内田百閒
百閒先生(ひゃっけんせんせい)は、またの名を
百鬼園随筆[編集]
八百科事典[編集]
百鬼園先生思えらく、人間の手というのは、字を書くのに使うものではなさそうな気がする。近頃本を読むのが段段面倒臭くなって、人の書いたものを読まないでいるうちに、自分が人に読ませるものを書いているのも嫌になった。こういう意味のことを云って廻っていたら、ある日訪問客から妙なものを見せて貰った。袋に入っている時にはカンヴァスの様だが何か解らないと思ったが、出しても矢張り何か解らなかった。客は得意気にそれを真ん中から開いてみせた。蝶番を半分ほど開けて畳の上に立てたが、硝子か何かが嵌めてある真っ黒な画面があって、下に碁盤の目みたくびっちりとキイが並んでいる。英字と平仮名とがその上に書いてあった。食べ物でないことは直ぐに解った。
「これはどうして使うのです」
と百鬼園先生は早速使ってみるつもりで尋ねた。
「これは大変便利がいいですよ」
と云いながら、客は並んでいる中で取分け大きなキイを押した。と、ぼうっと硝子の中に灯りが点いて、変な模様が映った。
「窓と云うのです、これは」
と客に云われて、百鬼園先生は曖昧に頷いた。
「一体全体何なのです」
「先生は電子計算機を御存知ありませんか」
「否、知っているには知っているが、しかしこれは未だ使えないのですか」
「もうちょうどいい塩梅に立ち上がったでしょう」
と云うので見たが、新しく足など生えた様子はなかった。が、代わりに画面の中にたくさん日本語の文章が出て、端のほうに白い虫の様なのがあった。
「さあ、見ていて御覧なさい」
電子計算機の横の辺りから尻尾の様に紐が垂れていて、客はその先の変な塊を
「先生はきっと喜ばれますよ。これは八百科事典と云って,もの好きが銘銘の勝手な事を書いて投稿するんです。どうです、一つやって見ませんか」
やって見ませんかと云われたって、百鬼園先生、何がなんだか解らない。第一客があんまり一人で喜んで色色の事を云うので、不愉快だった。もの好きと云われたのも気に食わなかった。客が絶えず口を動かし机の上でごりごりやりながら四角をどんどん散らばらして行くけれど、百鬼園先生は苦々しい顔をして坐っているばかりであった。四角の中の文章は、他人のおしゃべりを目で聞いている様で、うるさい。
「キイを使うから手が疲れないで済みますよ」
キイを使ったって、面倒臭いのには変わらない。それにこの八百科事典と云うのは、どうも目がちらちらして、いけない。画面があんまり真っ白で、灯りが点いているからかも知れない。 阿氏が出てきて、大きな声で云った。
「まあ、何だか面白そうねえ。済みません、これ何て云うんですの」
「電子計算機と云って、計算だけでなくて文章を書くことも出来ます」
客はにこにこして、キイでもって
「先生がものを御書きになるのに丁度良いと思いまして」
「あら、良かったわねえ。でも少し
と、阿氏は百鬼園先生の様子を見て、云った。
「それに、お金がないから駄目だわ」
「何、貸して差し上げますよ」
こう客が云ったので、百鬼園先生は、先日金を借りて未だ返さないで居るのを思い出して、そうなると、
客が電子計算機を畳んで帰ってしまうと、百鬼園先生は早めの酒を酌んで、