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紫式部と女房装束

 2015/06/23(Tue)
 6/6、明治神宮文化館で開催中の「源氏物語でみる宮廷装束の雅」(2015/3/28-6/21)へ行ってきました。
 この明治神宮文化館は皇室関連で公家装束等の展示をよく開催してくれるので、平安時代好きには嬉しいところです。しかしこまめにチェックしていないとなかなか気がつかず、千尋もうっかりしていて前期の展示を見逃してしまいました…残念。

2015年明治神宮・装束展

 さて、今回の目玉はちょっと珍しく「源氏物語絵巻「柏木二」の夕霧大将の装束」だそうです。これはこれで滅多にない貴重な機会ですが、とはいえやはり一番楽しみなのは女房装束、すなわち十二単ですよね。
 というわけで、後期展示では十二単一式をすべてばらばらにした状態で、一番下の単(ひとえ)から唐衣(からぎぬ)までを見ることができました(なお前期では、これとは別に一式着付けをした状態での展示があったようです)。

 ところで十二単と言っても、本当に着物を十二枚も重ねたわけではありません。よく「五衣(いつつぎぬ)」等と呼ぶように、実際には五~六枚くらいが標準的だったようです。よって今回の展示も「六衣(むつぎぬ)」、つまり六枚の着物を重ねたものでした(ただしこの他に一番下の単と、六衣の上に着る表着(うわぎ)があり、さらに唐衣もつけると、合計で九枚です)。

 まず単(ひとえ)は濃色(こきいろ)、つまり深紅の着物で、地紋は幸菱(さいわいびし)の固地綾(かたじあや)です。平安時代には小袖、つまり今でいう長襦袢のような下着はつけなかったそうなので、この単を素肌の上に直接着ていたことになります。
 次が六衣で、下から順番に萌木(もえぎ、黄緑)色が二枚、山吹色が二枚、紫色が二枚です。これらも明るい黄緑、濃い黄緑といった具合に少しずつ変化をつけており、こうしたグラデーションを「匂い」と呼びますが、一枚一枚だけでも鮮やかな色合いで、それがずらりと並ぶと大変華やかな印象です。ちなみに地紋はすべて松立涌(まつたてわく)の固地綾なのですが、実際には表着の下に着るので、袖口のごく一部しか見えないものなんですよね(だから無紋でもわからないのですが、そうしないところがまた贅沢です)。

 さて、次がやっと表着(うわぎ)です。
 普段着であれば、これがその名のとおりに一番上の着物になります。よってこれはぐっと華やかに、地紋の上に別な色で二重に紋を織り出した「二倍織(ふたえおり)」という豪華な生地を使います(もちろんお金持ちの高貴な人に限りますが)。
 展示では蘇芳(すおう)色楓地文に白花菱上文で、紅葉模様の艶やかな深紅の地に白い花菱を散らした、何とも華麗な着物でした。紋様こそ違いますが、源氏物語の衣装配りで紫の上に見立てられた着物「紅梅のいと紋浮きたる葡萄染め(えびぞめ)の御小袿」を連想させます。

 そして最後、正装として表着の上に唐衣(からぎぬ)と裳がつきます。
 こちらは表着とはがらりと変わり、萌木色の菊菱地文に白菊の上丸文で、明るい黄緑に白い菊の文様が爽やかな印象の着物でした。また裳は白い三重襷(みえだすき)の地紋に、松・洲浜(すはま)・波の摺文(すりもん)という、定番の海浜模様です(そういえば、何故これが定番なのでしょうね?)。

 それにしても、別々に見ても大変に豪華なこの唐衣と表着を実際に重ねたら、洋服で言うなら明るい黄緑のボレロに深紅のドレスを着ているような状態です。これって現代の感覚で見ても、かなり大胆で派手な組み合わせではないでしょうか?
 とはいえ、残念ながら撮影不可でしたので、代わりに恒例風俗博物館さんの昔の展示からよく似た衣装をご紹介。

2009-moegi-suou.jpg
「少女・五節舞姫の童女選び」(2009年)
唐衣:青色唐草地薄朽葉五窠木瓜文、上着:紅小葵地文白亀甲丸文、五つ衣:紅の薄様?、裳:裾濃
展示:群馬県立日本絹の里

 ここで思い出したのが、紫式部日記の最後の方に出てきた、敦良親王(のちの後朱雀天皇。中宮彰子の次男)御五十日の祝いの折の、式部本人の衣装です。
 原文では「紅梅に萌黄、柳の唐衣、裳の摺目など今めかしければ…」とあり、柳の唐衣は黄緑よりも淡い薄緑ですが、ちょっと今回の展示に似た配色だったことがわかります。式部はこの後「とりもかへつべくぞ若やかなる(随分と現代風で、取り替えたいくらい若作りな衣装だこと)」とコメントしており、晴れの場とはいえやっぱり派手で恥ずかしかったのかな?とちょっとおかしくなりました。

 ところで「紅梅に萌黄」のところは、後で注釈書を色々見てみたところ、「紅梅の重ね色目に萌黄の表着」とする解釈の方が多いようです。しかし「薄緑の唐衣の下に黄緑の表着、袖口に赤やピンクのグラデーション」というと、大半が緑で固めた同系色の衣装という感じです。重ねに赤系の色を使ってはいるものの、全体的にはむしろおとなしい印象ではないでしょうか。
 ちなみに『源氏物語』では、この萌黄という色は実は殆ど出番がなく、唯一衣装の色で登場するのが「若菜・下」の女楽です。この色を着ているのは明石御方で、原文では次のように描かれています。

「柳の織物の細長、萌黄にやあらむ、小袿(こうちき)着て、羅(うすもの)の裳のはかなげなるひきかけて、ことさら卑下したれど、けはひ、思ひなしも心にくく侮らはしからず。」

 この時明石御方は30代後半、娘の明石女御は既に二児の母となっており、当然もう若いとは言えません。小袿は本来唐衣と同様に、略礼装で一番上に着る少し丈の短い着物ですが、その上に細長を着ることもあります。よってここでは、薄緑の細長の下に黄緑らしき小袿の裾が覗いている、という感じでしょうか。
 ちなみにこの女楽の場面で、他の三人は全員、葡萄染の小袿に薄蘇芳の細長(紫の上)、紅梅の御衣(明石女御)、桜の細長(女三宮)という赤系統の衣装でした。その中では一人緑系の明石御方は落ち着いた色合いに見えるというのもあったでしょうが、それにしてもさほど派手な印象はありません。
 というわけで、これも風俗博物館さんの展示を見ていただいた方が早いでしょう。

女楽明石御方 2006年
「若菜下・女楽」(2006年)
細長:柳かさね白四つ割菊文、袿:萌黄地幸菱文、五つ衣:紫の薄様、裳:羅地幸菱文

 なお『紫式部日記』では、式部と一緒にいた同僚の小少将の君は「桜の織物の袿、赤色の唐衣」だったとあります。こちらは薄いピンクのドレスに赤いボレロといったところでしょうか、いかにも若々しく可愛らしいイメージで、薄緑のボレロに黄緑のドレスの式部よりも華やかさでは上ではないかと思います。平安時代の色彩感覚は今とは随分違うでしょうが、それにしても自分が盛りを過ぎたおばさん(苦笑)だと思う式部があんな風に「取り替えたいくらいだ」というのは、何だかちょっと納得がいかないのですよね。
 というわけで、これも実際に見ていただいた方が早いので、同じく風俗博物館さんの展示から。

2003年少女
紫式部「少女・五節舞姫の童女選び」(2003年)
唐衣:萌黄亀甲地文臥菊菱、表着:柳織物?桜立涌文、五つ衣:若菖蒲かさね、裳:裾濃

2004年絵合
小少将「絵合・梅壺方の女童」(2004年)
汗衫:桜かさね桜立涌文、表着:蘇芳波地白鴛鴦丸文

 ※どちらも色の組み合わせが逆ですが、大体のイメージはわかるでしょうか?

 ついでながら『枕草子』では、淑景舎(春宮妃原子。中宮定子の妹)が「少しあかき蘇枋の織物の袿、萌黄の固紋のわかやかなる御衣奉りて」とあり、これまた解釈は色々あるのですが、配色はよく似ています。原子はこの時十代半ば、「絵に描いたように可愛らしい」と清少納言が評していますから、その衣装も初々しく可憐な少女に似合うような、瑞々しい華やかさを感じさせるコーディネイトだったということでしょう。

 そんなわけで、紫式部の衣装は紅梅の表着(濃いピンクまたは赤紫?)に、表着の下の袿は萌黄の重ね色目(黄緑の濃淡)、そして表着の上に柳の唐衣だったのではないかなと思います。これなら薄緑のボレロに濃いピンクまたはボルドーのドレスという感じで、赤系統の表着の面積が大きくまた唐衣との色合いも対照的ですから、柳と萌黄よりもかなり派手な印象ではないでしょうか?

 ところで話戻って、女楽の明石御方の衣装の描写を改めて読み返していて、ふと思ったことがありました。
 本文中に「羅(うすもの)の裳のはかなげなるひきかけて、ことさら卑下したれど」とあることから、ここでの明石御方は四人の中で唯一、正装の女房装束である「裳」をつけへりくだって見せているのがわかります。事実、最も高貴な女三宮は「細長」つまり普段の衣装で、続く明石女御も「御衣」としか書かれていませんが、恐らく袿姿でしょうか(注釈によっては小袿としています)。そして紫の上は二人に礼を取りつつ、細長に略礼装の小袿に留めています。
 とはいえ、本当に女房としての正装にするなら、やはり唐衣をつけるのが本来の形のはずです(もっとも玉上琢彌氏によれば、はっきりわかるようにするとわざとらしさが過ぎて「どうせ私は違いますよ」という感じになり、逆に嫌味でいけないということですが)。そもそも本来であれば地方の土豪の娘に過ぎない明石御方は、こうした場に居並ぶことすら出来ないはずの人物なのです(事実、明石女御の裳着には出席できませんでした)。
 しかしそこを紫の上と同じく「細長に小袿」という略礼装をとり、「羅(うすもの)の裳のはかなげなる」つまりあまり目立たないごく薄い裳だけをつけたというのが、控えめに見せているようで何やら意味深ではないでしょうか。実際、いくら裳を着け卑下しているとはいえ、紫の上と一見殆ど変わらないとは何やら穏やかでない話です。
 もっとも、明石御方の振る舞いが本当に紫の上や女三宮に対して無礼であれば、当然六条院の主人たる光源氏が許すはずがありません。従って、明石御方の装いは光源氏も認め許したものだと思っていいでしょう。
 というわけで、最近の展示からもう一枚。

女楽明石御方 2014年
「若菜下・女楽」(2014年)
細長:柳かさね白四つ割菊文、小袿:白地萌黄乱れ唐草文、五つ衣:雪の下かさね、裳:羅地幸菱文

 明石御方はあくまで慎ましく控えめに振舞ってはいますが、内々とはいえこうした晴れやかな場に二品内親王や女御と並んで参列を許された彼女の内心には「技量では誰にも引けは取らない」という密かな矜持もあっただろうと思います。事実、演奏が始まったところで明石御方は真っ先に「琵琶はすぐれて上手めき、神さびたる手づかひ、澄み果てておもしろく聞こゆ」と語られています(もっともここの描写は、演奏の巧みな順であると同時に身分の低い順でもあるのですが)。だからこそ地の文も最後に「けはひ、思ひなしも心にくく侮らはしからず」と敢えて書き添えたのではないでしょうか。
 そう思うと、自らは縁の下に控えながらも娘と孫の将来の栄光を約束された明石御方に対して、ますます正妻女三宮と己の立場の違いを自覚し思いつめていく紫の上が一層哀れでもあります。一見実に華やかで、風俗博物館の展示では特に好きなテーマのひとつなのですが、この「若菜」以降の紫の上は本当に可哀想ですよね…

2014年女楽・紫の上
「若菜下・女楽」(2014年)
細長:薄蘇芳地臥蝶丸文、小袿:葡萄色地紫梅文、五つ衣:紅の匂?

和琴を前にした紫の上。光源氏と夕霧はその演奏を絶賛しましたが、この翌晩彼女は病に倒れます。

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