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野宮の謎

 2016/06/14(Tue)
 以前源氏物語のレポートを書いた後、ひとつ気になっていたことがあったのですが、詳しく調査する余裕もなく先送りになっていました。できればきちんと色々調査確認した後で短いレポートにまとめたかったのですが、ちょっとまだしばらく本腰据えての調査はできそうにないので、現段階での途中報告です。

「野宮(ののみや)」というと、通常真っ先に連想するのは『源氏物語』賢木巻でもお馴染み、伊勢斎宮が滞在した嵯峨野の野宮です。
 斎宮は原則として、卜定後1年目はまず宮中の初斎院へ入って潔斎、次は2年目の秋に嵯峨野の野宮へ移り引き続き潔斎、そして3年目の9月に伊勢へと旅立ちます。よって野宮が使用されるのは大抵斎宮一代に1年程度であり、斎宮が旅立った後は取り壊される習わしだったということです。現在の嵐山近くには観光スポットとしても人気の野宮神社があり、毎年10月には「斎宮行列」と呼ばれる斎宮御禊の再現も行われていますが、どの斎宮がどこに野宮を置いたか等の詳細は殆どわかっていません。

 ところが、平安時代には斎宮の野宮以外にもうひとつ、別な「野宮」が存在しました。
 あまり知られていないことですが、実は賀茂斎院の紫野本院もまた、別名を「野宮」と称することがありました。斎宮がごく一時期だけ滞在した「野宮」とは異なり、斎院の「野宮」は卜定から3年目以降退下までの間ずっと暮らすことになる場所ですが、都の外にあることから同じ呼び名になったのかもしれません。
 ざっと調べてみた限りでは、史料上の初見は『日本三代実録』(貞観2年4月17日条)で、「賀茂祭如常。斎内親王未入野宮。故不向社。」とあります。当時の斎院は6代儀子内親王(文徳天皇皇女、清和天皇同母妹)で、儀子は前年斎院に卜定されたばかりでしたから、まだ本院する時期ではなかったため「未だ野宮に入らず」となったわけです。そして翌貞観3年4月12日に予定通り「賀茂斎内親王臨鴨水修禊。是日。便入紫野斎院。」となりました。
 その後もこのように賀茂斎院の紫野本院を「野宮」と表記する記録は『醍醐天皇御記』『西宮記』『左経記』等の当時の史料にぽつぽつと見られます。ただし全体的な割合としては多くはなく、また『日本紀略』には紫野本院を「野宮」とした記述は見られません。よって公式な呼称ではなかった可能性も考えられますが、『西宮記』『左経記』は『源氏物語』執筆時期にとても近い時代の史料ですから、作者紫式部が紫野本院を「野宮」とも呼ぶのを知っていた可能性は高いと考えていいかと思います。

 さて、前置きが少々長くなりましたが、ここからが本題です。
 既に触れた『源氏物語』賢木巻は、光源氏と六条御息所が嵯峨野の野宮で哀切な別れを繰り広げる有名な場面がありますが、その1年後、源氏は当時のことを思い返して「あはれ、このころぞかし、野の宮のあはれなりしこと、とおぼし出でて」います。これが一体どういう場面かというと、桐壺院崩御後に藤壺の厳しい拒絶に遭い、雲林院に引き籠り中に朝顔斎院と文の贈答をした時のことなのです。
 いくつかの注釈書を見る限り、この「野の宮のあはれなりしこと」は当然御息所との別れの記憶を指しており、季節も同じ秋であることから連想が繋がったものとしてさらりと流しています。確かにそれも間違いではないのですが、この「野の宮」はこの時朝顔斎院がいる「野宮」、即ち「紫野本院」からの連想もあったのではないでしょうか?
 もちろん、既に触れたように伊勢斎宮の「野宮」と賀茂斎院の「野宮」はその制度から言ってもかなり意味合いの違うものです。しかしながら、どちらも共に都の外の「野」にあり、斎王が身を慎み潔斎につとめる場である点は共通しています。
 以前最初のレポートでも書きましたが、紫式部は恐らく「賢木」時点では無理な設定であることも承知で、朝顔斎院がこの時既に紫野本院に入っているものとして執筆していたと考えられます。だからこそ「吹きかふ風も近きほどにて」と朝顔が雲林院から程近い紫野にいることを匂わせる描写をし、さらに「紫野本院=野宮=嵯峨野」という連想から御息所との別れの記憶を導き出して、後に宮中で朱雀帝と源氏が斎宮母子の思い出を語り合う場面へと繋げたのではないかと思います。

 そもそも朝顔姫君という人は、「葵巻」で正式に本人が物語に登場した時から「いかで、人には似じ(自分は御息所のようにはなるまい)」という固い決意を示しており、光源氏を巡る女性の中でも珍しい個性と強い自我を備えた人でした。源氏本人は御息所のことで朝顔姫君がそこまで強く決心しているとは知らないようですが、朝顔はかの車争い事件の時にもすぐ近くに居合わせており、御息所と対のような形で登場することが多いのも、もちろん偶然ではないでしょう。
 なお朝顔と御息所との対比構造については、先行研究でも色々と触れられていますが、「葵巻」ではまず御息所が出てきた後に朝顔が登場するというパターンです。しかしこの「賢木巻」では朝顔の話から御息所の話へ繋がっていっており、これは御息所がもう完全に源氏にとって過去の人となってしまったからなんでしょうね。
 もっとも「賢木巻」では朝顔も既に斎院となってしまったため、もはや源氏の手の届かない人になってしまった点では同じでした。ずっと後に朝顔が斎院を退下すると、源氏は本格的に彼女への求愛を再開して紫の上を不安にさせますが、当時既に御息所はこの世の人ではなく、朝顔と御息所が対で語られることもありません。

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