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続・源氏物語の親王

 2008/05/18(Sun)
昨日の記事で、すっかり忘れていたことがひとつありました。
源氏物語に出てくる親王といえば、もう一人忘れちゃいけない常陸宮がいたのですよね。はい、(この人も名前だけしか登場しませんが)末摘花のお父さんです。(笑) すみません、影薄い人なのですっかり失念してました…

さてその常陸宮ですが、この人は末摘花登場の時点で既に亡くなっており、子どもは末摘花とその兄(既に出家)の二人がいることが判っています。特に末摘花は常陸宮が晩年にもうけて特に可愛がっていた娘ということなので、もし常陸宮が生きていたとしても多分それなりの高齢だろうと思われますから、少なくとも桐壺帝の兄弟ではないでしょう。(だったら朝顔の姫君の父式部卿宮のように、はっきりそれと書いているはず)
そうなると、残るは先帝の皇子の一人であったか、あるいは別の帝の子であったかということになります。ただ先帝の皇子だとすると、つまりは藤壺の兄弟(恐らく異母)であって、その娘の末摘花は紫の上と同じ藤壺の姪ということになるのですよね。そんな(ある意味愉快な)血縁関係があったら絶対書かずにはいないでしょうし、多分これもなしと見ていいでしょう。

なお「常陸宮(常陸太守とも称する)」という肩書きは、前項で触れた式部卿・中務卿・兵部卿などに比べて一段格式の低いものらしく、後に宇治十帖で登場する今上帝の常陸宮(第四皇子)は更衣腹の親王ということになっています。これから推して、この常陸宮も生母はあまり身分の高い人ではなく、実際訪れる人も殆どないひっそりした暮らしぶりだったようですが、音楽に嗜みの深い人であったとされることや、生前はそれなりに財産も色々所持していたとみられるところからして、皇族としての体面や格式は恥ずかしくない程度に保っていたのでしょうね。(少なくとも、後に登場する宇治八の宮よりはましな生活だったでしょう)
本文をよく読むと、末摘花の邸は手入れが行き届かず荒れ果てていたものの、道具は常陸宮が娘のために調えた古風で立派なものが揃っているとあり、またお香もさすがに宮家らしい格式高い品が伝わっていたようです。この辺は「源氏の薫り」(尾崎左永子、朝日新聞社)という本がとても詳しく判りやすいので、絶版本ですが興味のある方は図書館か古書店で探してみてください。(なお同著者による「源氏の明り」「源氏の恋文」もお勧めです)

なお余談ですが、常陸宮の遺品で末摘花が愛用していた黒貉の皮衣からは、醍醐天皇の第四皇子重明親王が連想されます。しかも親王の息子で「青侍従」と呼ばれた源邦正は、『今昔物語』によれば「顔は青白く、鼻は鮮やかに高く赤く、振舞いも優雅でなかった」そうで、男性ですがまさしく末摘花そっくりなのですね。
ちなみに私、実は重明親王の娘の斎宮女御徽子女王の大ファンなので、こういう連想は正直ちょっと不本意なのですけれど(苦笑)、その斎宮女御も六条御息所・秋好中宮母娘のモデルとなっているといわれており、かように源氏物語のキャラクターにはところどころ実在人物に面影を借りた人が多くいるのも面白いところです。ついでに言えば、村上天皇中宮安子が勝気で嫉妬深かったという話なんかはどうも源氏物語の弘徽殿女御を連想して仕方がないし(笑)、そんなゴシップは当時もさぞかし宮廷社会で話題になったんでしょうね。

というわけで、最後はちょっと昔の写真から、源氏物語にちなんだものを二つ。


1.2004年葵祭の斎王代御輿

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斎王代ご本人が「晴れ女です(笑)」とコメントしただけあって、この年は本当にいいお天気でした。

2.風俗博物館の展示より
 源氏四十の賀の支度をする女房(若菜上)

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いつ見ても色とりどりの衣裳がどれも美しいですが、こういう紫系が一番好きです。
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