範囲と距離は、いつも限られているのだ。耳も、すべての音を聞くことはできない。手も、すべてのものに触れることはできない。
それなのに、大きいだの小さいだの、固いだの柔らかいだの、と勝手に判断している。さらに、他の生き物についても勝手に判断している。つまり、最初から限界があるのに、自分たちの判断が間違っているかもしれないということに気づかないでいる。これが、人間であることの大小さまざまの宿命なのだろう。

『曙光』

宿命という言葉はあまり好きではない。だが、あえて宿命があるとしたら、ニーチェが指摘している、こういったものだろう。己の無知さを自覚できないまま愚かに生きがちなのが人間の宿命なのだろう。


友人とたくさん話そう。いろんなことを話そう。それは単なるお喋りではない。自分の話したことは、自分が信じたいと思っている具体的な事柄なのだ。腹を割って友人と話すことで、自分が何をどう考えているかがはっきり見えてくる。
また、その人を自分の友とすることは、自分がその友人の中に尊敬すべきもの、人間としてのなんらかの憧れを抱いているということだ。それゆえ、友人をもち、互いに話し合い、互いに尊敬していくのは、人間が高まるうえでとてもたいせつなことだと言える。

『ツァラトゥストラはかく語りき』

結局、友人をもつ意味というのは、自分の信じたいこと、自分の憧れ――なりたい自分の夢と希望――を翳りなく映してくれる鏡だということになろう。しかし、友がそういう自分の対鏡であると知って見つめない限り、自分の信念も夢や希望もはっきりと見定められないものだ。友人とは、なんとありがたい存在であろうか。
仮にもし、友人のやることなすことに腹が立ち、苛立ちを感じるなら、それは自分自身の短所や欠点に怒り、憎み、自分の悪癖や性悪さを受けいれられずに自分を拒否している己の卑屈さであると自覚すべきだ。


暑いの反対は寒い。明るいの反対は暗い。大きいの反対は小さい。これらは相対的概念を使った一種の言葉遊びだ。現実もこれと同じだと思ってはいけない。
たとえば、“暑い”は“寒い”に対立しているのではないということだ。この両者は、ある現象に自分が感じられる程度の差をわかりやすく表現しているにすぎない。
それなのに、現実もこのように対立していると思い込んでしまうと、ちょっとした手数の多さが困難な苦労となり、ささいな変化が大きな苦しみとなり、たんなる距離が、疎遠や絶縁につながってしまう。
そして多くの悩みは、この程度の差に気づかない人々の不平不満なのである。

『漂泊者とその影』

やたらに善悪に拘り相手を攻撃するのは、こういう真理を知らないからだ。自分は善であり、相手は悪である。そんなものに根拠はない。程度の差こそあれ、似たり寄ったりなことに気づかず、善人ぶっている傲慢さに過ぎないのだ。まともに瞑想のしかたなどを学べば痛みもありのままに受けいれるべきものだと知れる。痛みと快さは程度の差であるのに、痛みだけを嫌うのは理不尽なのだ。痛みが激しくなれば苦しむ。同様に快さも度を過ぎれば、その快さを失う恐怖にとりつかれ、苦しむのだ。痛みは今味わうこと、快さは未来に苦しみを生みかねない同質のものだといえよう。「ほどよくある」、中庸であるのが理想なのだ。したがって本当の意味で善人でありたいなら、普通にしていればいいだけだ。無理に善くあろうとしないことだ。偽善者ぶらないことだ。


この世には、いかにもまともそうに見えるニセ教師がたくさんいる。
彼らが教えることは、世渡りに役立ちそうなことばかりだ。これこれをすると得になる。こういう判断をすると損をしない。人づきあいはこういうふうにしろ。人間関係はこうやって広げろ。こういう事柄はああだこうだ。
よく考えてみよう。ニセ教師の教えることは、すべて価値判断だ。
人間と事物についての本質の見方など、これっぽっちも教えてくれない。
こうして人生の本質すらわからずに生きていっていいのかな。

『力への意志』

ネットで調べものをしようとして何か検索してみればいい。ニーチェのいっているとおり、価値判断のしかたを指南しているものばかりに遭遇するから。もっとも本質の見方など教えようがないともいえるから、無理もないのだろう。しかし、読書を通して学んでいけば、本質の見方はわかってくるものだ。ただしその場合、読み方に注意がいるだろう。すなわち、書き手の目線で読むということだ。音楽であれば、作曲家の目線になって聞いてみる。絵画であれば、画家の目線になることだ。しかし、こうしたことはそうたやすいことではない。ならば、自分が好きで興味のあることに没頭すればいいのだ。そうすれば、自然と作り手の目線を体験として感得でき、それを省察していけば、本質を見る眼は養えるのだから。したがって、趣味というのは好きなだけでなく、制作したり組み立てる要素――実際に自分の手足を働かせるものを選ぶのがいいのだろう。


何か奇抜なことをして衆目を集めるのが独創的な人物ではない。それは単なる目立ちたがり屋だ。たとえば、独創的な人間の特徴の一つは、すでにみんなの目の前にあるのにまだ気づかれておらず名前さえ持たないものを見る視力を持ち、さらにそれに名称を新しく与えることができる、ということだ。
名称が与えられて初めて、それが実際に存在していることに人間は気づくものなのだ。そうして、世界の新しい一部が誕生してくる。

『悦ばしき知識』

ここのところしつこいくらいに引用している内容だが、人間は何一つ創造などできないということを、ニーチェもわかっていたということを伝えたくて付箋をした一文だ。なぜそうもしつこくいうかといえば、創造など出来もしないのにできる気になることが人間を相当に傲慢にしていると確信しているからだ。原発しかり、防災対策しかりだ。未だに、自分たちの体を作っている細胞ひとつ作り出せもしないくせに、なにが創造的であれ! だ。悔しかったら、他の草木を材料にすることなく、新しい品種の草でも作り出してみるがいい。出来っこないのだから。人間が出来るのことなど、自然のなかで起こっている現象を促進したり、抑制するのがせいぜいだ。傲慢こそ滅亡への道、謙虚こそ繁栄への道である。


愛とは、自分とは異なる仕方で生き、感じている人を理解して喜ぶことだ。
自分と似た者を愛するのではなく、自分と対立して生きている人へと喜びの橋を渡すことが愛だ。ちがいがあっても否定するのではなく、そのちがいを愛するのだ。
自分自身の中でも同じことだ。自分の中に絶対に交わらない対立や矛盾がある。愛はそれらに対して反撥することなく、むしろ対立や矛盾ゆえにそれを愛するのだ。

『さまざまな意見と箴言』

今では愛の概念も曖昧なものになってしまったが、古代ギリシャではそうではなかった。愛には四種類あり、エロス(いわゆる男女間の恋愛感情、現代では同性愛を含めて考えれば、感情とそれにまつわる肉体的な愛)、フィリア(友人間に芽生える情愛)、ストルゲー(血縁関係者間にある愛情、家族愛や兄弟愛)、アガペー(生きとしいけるものすべてへの愛。ただし、キリスト教の影響によってそう解釈されるようになった部分がある)となっていたそうだ。したがって、ここでニーチェがいっているのはアガペーという無償の愛のことだ。仏教の場合、対象に対してこうあれという観点ではなく、基本、自分があるべき姿を説いているので、概念として重要視されているのは、愛より慈悲になる。相手がどうこうではなく、いかなる人に対しても寛容な自分であれと説かれている違いがある。だが、対象にあわせてとか、自分の立場としてという枠を取り払えば、キリスト教にせよ仏教にせよ、本質的には同じことを説いているといえよう。


きみの立っている場所を深く掘り下げてみよ。泉はその足下にある。
ここではない何処か遠くの場所に、見知らぬ異国の土地に、自分の探しているもの、自分に最も合ったものを探そうとする若者のなんと多いことか。
実は、自分の視線が一度も向けられたことのない自分の足の下にこそ、汲めども尽きぬ泉がある。求めるものが埋まっている。自分に与えられた多くの宝が眠っている。

『たわむれ、たばかり、意趣ばらし』

創価に辟易した理由は、こういうニーチェの言葉を、さも自分が発案したようにして自己を宣揚してきた池田氏の本性が見えてしまったからだ。他にも創価学園の碑に刻まれた池田氏の言葉にしても、もとはトルストイのいった「他人の不幸の上に自分の幸福を築いてはならない。他人の幸福の中にこそ、自分の幸福もあるのだ」の剽窃だ。先達たちの英知溢れる言葉を指針にするのは決して悪いことだとは思っていないが、先達への敬意を示さず、いかにも自分が発案したかのようにしてきた池田氏や創価のやりかたは姑息なのだ。
いつぞや「自分自身に生きろ」と記事に書いたなら、今やアンチのようになっているお前が先生のいった言葉を語るな! とかいって激昂した人もいたが、こういう言葉だって、もとはギリシャのアポロン神殿の入口に刻まれた「汝自身を知れ」からきているのであり、池田氏が発案したものでも何でもない。
とにかく創価というのは、先達たちが残した人類の遺産をまるで自分たちが発案したようにして語り誇る、傲慢な剽窃団体なのだ。「足下を掘れ、そこに泉あり 創価」で検索してみればいい。ニーチェに敬意をはらっておらず、彼の言葉が、創価を宣揚する道具にされていることの多いのがわかるから。


この原因があったからこういう結果になった、と考えられることが多い。
しかし、その原因と結果はわたしたちが勝手に名づけたものにすぎないと気づくべきだ。
どんな物事や現象であれ、原因と結果で簡単に分析できるほどは単純ではない。まったく目に見えていない他の要素がたくさんあるかもしれないからだ。
それを無視して、ある一つの事柄のみを原因と結果と決めつけ、そこに何か強い結びつきと連続性があるように考えるのはあまりにも愚かなことだ。
だから、原因と結果とで物事の本質を理解したように感じるのは思い込みにすぎない。多くの人が同じように考えたとしても、それが正しさの保証にはならないのは当然のことだ。

『曙光』

日蓮仏法は三世永遠の因果の法則を完全に説き明かしたとか、昔は愚かにも信じていたが、今では迷妄であったと恥ずかしいかぎりだ。そもそも仏教は「生の哲学」であるから、死後のことなど説いていないし、三世永遠の因果などもちろん説いていない。日蓮のそういう思想を正当化するために、場合によっては十二因縁を持ちだしてきたりと、曲解も相当に酷いものだ。そもそも十二因縁というのは、生きている人の認識がどのように作用していき、それが所有欲に繋がり苦悩を生むかを説いたものであり、過去や未来と現在の因果関係を説いたものではない。過去に泥棒をしたから今世でその報いを受けて泥棒されるとか、過去に法華経を誹謗したから、今世で法華経を広めようとすると迫害されるなんてのとは全く違うということだ。

したがって、正しい十二因縁とは、無明(自分があると思い込む、より正確にいえば、縁起によって何かが起こった瞬間)→行(自分があると思い込んでいることで行為以前に顕現する不可視的なエネルギー、あるいは縁起によって起こったことがまだ無意識にとどまっている状態)→識(そうしたエネルギーを何らかの形で感じている自分、好き嫌いの感情や偏った思考、差別や迷妄、あるいは無意識から意識にのぼる瞬間)→名色(そうしたエゴイスティックな意識を五感に伝えるために信号が発される瞬間)→六処(そうしたエゴイスティックな信号が五感という感覚器官と顕在意識に到達した瞬間、好き嫌いすれば体温が微妙に変化するといった身体反応)→触(身体反応を自分で感じとること)→受(身体反応が脳にフィードバックされること)→愛(フィードバックにしたがって、欲しくなったり退けたくなる行為を起こすこと)→取(欲したものに近づく、あるいは退けたいものから離れる行為を実際にすること)→有(欲したものを目にしたり手にしたことで“これは現実にある”という迷妄を抱くこと、あるいは離れて見えなくなることで“これは現実にある”と迷妄を抱くこと。実際は諸行無常だから有るとはいいきれない=空である)→生→老死(自分や物への執着がおこり、生きる苦悩、老いる苦悩、死ぬ苦悩などが起こる)というものだ。
だから、自分なんてない! と諸行無常と諸法無我を体験によって感得すれば、十二因縁によって生まれる苦しみは全て消えるということだ。祈祷師のように唱題していて、こういう認識作用の流れ、とくに一番初めの無明を感得できるんですかね? わたしも真剣に唱題してきた経験があるが、ほぼ無理だと思えた。むしろマインドフルネスといったいわゆる昔からある瞑想(止観行)をやったほうが、遥かにこういった認識作用が働いていることを感じられたわけだが。とはいっても、無明、行といった状態は無意識の域なのだから、そこは日蓮がいうように最後は信じるしかないが、少なくとも十二因縁を論理的に理解していれば、識や各色の時点で感じとることはでき、それでもって自己を制御することも可能であろう。例えそこで誤った認識を通り過ごさせてしまっても、触や受や愛を感得して自己制御できる契機は残されてもいるわけだ。

そして、この十二因縁はもちろん、日蓮がいっているような、過去・現在・未来に因果関係があるとなどといっているものでは決してない。人の心身両面にわたる認識がどうなっているかを詳細に述べているに過ぎない。
パーリ語の経典には、過去・現在・未来に因果も説かれていなければ、十二因縁を謗法すると成仏できないとか地獄に堕ちるなどとは説かれていない。法華経の化城喩品第七だと、日蓮のいっているように「説くところを信じ、受け止め、謗ることなければ、、、、、、、、、阿耨多羅三藐三菩提の如来の智慧を得るであろう」とはあるが、十二因縁を正しく理解していれば、極めてあたりまえのことだとわかろう。釈迦の説いた法は「諸行無常」「諸法無我」なのだから、無明=自我はあると思ってしまえば悟りを得られないのは当たりまえだからだ。しかし、法華経の問題点は、十二因縁について信じ、謗らなければではなく、法華経それ自体を信じ謗らなければ、、、、、、、、、、、、、、、、とされてしまっているところなわけだ。
こうしたことは編纂者による、法華経の権威づけと解釈されてもしかたないだろうし、そういう論理をそのまま読んだのが日蓮であろう。

そしてこういう部分にこそ、宗教があの世のものとなりえる理由があるわけだ。
現実を無視して、とにかく経典にあることを信じろと宗教は思想を抑圧する部分があるからだ。
キリスト教にもそういうところがあり、キリストの復活などはその典型だろう。宗教者からすれば、復活を疑うことは冒涜にあたるというわけだ。しかし「生の哲学」として現実のわれわれが生きていくために聖書や法華経を役立てようと思うなら、そうした復活であるとか、空中に浮かんだ宝塔といったものを、人間が知りえない自然界の摂理や力の暗喩として捉えるべきなのだ。しかし、仏教に深くかぶれてしまうと、宝塔や竜の口の光の玉や、日蓮が母親の寿命を延ばしたというようなことは信じられるが、キリストの復活などあり得ないといったように、自己都合で考えるようになり、それが他宗の排斥へとつながっていくわけだ。

宗教を「生の哲学」として現実に生きることに役立てようとするか、あの世も含めて抽象観念的な奇蹟と呼ばれるようなことまで信じて宗教の奴隷になるのがいいのか、ふつうに考えればどちらがいいかは判断できるだろう。


目の前の現実ばかりを見て、そのつど現実に適した対応をしている人は確かに実際家であり、頼もしくさえ見えるかもしれない。
もちろん、現実の中に生き、現実に対応することはたいせつだ。現実は蔑視すべきものではないし、現実はやり現実なのだから。
しかし、物事の本質を見ようとする場合は、現実のみを見ていてはならない。現実の向こう側にある普遍的なもの、抽象的なものが何であるのか、つかまえることのできる視線を持たなければならないのだ。あの古代の哲学者プラトンのように。

『曙光』

ここで言われている抽象的なものというのは、先に述べた奇蹟のような不合理なものを指すのではないだろう。普遍的とあるように、目には見えないが現実世界にある法則。つまり、すべての物事は動的であり、過ぎ去るものであるとか、こう考えておけば楽に生きられるといった精神的な本質を見られるようにすれば、よりよく現実を生きられるという意味だろう。
いえば、ここでニーチェは、ゲーテが実行した現実と抽象的本質を両立させる生き方を勧めているわけだ。絵に興味があって絵にある抽象的な本質を知りたいなら、実際に絵を描いてみることが本質を掴む一番の早道なのだ、と。建築に興味があるなら、実現しなくても設計図を描いてみるとか。演劇や歌劇に興味があるなら、鑑賞するだけでなく、脚本や戯曲を書いてみるとか、自分で実際にある役を演じてみたり、歌ってみたりするのが早道だ、と。
無論、興味をもったこと全てでそんなことをしていたら、いくら時間があっても足りないのだから、理想は、自分がやりたい仕事をやることであったり、仕事を生活の手段にするなら、せめて趣味で、現実と抽象的本質を両立できるようにすればいいわけだろう。


何にしろ、ニーチェというのは、卑屈な思想の持ち主だという世評が強すぎる。それはまたわたしの偏見であったわけだが。
箴言集だったが、実際に読んでみれば、非常に道理に叶った「生の哲学」であることを十分に感じとれたのは大きな収穫だった。
やはり、世評というのは、あまり当てにならない。自分の心身で感じとって確認することが大事だと痛感したのだ。

ipsilon at 17:00コメント(0)  

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