「何だい?
今度の聯隊長は
植木屋のせがれかい?」
兵たちの中には、最初のうち、そんな文句を言う者もいました。
実際、ひとくちに植樹といっても簡単なものではないのです。
そもそもChina大陸は風土が日本よりはるかに厳しい。
樹一本育てるだけでも、各大隊ごとに営庭などに挿し木の畑を作り、朝晩、水をやって育てなきゃならないし、植樹したあとも、樹が根付くまで毎日世話をやかなきゃなりません。
土地によっては、植えるところの地質の改善も必要です。
そのためには大きな土木作業が伴います。
樹一本一本に、たいへんな労力がかかるのです。
しかもそこは戦場です。
いつ敵弾が飛んでくるかもわからない。
それでも吉松聯隊長の信念はゆるぎません。
兵たちからしたら、何も危険を冒してまでと思うし、だから最初は不承不承だったかもしれないけれど、命令は実行されました。
ある朝、明るい陽ざしのなかに小さな若葉が苗木からふきました。
そのとき、兵たちの間から、だれからともなく万歳の声があがりました。
みんな笑顔でした。
こうなるとみんなの気持ちに弾みがつきます。
第三聯隊は、サラチ郊外の駅近くで早々に50万本植樹を達成しました。
第一大隊ではこれを記念して、そこに「興亜植樹の森記念の石碑」を建てました。
モンゴルに近い包頭(ほうとう)市では、現地のChineseのために、聯隊で興亜植樹公園を築きました。
そこでは内地の桜と、ポプラの苗木を1万本も植えました。
小さな富士山も作りました。
池もめぐらしました。
そこでは現地の人たちも釣も楽しめるようにしました。
さらに子供たちのために小さな動物園も作ってあげました。
第三聯隊では、植樹を意義づけようと「興亜植樹の歌」が作られました。
吉松聯隊長はたいそう喜んで、これを聯隊歌にしました。
みんなで軍歌と共に歌いました。
聯隊の団結と東亜平和への願いをこの歌に託しました。
♪雪に嵐に打ち勝ちて
四方にひろがる深緑
西風いかにすさぶとも
われに平和の木陰あり
木々の緑は、ともすれば乾いた黄土のなかに埋もれてしまいそうになる将兵たちの心や、地域の住民たちの心に、新鮮でやわらかい心を呼び覚ましました。
敵軍との小ぜりあいは毎日続いていました。
けれど、砂漠の乾燥した風景が、いつの間にか緑豊かな大地に変わって行きましt.あ
そこには人々の確かな感動がありました。
戦闘は連日続きました。
第三聯隊は連戦連勝でした。
その聯隊が通りすぎた後には、必ず木が植えられました。
その木々が花を咲かせ、木陰をつくりました。
吉松大佐の聯隊は、戦闘を休む日はあっても、植樹を休んだことは、一日もありませんでした。
昭和19年の春、吉松大佐の第三聯隊は河南作戦に転進しました。
みんなで大きな声で歌うのは、もちろん部隊歌の「興亜植樹の歌」でした。
洛陽での攻略戦は壮絶をきわめました。
多くの戦友の命が失われました。
このとき第四中隊長であった西宮中尉が、
「ああ、安北の灯(あかり)がみえる」
と呟(つぶや)いて息絶えたとの報告がありました。
安北は、包頭地区警備の最前線にある街であり、そこは聯隊がもっとも長く駐屯した砂漠の町でした。
そしてまた隊員たちが、住民らと協力あって緑の街づくりに励んだ町でした。
安北はほどなく緑豊かな町になり、夕暮れ時には、ここが戦場かと思われるほど緑豊かで静かで、街灯の光る街になっていたのです。
西宮中尉は、その安北の灯りが見えると言ってこときれたのです。
西宮中尉の言葉は、全軍に広がりました。
「そうだ。俺たちは、あの安北の緑をChina全土に広げるんだ」
「そうだ、俺たちは、平和な町を建設するために戦っているんだ」
西宮中尉の言葉は、全軍の将兵を元気づけました。
洛陽の攻略戦が終わると、戦闘集団は、その日から植樹の軍団に変わりました。
鉄砲をシャベルに、銃剣を鍬に持ちかえて、「興亜植樹の歌」を合唱しながら、せっせと水をまき、種をまきました。
このことは何よりも兵隊さんたちの心の救いになったそうです。
荒涼とした大地の中で、彼らは懸命に現地の人達の心の泉を、そしてまた自分たちの心の泉を築いたからです。
そんな次第でしたから、連戦連勝の第三聯隊は、昭和20年8月15日がきた時、誰ひとり「降伏」ということを、どうしても信じることができなかったそうです。
戦争が終わったあと、第三聯隊は全員捕虜になりました。
最初のうちは道路の修復工事をさせられていました。
ところが昭和21年2月、China国民党軍は、もと敵将の劉峙(りゅうじ)上将から直接、吉松聯隊長宛の指名で「植樹隊」の編成を命じました。
隊長を中心に隊員たちはこれを聞いて抱き合って喜びました。
みんなの目からは照れるほど、涙があふれました。
道路の修復工事も、もちろんたいへんな仕事です。
けれど植林は、常に傾斜地で行いますので、実は足腰にかかる負担が、道路づくりよりもたいへんなのです。
一層たいへんな仕事を命ぜられて、みんな大喜びしたのは、それがChinaの人々の心に、緑によるなごみを取り戻せると信じたからです。
植樹がはじまりました。
戦火で荒れた大地に小さな緑が芽吹きました。
道路工夫から植木屋に変わった彼らは、敗残の日本軍を代表するつもりで植樹をつづけました。
まもなく感謝状が吉松聯隊長に届けられました。
終戦で戦犯になった元将校の多い中で、敵将から「感謝状」をもらったのは、おそらく第三聯隊の吉松喜三大佐ただひとりであろうかと思います。
この感謝状を届けてきたChinaの将校は、次のように言いました。
「実は、勲章を贈る話も出たのです。
ほとんど決まりかけていたのですが、
日中国交の回復していないのに
勲章は考えものだということになって、
残念ながらとりやめになったのです。」
この話が部下に伝わったとき、部隊のみんなが言ったそうです。
「いらねえよ。
金ピカの勲章なんかいらねえよ。
隊長さんの勲章はこれだよ。
この可愛らしくさ、
ちょっと芽をだした柳の緑さ。
これ以上の勲章があるもんか。」
不敗の第三聯隊の隊員たちにとって、それがなによりの心の勲章だったのです。
日本に帰国するとき、中共軍は先の「感謝状」の他に、建国の父「孫文の肖像画」と、吉松隊長以下、全員が無事に日本に帰国できるようにと、専用の通行手形まで出してくれました。
おかげで吉松聯隊長とその部下たちは、途中でトラブルに遭うこともなく、全員無事に日本に帰国することができました。
昭和22年の暮れ、吉松喜三氏は日本の土を踏みました。
ようやく日本に帰国した吉松氏を迎えたのは「公職追放」の四文字でした。
苦しい生活が続きました。
この頃の吉松氏は、
「死んだ部下の遺族と連絡を取り、
いつか必ず慰霊祭を行いたい。
そのために生き抜くんだ」
とそれだけを思って日々を耐え忍んだそうです。
そして旧部下の消息把握や、遺族扶助料問題や遺族の調査など、吉松氏は日夜、地道な活動をつづけました。
吉松氏が公職追放を解かれたのは、ようやく昭和30年の春になってのことでした。
やっとのことで念願の慰霊祭を靖国神社で催せたのは、昭和34年のことです。
その日、吉松元聯隊長は、集まった戦友らとともに靖國神社境内の隅に記念の桜の木を二本植えました。
吉松元隊長が最初の鍬を入れました。
境内の固く踏みしめられた土を掘り起こそうとしたとき、突然、吉松氏の心の中に、Chinaの包頭(ほうとう)の街の姿と、宣昌の野戦病院で見た修道女たちの歌声がよみがえったそうです。
そして自分の内部に、何かが萌え出てくるのを感じました。
それは吉松元隊長が長いこと忘れていたものでした。
吉松氏は、はっと気がつきました。
「そうだ、
戦没者をなぐさめるために、
靖国神社の境内にある樹々の実から
苗木を育て、
それを遺族に送ろう」
さっそく吉松氏は神社の庶務課長と相談しました。
とりあえず参道にある銀杏の実でやってみようということになりました。
銀杏は靖国の主木です。
樹齢も二百年を越すほど長く、参道の両脇にたくさん植わっています。
銀杏は天空にそびえる大樹に育ちます。
吉松氏は、神社の好意で、境内の一角の瓦礫の空地を借りました。
さっそく整地して、そこに銀杏の実を植え、苗を育てるのです。
そのために彼は、たったひとりで靖国神社の銀杏の実を拾い集めました。
やってみると、以外にこれがたいへんなことだとわかりました。
なぜかというと、当時の日本はまだ貧しく、神社の銀杏の実を拾って、食べ物のギンナンの実として売る人たちがいたのです。
日中になると、銀杏の実はひとつ残らず持っていかれてしまっていました。
なので吉松氏は、実を拾い集めるために、毎朝中野から午前4時7分発の一番電車で靖國に出かけました。
そしてまだ暗い中を、懐中電灯を頼りに、合計1400個の実を拾い集めました。
当時を振り返って吉松氏は語ります。
「ひとりぼっちで玉砂利を踏んで拾っていると、
ふと、ひとつひとつの実が、
国のために死んだ人たちの
魂が宿っているような
気がしましてね。
この実を育てて大木にしたら、
その木にその人たちの魂が戻ってきて、
宿ってくれるのではないだろうかって。
そう思うと、
もしやこの銀杏の実や苗を、
ふるさとの土地で育ててもらったら、
これこそ遺骨の奉還になるのではないか。
どんなに戦が惨列をきわめても、
部下の遺骨を拾って
遺族にお渡しするのは、
指揮官としての私の義務ではないか。
こんな風に考えてまいりますと、
不意に希望と光明が
どこからともなく湧いてきましてね・・・」
そう語る老隊長の眼には、涙が浮かんでいたそうです。
戦時中、外地で亡くなられた兵隊さんたちの遺骨は、遺族のもとに渡されました。
しかしその遺骨の中味は「英霊」と書いた紙一枚というのがほとんどだったのです。
吉松氏の靖国神社での銀杏の実拾いと苗木の育成は、その日からずっと日課になりました。
くる日もくる日も。
そしてくる年もくる年も。
やがて慰霊植樹は、日本国内から、当時まだ米国領だった沖縄、ベトナムのサイゴン、懐かしの地である中国の安北、包頭付近までひろがり、苗木は大切に保護されて送られていきました。
昭和37年の春、
「沖縄の忠霊塔のそばにまいた銀杏の実が、
十個のうち七個まで芽を出し、
今では15センチ以上に伸びています」
という嬉しい便りが、吉松氏のもとに届けられました。
これと前後して吉松氏のもとに、Chinaの内蒙古安北県の人民委員会から公文書が届きました。
「あなたの植えた木が
6メートルほどに伸び、
並木となって青々と茂っています。
私たちの友好が
幾山河を越え
心と心がつながり、
世界平和が実現されますように。」
吉松氏には、その並木の木々の一本一本に思い出があります。
苗をみんなで育てたときのこと。
接ぎ木したときのこと。
植樹したときのこと。
仲間たちの笑顔。
掛け声。
明るい笑い声。
みんなで歌った「興亜植樹の歌」の歌声。
ひとりひとりの戦友たちの顔が浮かびました。
仲間たちの思いが、いまも生きて、並木となっています。
「君たちに会うときの、
いいみやげ話ができたよ。」
吉松隊長は手紙を握りしめ、
ひとり男泣きに泣いたそうです。
吉松氏のもとには、戦争未亡人からの礼状も届けられました。
「先日、靖国神社で
初めてお会いしましたあなた様より、
いちょうの鉢植えをいただきまして、
まことにありがとうございました。
子供たちと話しましたところ、
長く大切に育てるため「父の木」と命名いたし、
この樹を父と思い、
大切に大切にいたすことといたしました。
これもみな、あなた様の
お導きの賜物でございます。」
吉松氏は言います。
「苦しいことばかりでした。
経済的にまいりかけたこともたびたびあります。
正直いって一銭にもならないのに
・・・そう思って気分的に滅入ってしまいまして
・・・でも、歯を食いしばって、続けてきました。
それでよかった。
銀杏だけだったのが、今は桜やとち、楓、
すっかり園芸家になってしまいました。
最近は神社のご好意で、
一般の人にもお分けできるようにしていただきましたし。
今ですか?
苗木一本につき百円の志をいただいております。
亡くなった方の霊を
お慰めするつもりになっていただいて、
百円だしていただくわけなのです。
こうして昨年は百万円近い金額が集まりました。
その二割を靖国神社にお納めして、
後は人件費、肥料、用意などに使いました。
人件費というのは、私の給料、というか生活費。
ハイ、やっと月に四万円ほどいただく身分になりました。
つい先日のことですがね。
『靖國』、つまり国を平和に安らかにする、
そうするにはどうすればいいか、
そんなこと考えながら、
じっと「靖國」という字を見ていたんです。
そしたら、
思わず笑ってしまいました。
『青を立てる』
これが靖國なんですね。
なんだ、自分のしてきたことでよかったのだ。
笑いながら
久しぶりに涙をこぼしました。」
昭和44年7月14日、志を立ててから30年目の記念日の老隊長の言葉です。
そしてその年は、戦後に慰霊植樹を始めてから満10年を迎える年でもありました。
毎年訪れる8月15日の終戦記念日には、多くの遺族が靖国の境内を埋めます。
その人たちにこの銀杏を、桜の苗を、残らず差し上げる。
そして空になった苗田に、また今年の秋の実をまく。
20年もすれば、それらはの苗は、立派な銀杏の木となって、日本中を平和な緑で飾る。
「私も74歳になりましたからね。
その日まではとても
生きてはいられないですが」
と老隊長は、にっこりと微笑んだそうです。
昭和60年、緑の聯隊長こと吉松喜三元陸軍大佐は90歳で永眠されました。
靖国神社の境内の左側には、いまも参拝記念樹の頒布所があります。
吉松隊長の心は、いまでもずっと息づいています。
※この記事は2010年9月にアップしたものをリニューアルしたものです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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