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斎宮女御と源氏物語

 2015/05/10(Sun)
 本日、賀茂斎院レポートの改訂版をアップしましたが、再調査の中で伊勢斎宮関連でちょっと気になったことがありました。というわけで、この問題のみ項目を分けて紹介したいと思います。

『源氏物語』に登場する六条御息所・秋好中宮母娘は、実在の人物である斎宮女御徽子女王をモデルにしたと言われています。特に「賢木」での斎宮伊勢下向の場面は、日付が9月16日と明記されており、史実の斎宮規子内親王の下向と同日であることや、また「親添ひて下りたまふ例もことになけれど」としていることから、母六条御息所を徽子女王に、娘の斎宮(秋好)を規子内親王に重ねて書いたものだろうと言われてきました。

 ところが記録を見ると、斎宮規子の初斎院入りは貞元元年(976)2月26日なのに対し、源氏物語の斎宮(秋好)の初斎院入りはさらに大幅に遅れて「この秋入りたまふ」とされており、その後「九月には、やがて野の宮に移ろひたまふべければ」となっています。先行研究ではあまり追及されていなかったことなのですが、何となく引っかかって他に同様の例はないだろうかと調べてみたところ、その結果に驚きました。

 何と、卜定2年目の秋(7~8月)に初斎院入りし、その後9月に野宮入りした斎宮は、『源氏』以前では徽子女王ただ一人だったのです。

 これは単なる偶然ではないのではないかと思い、改めて徽子女王の卜定から群行までの日付を見直してまた気がついたのですが、徽子女王の伊勢下向は偶然にも娘の規子内親王と一日違いの9月15日だったのですね。しかも規子内親王は群行当時29歳でしたが、徽子女王は10歳という年少で、14歳で下向した秋好のイメージに近いのは、女王と言う共通点を考えてもむしろ徽子の方ではないかという気がします。もちろん徽子自身には母が付き添っての下向はありませんでしたし、その点は規子内親王の方が共通点ですが、もしかすると六条御息所と斎宮秋好の母娘下向の場面は、母御息所に女御徽子を、娘斎宮に斎宮徽子のイメージをそれぞれ重ねたものなのではないかと思いました。

 元々秋好は斎宮退下の後に冷泉帝へ入内し、立后までは徽子と同じ「斎宮女御」の通称で呼ばれた人ですから、母六条御息所と同様明らかに徽子がモデルであったろうと思われます。ただこの場合、まず六条御息所が斎宮女御徽子の面影を連想させる人物として登場し、その後そのイメージが娘秋好へシフトしたというのではなく、最初からこの母娘は徽子のイメージを二人に分割して作り出されたということではないでしょうか。レポート改訂にあたって色々調べてみたのですが、意外にもこの問題を指摘した研究は過去になかったようなので、ちょっと面白いかなと思いレポートの最後に付け加えてみました。紫式部が『源氏』執筆にあたってどんな史料を元にしたかはわかりませんが、よほど斎宮女御徽子という人物に深い関心と思い入れがあったのでしょうね。


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