糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの

07月24日の「今日のダーリン」

・10年先は、どうなっているでしょう。
 5年先は、どんなことになっているのでしょう。
 3年先は、どうでしょう。 
 そういう質問が、ひっきりなしに繰り返されている。
 思えば、10年前にもあったし、5年前、3年前にもあった。
 50年前にもそういう質問があったかどうか、
 質問されることもなかったので、よく知らないが、
 大人どうしの間では、あったんじゃないの?

 変わっていることは、きっと変わっているだろう。
 変えたほうがいいことについては、
 じぶんでも積極的に変えるようにしていくのだろう。
 そこらへんのことだけ言ってれば、まちがいはない。
 しかし、どう変わっているのだということについては、
 どう正確そうな予測をしたところで、
 「まったくそのとおりだった」ということにはならない。

 「当たる方法があるのなら、当てたい」と、
 とても多くの人が考えていて、
 未来を当てるために仕事をしている人もたくさんいる。

 当たったら、なにかいいことがあるのか?
 そこらへんのことは、あんまり語られていない。
 「ある当り」の出はじめのときに、
 多くの人は、これから「ある当り」は流行ると考えた。
 そのなかから、そこでなにかをやればいいと思って、
 「やりはじめた」人は、大なり小なりなにかができる。
 口だけで予想の輪にいた人が
 「やっぱり流行っただろう」と得意そうにしてても、
 やった人が「ほら、うまくいっただろ」と胸を張っても、
 そんなに意味があったのだろうか、という気もしない?
 その「ある当り」についてたくさんの時間や、手間や、
 調査や、お金や、期待が費やされたことは確かだが、
 「ある当り」に関わらないまま生きてきたとしても、
 それほどひどい目にあうということもなかったろう。

 それよりは、「ずっと当り」のものごとを大事にする。
 3年先5年先10年先にも、1000年前にも、
 同じように求められたり大切な価値だったものを、
 それを見定めて、やっていくほうが大事だと思うんだよ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
菅原道真がインターネットを知らないからって、ダメか?