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幼な妻と尼姫宮

 2011/06/24(Fri)
 先日久しぶりに十二単を見てきたこともあり、またちょっと源氏物語をあちこち読み返していました。で、今まであまり関心のなかった女三宮について、いくつか思ったことがあったので覚書きです。

 源氏物語の登場人物たちについては、よく歴史上の人物に準拠、つまりモデルを求める研究が多くあります。特に主人公光源氏の準拠は源融とか源高明とか藤原伊周とか藤原道長とか、日本史でもお馴染みの人物たちがぞろぞろ挙げられており、そのどれか一人に限定するということは恐らく不可能でしょう。
 というわけで、そんな大物について語るのはおこがましくまた今さらでもありますが、そういえば女三宮のモデルではないかと言われた人っていたかしら、とふと思いました。単に私が今まで興味を持たなかったから知らないだけだろうとは思うのですが、そこで連想したのが、藤原彰子と尊子内親王だったのです。

 まず藤原彰子といえば、これまた日本人なら知らない人は少ないでしょう、道長の娘で一条天皇の中宮、そして紫式部の仕えた主人です。12歳の若さ(というより幼さ)で8歳年上の従兄一条天皇の後宮に入内、同じく12歳年上の従姉・皇后(始めは中宮)定子と並び立って后となったことは、平安時代の歴史でも特に有名な一大事件でした。
 しかしよく考えてみると、先妻を押しのけて(と言うと言葉が悪いですが)天皇の正妃になった彼女の来歴は、紫の上という人がありながら親子ほども年上の光源氏の正室として降嫁した女三宮と、何だか妙に似ています。最近「源氏物語の時代」という本を読み返していてそのことに気がつき、こういうことを考えた人って他にいないのかなと思っていたら、その後橋本治の「窯変源氏物語」、それも『雲隠』の中にちらりと同じようなことを書いていたのを見つけて驚きました。(昔読んだはずなのに、すっかり忘れてました…苦笑)

 とはいえ、物語では女三宮は柏木との密通・出産の末に呆気なく出家、源氏の正妻の座から降りてしまいましたが、歴史の方は皇后定子が出産で亡くなり、中宮彰子はその後一条天皇の生涯を通して事実上ただ一人の妻でした。栄花物語では「かかやく藤壺」と讃えられ、華やかに時めいた彼女はどちらかといえば源氏の初恋の人で、その名も同じ藤壺中宮のイメージの方がまず浮かんできそうです。
 ただ「源氏物語の時代」にもあったように、亡き後も定子への思いを忘れることのなかったらしい一条天皇が、表向きはともかく果たしてどれだけ彰子を寵愛したのかは疑わしいところも残ります。しかし現代ならともかく、当時「源氏」の読者でこれを意識した人はどのくらいいたのかと思うと、やっぱり紫式部ってちょっと怖い人ですねえ。(なお「源氏物語の時代」の著者は一条天皇と皇后定子の二人に桐壺帝と桐壺更衣の悲恋のイメージを重ねていますが、それはそれでやっぱり洒落にならない…)

  


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 さてもうひとり、こちらは名前を知っている人は恐らくかなりの日本史通だろうという、尊子内親王ですが。
 彼女は冷泉天皇の第二皇女、生母も藤原北家嫡流の名門出身という、文句なしに高貴ないわば血統書つきの内親王です。しかし母は早くに亡くなり、また摂政となった祖父も同じく早世、尊子は幼くして頼りになる後見を失くしてしまいました。
 もともと彼女については、第15代賀茂斎院という肩書のひとつから注目していましたが、この人の珍しいところは斎院を降りた後で天皇の妃となったところです。相手は叔父にあたる円融天皇で、そもそも入内についても円融天皇の方から勧めたことだったといい、「栄花物語」でも妃となった内親王を可愛らしい人と思ったとありますから、二人の仲は多分悪くなかったのでしょう。
 しかし尊子は内親王と言う高貴な生まれにもかかわらず、結局円融天皇の皇后にはなれず、また皇子皇女にも恵まれませんでした。そして数少ない身内の一人であった叔父の死をきっかけに、何と自ら髪を切り落として出家、世を捨ててしまったのです。

 …こうして見ると、中宮彰子とはまた違った意味で女三宮との共通点がいくつもありますが、尊子内親王はその後20歳の若さで亡くなってしまいました。女三宮は出家こそしたものの、表向きは光源氏との子とされた息子薫のおかげで不自由ない平穏な生活をしていたようですから、過酷な体験をしたとはいえ尊子に比べれば随分恵まれた余生を送ったことになりますね。
 なお付け加えれば、尊子の同母弟は一条天皇の先代・花山天皇でした。こちらも道長の父兼家の陰謀で退位・出家させられた逸話で有名な人で、そのとばっちりで紫式部の父為家はいわば失職、その後随分苦労したようです。その花山天皇の姉で若くして世を捨て亡くなった尊子を、式部はどう感じていたのでしょうか。

  




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 それにしても、源氏物語とはそれなりに長い付き合いになりつつありますが、時折それまで意識しなかったようなことにふっと気がついて驚くことがよくあります。こういうところがいくつになっても飽きることのない、それどころかますます惹きつけられる源氏の魅力でもあるのでしょうね。

 そうそう、最後にもうひとつ、これは大分以前から密かに気になっていたのですが。
 中宮彰子は皇后定子の亡き後、定子の産んだ敦康親王を引き取って母代りに養育し、一条天皇が亡くなった時には実の息子よりも敦康を東宮にと希望したといいます。肝心の敦康親王がそんな彰子にどういう感情を持っていたかは判りませんが、モデルと言うならこの二人こそまさに光源氏と藤壺の宮を連想させるなあと思うのは私だけでしょうか…?(←それこそ歴史小説等のネタとしては行けるかも。笑)


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