東大生(なの?マジで?)なのに知らない、解らないとは情けないが、まずはこれから。


有名な東大教養学部長(当時)の式辞。
蓮實重彦センセが総長になられた辺りから、東大が大分変わってきたなぁ、と思っていたのだが、今はまた戻ったようで・・・(苦笑)。
以下引用。

情報が何重にも媒介されていくにつれて、最初の事実からは加速度的に遠ざかっていき、誰もがそれを鵜呑みにしてしまう。そしてその結果、本来作動しなければならないはずの批判精神が、知らず知らずのうちに機能不全に陥ってしまう。ネットの普及につれて、こうした事態が昨今ますます顕著になっているというのが、私の偽らざる実感です。


しかし、こうした悪弊は断ち切らなければなりません。あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること、この健全な批判精神こそが、文系・理系を問わず、「教養学部」という同じ一つの名前の学部を卒業する皆さんに共通して求められる「教養」というものの本質なのだと、私は思います。



ネットにまみれた今日のアホ東大生に捧ぐ。
この言葉を生んだ学府でいったい何を学んでいるのやら・・・。

まぁまたしても「『ヤマカンは自分が絶対正しいと思っている!』と言ってる奴の方が『自分が絶対正しいと思っている!』」法則の発動で、こんなのにはもう慣れっこなのだが、それにしても巷に不足しているのが「疑う」というモチベーション。

今回も「ヤマカンが東大生に喧嘩売りやがってー」とまた主客逆転したのだが、いい加減裏を取ることを覚えてほしい。
裏が取れないなら無闇に信じるな。

情報氾濫社会だからこそ絶対に必要なリテラシーだと思うのだが、東大レベルでもまったく身についてないようだ。
さすがにこの国の将来を案じてしまう。


僕が母校で学んだのは、この「疑う」ということだ。
とんでもないアナーキズムにはさすがにたじろいだが、この精神だけは叩き込まれた。
今回の件も「同じ茶化すなら京大生はもっと上手いだろうなぁ・・・」と思ってしまった。

すべてを疑う。そうなると、もちろん自分をも疑うしかない。
しかし自分の価値観や存在そのものまで疑ってしまったら、自殺以外に道はない。

そこで、人は「自分だけは信じるしかない」と、思い立つ。
これを「実存」と呼ぶ。
「我思う、ゆえに我あり」だ。

だから人は、自分を信じ、自分以外を疑う。
なんだか人間不信のように思えるが、論理的・哲学的に考えたら、これ以外にはあり得ないのだ。
ある意味しかたないとも言える。

僕の言葉が強いのは、「俺だけ絶対正しい!」というのではない。むしろ逆だ。
「これでも納得できた人だけが納得していいよ」という、些か投げやりのような姿勢だ。
僕の方から信じる人をふるいにかけていると言ってもいい。

でなければ、信じた人に対する責任を負えないからだ。
そこまでやらんでも・・・と思われるかも知れないが、やっぱり根っからの哲学脳なので、そうしないと気が済まない。


僕の言ってることはどんどん疑ってもいい。その分僕も自分の言葉に過度の責任は負えない。
ただ、「やられたらやり返す」。これは徹底する。
だから実害を被らない限り、個人攻撃は控えている。
これからも控える。たぶん。


「疑う」ことと「信じる」こととのバランスを取る、それが今を生きる人間すべての喫緊の課題になっている。