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上皇は「院」か「帝」か

 2013/11/02(Sat)
 以前『源氏物語』の斎院について、このブログや賀茂斎院サイトの小論で触れましたが、その後また引っかかるものがありました。

「葵」帖冒頭で、桐壺帝女三宮が斎院に卜定されたくだりに「帝、后と、ことに思ひきこえたまへる宮なれば」とあります。この「帝、后」ですが、『后』はもちろん母親の弘徽殿大后であることは疑いないとして、『帝』というのは始め、新しく即位したばかりの朱雀帝(斎院とは同母兄妹)のことかと思っていました。

 ところが、各注釈を見てみると、どれもこの『帝』は桐壺帝のことである、としているのです。
 え、桐壺帝は既に譲位して上皇なんだから『院』じゃないの?とここで疑問。

 そこで早速確認してみたところ、少なくとも「葵」以降「賢木」で桐壺院が崩御するまでの間、桐壺院を『帝』と称した箇所はこの斎院卜定の時の一度きりなのです。しかし注釈を見ても、あっさりと「上皇をも『帝』と呼称する」とあるだけなのですが、他では皆普通に『院』としているのに何故ここだけ『帝』なのか、誰も疑問に思わなかったのでしょうか。
 上記の通り、私は始め「『帝』とは当代の天皇である朱雀帝のことだろう」と考えましたが、文脈から考えればこの場合の「帝、后」はやはり新斎院の両親、すなわち桐壺帝と弘徽殿大后とするのが最も自然と思われます。ではどうして上皇なのにここだけ『帝』なのかということになりますが、そこで思い出したのが例の「桐壺帝女三宮はいつ斎院になったのか」でした。

 結論から言ってしまいますと、この「帝、后と、ことに思ひきこえたまへる宮なれば」とあるのは、桐壺帝がまだ譲位していない『帝』だった時に桐壺帝女三宮が斎院に卜定された、という意味ではないでしょうか?

 これに思い当たって原文を確認してみたところ、譲位後も桐壺院を『帝』と呼ぶ箇所がもうひとつありました。
「須磨」帖(つまり桐壺院崩御後)で「(光源氏は)七つになりたまひしこのかた、帝の御前に夜昼さぶらひたまひて」とあり、ここでの『帝』は間違いなく父桐壺帝のことです。ただし内容は源氏七歳の時を起点として語っていますから、源氏の幼少期ならば当然桐壺帝も在位中だったことになるので、「葵」の場合もこれと同じと考えることができます。

 なお、これ以外で「明石」に「夢の中にも父帝の御教へありつれば」、また「玉鬘」に「父帝の御時より」と、「父帝」としているところがあります。ここも厳密には「父院」の方が正確かとも思われますが、そもそも『源氏物語』では「父院」という呼称は使われていません。「橋姫」で宇治の八の宮の半生を語るくだりでも「父帝にも女御にも、とく後れきこえたまひて」とあるので、作中では桐壺院を「父帝」と呼ぶ場合は在位中かどうかは関係なく単に「父であり天皇である人(または天皇であった人)」として使っていたようです。


 では、桐壺帝以外の『帝』の場合はどうでしょうか。

 そこで朱雀帝の例を調べてみたところ、こちらも譲位後「藤の裏葉」まではやはり『院』『院の帝』で一貫しており、ただ『帝』とだけ称した箇所はありません。「若菜」以降には『入道の帝』『山の帝』などの呼称も散見されますが、これも『おりゐの帝』のような表現の一種、すなわち(『帝』とつくけれども)実質的には『院』の別な言い方と見ていいと思われます。
 問題は、「若菜」で『帝』(または『父帝』)と呼んでいる四か所です。(注:当時の天皇は冷泉帝、またはその次の今上帝です)

「若菜(上)」[地の文]
 ・「姫宮(女三宮)の御ことをおきては、この(朧月夜尚侍の)御ことをなむかへりみがちに、帝も思したりける」(朱雀院出家後の朧月夜について)
 ・「この宮を父帝のかしづきあがめたてまつりたまひし御心おきてなど」[地の文]
  (柏木が朱雀院に出入りし、女三宮の噂を聞いていた様子)
 ・「(女三宮は)帝の並びなくならはしたてまつりたまへるに」[柏木の言葉]
  (蹴鞠から帰る途中、夕霧との会話)

「若菜(下)」
 ・「(女三宮を)帝のかしづきたてまつりたまふさまなど、聞きおきたてまつりて」[地の文]
  (柏木が早くから女三宮の噂を聞いていた様子)

 面白いことに、この四例のうち三例までが柏木の言葉か柏木についての描写で、しかもその三例全てが「帝(朱雀院)が女三宮を大切にかしずき育てていた」とする内容です。
 これを見つけた時、始めは「朱雀院が帝位にあった頃から、女三宮を溺愛していた」という意味かと思いました。しかしよく考えると、朱雀院が女三宮を特に心にかけるようになったのは、母藤壺女御の死で宮が一人残されたのを不憫に思ったためだったといいます。そしてその藤壺女御は朱雀帝の譲位後に亡くなったので、朱雀帝が女三宮を大切にかしずき育てたのは、譲位して『朱雀院』になってからであったはずです。
 だから、上記の柏木の言葉「帝(または父帝)が大切にしていらっしゃった」というのも、厳密に言えば「上皇が」「院が」とするのが正しいことになるのですよね。よってこれだけを見るなら、「上皇を『帝』と称することもある」というのは間違いではないようにも思えます。

 とはいえ、「若菜」全体で『院』『院の帝』『山の帝』等の呼称は、実に合計50回以上あります。さらに「柏木」以降になると、『院の帝』『山の帝』の呼称はあっても『帝』とは呼ばれなくなります。それなのに、この四か所のみ敢えて『帝(父帝)』としているのがどうも引っかかりました。
 となると、これはほぼ柏木だけに限定される特殊な用例ではないか、という可能性も考えられます(朧月夜関連の一箇所は該当しませんが、こちらは譲位前の朱雀帝が朧月夜をかき口説いた場面に重ねたものでしょうか)。しかもその内容から推測するに、女三宮が「朱雀院最愛の尊く素晴らしい皇女」であると信じ込んでいる柏木の盲目的な憧れを「帝が(正しくは上皇が)あんなにも大切にしていらっしゃった」という言い回しを繰り返し使うことで、より強調しているのではないでしょうか。

 思えば柏木の母(右大臣の四の君)は弘徽殿大后の妹で、つまり柏木は朱雀院とは従兄弟同士にあたる間柄でもあります。そうした母方の縁の深さも手伝ってか、原文にも「衛門督の君も、院に常に参り、親しくさぶらひ馴れたまひし人なれば」とあるように、柏木は譲位した朱雀院の元へ日頃親しく出入りしていたようです。(夕霧にしても朱雀院は実の伯父ですが、父源氏の異母兄とはいえかつては政敵同士です。おまけに雲居雁の一件まであってはさほど親しい交流はなかったと思われますし、だからこそ朱雀院も夕霧を女三宮の婿にする機会を逃してしまったのでしょう)
 こうした裏事情は玉鬘求婚譚のあたりでは当然まったく語られませんが、「若菜(上)」で柏木が女三宮への恋慕を募らせていく前提として、柏木と朱雀院の繋がりの深さを強調しているこの箇所は気になる点です。このような親しい関係が元々あったために、朱雀帝が退位して冷泉帝と光源氏の全盛時代となってからも、一種の身びいきも手伝って「帝が帝が」と過度に持ち上げるような呼び方を無意識のうちに柏木がしてしまったのでは…とするのは、いささか深読みに過ぎるでしょうか?


 ともあれ、こうして見ると『源氏物語』の場合、既に譲位した天皇(上皇)を敢えて『帝』と称するのは、基本的には「その天皇がかつて在位中の出来事を語る場合」であったと考えられます。(当たり前といえば当たり前ですが) ただ光源氏没後の物語で冷泉院の呼称を「帝」としているところもあり(「竹河」で一箇所と「橋姫」で二箇所)、これはちょっと気になりますが、やはり大半は『冷泉院』『院』『院の帝』等としているので、こちらの方がオーソドックスな言い方であったのは確かでしょう。

 というわけで、もしこの推測が当たりだとすれば、桐壺帝女三宮の斎院卜定が桐壺帝の在位中ではないかとする仮説の補強になるかも、とちょっとわくわくしました。もっとも紫式部が書いた「本物の源氏物語」が既にこの世に存在しない(多分)以上、絶対間違いなしと断定することは誰にもできませんが、本文の研究というのはこういう意味でも大事なのですね。


 ところで参考までに、他の物語などはどうかと思って調べてみたところ、『院の帝』という言い回しは非常に少ないらしいということが判りました。以下、「新編日本古典文学全集」(小学館)による調査結果です。


 『古今和歌集』~1件。「朱雀院の帝」
 『大和物語』~2件。「陽成院の帝」「院の帝(宇多法皇)」
 『平中物語』~1件。「院の帝(宇多上皇)」
 『宇津保物語』~9件。「俊蔭」1件、「吹上」8件。
 『源氏物語』~12件。桐壺院2件、朱雀院7件(うち「朱雀院の帝」2件)、冷泉院3件(うち「冷泉院の帝」2件)。
 『夜の寝覚』~1件。1巻冒頭に「朱雀院の帝」
 『栄花物語』~1件。「1・月の宴」に「朱雀院の帝」
 『大鏡』~2件。「右大臣師輔」に「花山院の帝」、「太政大臣公季」に「円融院の帝」


『栄花物語』『大鏡』の例はそれぞれ歴史上の呼称である「朱雀天皇」「花山天皇」「円融天皇」くらいの意味で使われており、この場合は除外してよさそうです。『宇津保物語』は長編だけに9件と多く、『源氏』とさほど変わらない数ですが、それにしても『源氏』を境として殆ど見られなくなっているのが気になります。始めは言葉にも流行りすたりがあるからそういうものかとも思ったのですが、何となく気になってしばらく考えた後、はたと気がついたことがありました。

 そもそも平安中期の歴代天皇は、特に一条天皇以降、退位後短期間で崩御している例が多いのです。一条天皇(1011年没)は10日後、三条天皇(1016年没)は1年3ヵ月後、後朱雀天皇(1045年没)は2日後、後三条天皇(1072年没)は半年後で、後一条天皇(1036年没)と後冷泉天皇(1068年没)に至っては在位のまま崩御しています。ついでに言えば、円融法皇(991年没)と花山法皇(1008年没)は一条天皇の在位中(986-1011)に、冷泉上皇は三条天皇の即位直後(1011年)に崩御していました。

 つまり、冷泉上皇が亡くなった1011年から白河天皇が退位する1086年までの75年間、「院(上皇)」と呼ばれる人がいたのは三条上皇と後三条上皇を合わせてもやっと1年9ヶ月でした。特に三条上皇崩御(1016年)から後三条天皇退位(1071年)までの間、かろうじて3日間だけの後朱雀上皇(ちなみに出家と同日に崩御のため、「後朱雀法皇」はたった1日でした)がいたとはいえ、「院(上皇)が存在しない期間」が実に半世紀以上(!)も続いていたわけです。「院の帝」という呼称が見られなくなってしまったのも、もしかするとこの「院(上皇)の不在」の長さのために言葉自体の使用がなくなってしまい、次第に忘れられていったということかもしれません。
 また逆に、白河天皇以降(正確には鳥羽天皇退位以降)のいわゆる院政期になると、今度は同時期に複数の上皇がぞろぞろと出てきます。おかげで当然ながら、ただ「院」というだけでは誰のことかわからなくなってしまいました。そのため『保元物語』『平治物語』などになると「白河院」「鳥羽院」のような固有名詞になったり、また上皇になったばかりであれば「新院」と呼んだりしていますが、「院の帝」という呼称が復活することはなかったようです。

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