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源氏物語の「院」とその呼び名

 2015/10/28(Wed)
 先日図書館で調べ物をしていた際、面白い論文を見つけました。
『源氏物語』に登場する冷泉帝(光源氏の息子)は、何故よりによって「冷泉」と呼ばれるのか、というものです。

 ここで「よりによって」というのは、歴史上の「冷泉天皇」が知る人ぞ知る狂帝として有名な人物であるためで、要するにあまりイメージのよくない名前なのです。一方『源氏物語』の冷泉帝は実の父である光源氏そっくりの美貌に加えて人柄も優れた人物とされており、どう考えても史実の「冷泉天皇」をモデルにしたとは思えません(ただし冷泉天皇も美貌ではあったようです)。
 もっとも、『源氏物語』では在位中の天皇はただ「帝」「上」等のように呼ばれており、朱雀帝や冷泉帝は譲位した後に初めて「朱雀院」「冷泉院」と呼ばれています。よって厳密には、何故「冷泉院」と呼ばれるのか、と言った方が正しいでしょう(ちなみに桐壺帝については、後世の読者が便宜上「桐壺帝」「桐壺院」と呼ぶのが定着したもので、作中には同じような呼び名は出てきません)。

 さてここで問題とされているのは、朱雀帝が譲位後もしばらくは「朱雀院」という呼称では呼ばれないのに対し、冷泉帝は譲位の時点で「おりゐたまひぬる冷泉院」と表記されているという点です。
 一体これは何故かということで、論文ではその理由として、物語の冷泉帝に歴史上の冷泉天皇を投影したものではないか、と推測しています。ここから更に光源氏は村上天皇(冷泉天皇の父)をモデルにしているのではという説も出てきて、大変興味深い話なのですが、後で改めて読み返している内、いやちょっと待てよ、と思いました。

 そもそも、最初に登場する桐壺帝の場合、譲位した後も「院」「院の帝」等の呼称のみです。つまり桐壺帝は後院の名称で呼ばれたことはないわけで、だからこそ読者が「桐壺帝」という通称をつけたのですが、これは何故なんでしょうか。
 もちろん、作中で後院の名前が出てこないからと言ってしまえばそれまでですが、桐壺帝の父と思われる一院の場合は「紅葉賀」でどうやら朱雀院(これは邸宅名)を後院としているらしいことがわかっています。しかしこの一院も、物語の中で「朱雀院」と呼ばれることはありません。

 そこで思ったのは、桐壺帝の場合は譲位した時点で「他の上皇が誰もいなかったのではないか」ということです。

 一院の崩御がいつであったかはまったく不明ですが、千尋は恐らく「花宴」~「葵」の間の時期(それも桐壺帝が譲位する前)である可能性が高いのではないか、と考えています。詳しくは5月にアップした賀茂斎院レポートで触れたので省略しますが、そうだとすれば、桐壺帝の譲位で「桐壺院」が誕生した時、他に「上皇」「院」と呼ばれる人がいない可能性はかなり高いことになります。そして朱雀帝の場合も、譲位の時点で既に父桐壺院は崩御しており、他に「上皇」が存在しませんでした。
 つまり、桐壺院も朱雀院も、同時期に二人以上の上皇がいなかったことから、「院」と言えばそれは一人しか当てはまる人物がいなかったのです。従って、ただ「院」だけで誰を指すかがわかるために、後院の名称で呼ぶ必要もなかったということではないでしょうか。

 ところで、朱雀院が初めて最初に「朱雀院」と呼ばれるのは、「藤裏葉」の六条院行幸の場面においてです。
 この当時の帝は冷泉帝で、当然上皇として存在するのはやはり朱雀院だけです。あれ、じゃあ一人しかいないのだったらわざわざ「朱雀院」と呼ぶ必要はないのでは?と一瞬首を傾げたものの、その理由はすぐに思い当たりました。
 そう、「藤裏葉」といえば主人公光源氏がついに、「准太上天皇」にまで上りつめた時の話なのです。
 原文では「太上天皇になずらふ御位え給ふ」とあり、厳密には「上皇待遇」とでも言うべき扱いだったのでしょうが、とはいえわざわざ「院司」まで定められるなど、かなり本格的なものだったことが伺えます。問題の六条院行幸でも光源氏は「主の院」と呼ばれ、また後に「若菜上」でも臣下はもちろん、朱雀院や春宮(朱雀帝の子)でさえ「この院」「六条院」と呼んでいるくらいですから、世間にも光源氏が新しい「院」として広く認められていたと見ていいでしょう(ただ朱雀院は内輪では「六条の大殿」と呼んでいて、何だかちょっと引っかかりますが)。

 つまり「藤裏葉」における「朱雀院」の呼称は、光源氏が「六条院」となったことにより、二人の「院」を区別するという必要に迫られて初めて登場したものだったのではないでしょうか。となると、その後冷泉帝が譲位した際にも、既に朱雀院・六条院の二人の院がいますから、同様に先の二人と区別するために始めから「冷泉院」の呼称になったのはごく自然な話です。そこに歴史上の冷泉天皇を重ねる意図があったかどうかはわかりませんが、ともかく冷泉院の場合は既に複数の「院」がいたからというだけで、充分説明がつくかと思います。

 ところで念のため調べてみたところ、『源氏物語』が書かれた時代の史料である『御堂関白記』『小右記』『権記』には、邸宅名ではなく個人(冷泉天皇)の呼び名として「冷泉院」とはっきり記載されています。さらに言えば、『小右記』では円融天皇在位中はただ「院」と称し、円融天皇譲位後に初めて「冷泉院」の呼称が登場しているので、これもやはり「院」が一人しかいない場合はわざわざ「冷泉院」と呼ぶ必要もなかったからでしょう。
 ともあれ、『源氏物語』の時代に「冷泉院」と言えば、実在の冷泉上皇を連想したであろうことは間違いないと思われます。物語の中では既に朱雀院が塞がっている以上、それに継ぐ規模の後院と言えば冷泉院しかなかったのも事実ですが、『源氏物語』では桐壺帝と並んで聖帝とされた人物の呼称が狂帝と言われた実在の天皇を連想させるというのは、何だか皮肉な話ですね。

 なおずっと後の鎌倉時代に、承久の乱で仲恭天皇が廃位され後堀河天皇が即位した際、後堀河の父である守貞親王は即位していないにもかかわらず「天皇の父」である故に太上天皇とされました。『愚管抄』は「日本国ニ此例イマダナキニヤ」と述べ、漢の高祖の例にならったものかとしていますが、これはまさに光源氏と同じパターンです(ただし光源氏の場合、帝の実父だということはあくまで秘密ですが)。さらに言えば『狭衣物語』でも主人公狭衣が即位した際、その父で源氏に臣籍降下していた関白が「おりゐの帝の位に定まりたまひぬ」とあり、物語の方が先にこの離れ業?を実現しているのが面白いですね。


今回のおまけ:

  六条院行幸-2013風俗博物館
  おなじみ風俗博物館展示より、六条院行幸(2013)。春の御殿に集う帝と二人の「院」。
  中央の麹塵の袍が冷泉帝、右の白い袍が朱雀院、左の濃紫の袍が六条院(光源氏)。
  

付記:
 今回の話はそもそも、以前ここで書いた「上皇は「院」か「帝」か」が元になっています。ただあの時は、桐壺帝譲位後の「葵」巻で敢えて桐壺院を「帝」と呼んだのは、斎院交替が桐壺帝在位中だったからではないかとしましたが、そうすると今度は当時まだ女御でしかなかった弘徽殿を「后」と呼ぶのがおかしいということになってしまうのですよね。
 というわけで、このテーマも引き続き調査中ですので、ある程度まとまったらまた改めて取り上げたいと思います。

参考図書:
 辻和良『源氏物語の王権 ―光源氏と〈源氏幻想〉― 』(新典社、2011)
 「冷泉帝の呼称をめぐって――その主題論的解釈」

  

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