2018年07月23日
日蓮の本尊観は支離滅裂
日蓮のしるした曼陀羅本尊には、天照大神や愛染・不動、八幡大菩薩といった法華経とは縁もゆかりもない、いわゆる諸天善神というものがしたためられていることは、多くの人が指摘している。
しかし、擁護派は例によって例のごとく、自己正当化の理論、すなわち「随方毘尼」による日蓮の寛大さを表わすものであるから、何の問題もないと断言している。
本当にそうだろうか?
そもそも、随方毘尼という用語の意味を曲解してはいまいか?
しているのだ。
所詮、創価教学・日蓮正宗の教学などというのは、中世に権威をもったキリスト教徒の幹部が、自己正当化のために協議を恣意的に解釈して、好き勝手したのと変わりはない。
随方毘尼とは、つまり地域による戒律の柔軟性を許すというものだ。
勤行・唱題するにあたって正座は必ずしも厳格でなくてよろしい、そういうものを随方毘尼というのだ。
したがって自己都合により、釈迦が説いたであろう(彼が覚知した本尊は諸行無常・諸法無我という縁起の法なのだから、そもそも文字にすことは不可能である)ところの法に、自己解釈で随方毘尼などという用語を言いわけにして、仏教とは縁もゆかりもない天照大神や愛染・不動、八万大菩薩などをしるすなどということは、異常な行為だということだ。
けれども釈迦だって仏教の思想を教えるために、ヴェーダやウパニシャットを持ちだしているではないか? と。
残念ながら、それには全く違った意味がある。
仏典に残るそうした説教は、これまでになかった「諸行無常・諸法無我」を説明するために、これまでにあったヴェーダやウパニシャットを引用したにすぎないからだ。
だから、釈迦自身は、ヴェーダやウパニシャットに真理を見ていたのではない。例えそれらに真理の一部があったとしても、それらの哲学をつかって彼の感得したことを説明しようとし、「ヴェーダやウパニシャット」をこう解釈するとわかりやすいかもね、という表現をしたにすぎないのだ。
が、後世の弟子たちはそういう釈迦の真意がわからず、仏教の究極の心理はアートマンとブラフマンの合一だと誤解し、歪曲してあとの世代に伝えてしまっただけのことなのだ。
したがって、解釈によってはヴェーダやウパニシャットにも価値があり、真理のすべてではないが、真理の一部ではあるというのが正しいものの見方だといっていだろう。したがって、正しく仏教を理解しようとするなら、ヴェーダやウパニシャットを全肯定も全否定もしようがないということになるのだ。
そもそも、未曾有の法を説くにあたって、これまでに説かれた既存のものを利用せずしてどうやって説けというのだ? 不可能だ。
まあ、神話、宗教、哲学の歴史を眺めてみれば、思想の発展には、必ず先達の残した典拠を利用しつつ新しい境地に辿りついていったことなど、明瞭に読みとれるのものだ。
ギリシャ哲学でいえば、ソクラテスはそれ以前の哲学者が残したものを典拠に自己の論理を刷新したのだし、プラトンもまたそうだし、アリストテレスの場合、それまでに思索されたギリシャ哲学を総まとめできる時代に生れあわせ、かつまた彼自身そういう契機を逃すことなくしかと掴まえたからこそ、彼の名声は現在にさえ轟いるわけだ。
ともあれ、本尊に自己解釈で日本でしか通用しない神をしるすなど、仏法の道理にもとるということだ。
ちなみに、八幡菩薩というのは、いわば戦の守り神であり、武家・武士が戦におもむくにあたって守護を願った神だ。
竜の口の頸の座に向かった日蓮が、鶴岡八幡に立ち寄り、諸天善神を叱咤したとあるが、あの鶴岡八幡は源氏の守護神であり、これもまた戦場に赴くときに守護を願った神だ。というか、もっとはっきりいえば鶴岡八幡というのは、鎌倉幕府とそれを支える武家の守護神、戦の神だというこだ。
つまり日蓮はこれから鎌倉幕府という権力によって処刑されそうなときに、その鎌倉幕府を守護する神に願掛けをしたということだ。ふつうに考えれば、相当に支離滅裂だ。
宗学的に考えれば、幕府に仕える人々の心中に善心を薫発させるために祈ったのだともいえるが、世界各国にある事例を見ても、これから処刑される者が、処刑する側が崇めている神に祈りを捧げるなどという奇異な行為は滅多に見られない。
穿った見方をするなら、斬首を逃れたくて、パフォーマンスとして幕府守護の八幡に祈願する姿を見せて、お慈悲を請うたともいえるわけだ。
少なくとも、こうした日蓮の態度は、「溺れる者は藁をも掴む」とそう変わり映えしないといっていいだろう。
窮地に陥ったときに人がふつうに思う、「神も仏もあるもんか!」 といった心境の現れとしか理解しえないだろう。そもれまた人間的でよろしいではないか! と似非人間主義の方は思考するのかもしれないが。
江戸時代、多くのキリシタンが踏み絵を強制されたからといって、当時の江戸幕府、あるいは各藩の大名が崇めている神に願をかけるなどしたものだろうか? 信仰とはそういうものだろうか?
熱原の法難では、強情な信徒が決して日蓮のいう信仰を捨てなかったがために斬首されたわけだが、その教祖であるところの日蓮は、頸の座に向かうにあたって、処刑する側の神に願をかけているという異様さを一体どう理解すればいいのだ?
創価の牧口がこうしたことをどう解釈したかは知らないが、少なくとも国柱会の田中智學や満州事変の首謀者・石原莞爾などは、日蓮の曼陀羅に、当時の政治権力であった武家の守護神であり戦の神の名があることから、日蓮の思想は武力によって為すことは正当であると考えただろうことは、容易に推察できる。
ともあれ、このような曼陀羅を随方毘尼などという理由づけで正当化しているのだから、恐ろしいというものだ。
日蓮ならびに彼の遵奉者がやたらに攻撃的な理由のひとつには、戦の守護神が書かれている本尊にしがみつくように祈っているからといえるかもしれない。
まあ、キツネを祈ったからといってキツネに感応して云々というのは迷信なので、戦いの神を祈ったからといって必ずしも攻撃的になるわけでないが。
ヒンドゥーの神にはシヴァという破壊と再生の神がいるのだから、仏教にだって戦の神がいたっていいじゃないか?
馬鹿を言いなさるな!! 仏教はあらゆるものに自性がない(諸行無常であり諸法無我だ)と説いているんだから、破壊とその対極にある再生という相対的な形としてあらわれる現象といったものは、あくまでも法のあらわれであって規定できない。だからどんな屁理屈をこねたところで、その働きの名前を本尊に中途半端に書きあわらすことは、書いた人間の自己都合や恣意性があるということだ。
釈迦が「車」なんてどこにあるんですか? といって王様を驚かせた説話を思い出してみるがい。
車というのは単なる概念だ。車というものは個体として存在などしない。エンジン、ギア、ミッション、車輪、車軸、座席、外板、そうした車を形作るものすべてを指して、車と呼んでるだけに過ぎない。
破壊と再生も同じだ。この世界のどこが破壊され、どこが再生されたってわかるんだ? 破壊とか再生という概念は、縁起によって起こっているあらゆる諸行無常(あらゆる場で繰り返し起こっている生滅の繰り返し)の一部だけを指して、そう呼んでるだけじゃないか。
より正確にいえば、生滅を繰り返しているのではなく、生起だけを繰り返してるのだろう。DNAが自己複写を繰り返すのと似たようなものだ。ただし、コピーを何度も繰り返せばときどき失敗もするし、しだいに複製の精度が落ちてくるだけのことだろう。そういうことで病気になり、やがて肉体が結合を維持できなくなり、いわゆる死を迎えざるを得ないだけのことだ。したがって、生滅ではなく、生起だけを繰り返しているのだから、法には永遠性があるし、法のあらわれもまた、形態は違えども永遠性をもっているといえるだろう。
だから、真理の存在論から思考すれば、破壊や再生などこの世界にはそもそも存在しないいのだ。
そういうありもしない破壊だ再生だなどを戦いの神だとか守護の神だとかいって崇めることが迷妄でなくて何だというのだ?
仏教はそんな迷妄にまみれた哲学ではない。
いいや、仏法は原因と結果の理法だとか言うのだろう。馬鹿らしい。
原因→結果→原因→結果→…………。
ふつうに思い描く因果論とはこういうものだろう。けれども、上の繰り返しをよく見てみるがいい。
原因はつぎの結果を生む原因になっていることに気づくだろう。だからこそ刹那に因果具時だと説かれてるではないかというのだろう。
では、その時間を極小まで短くして原因→結果→原因→結果→…………というのを見てみたらどうなるかな?
ある刹那に原因があわれ、次のある刹那に結果があらわれる。ほうら見たことか、ある刹那に原因と結果が同時になど備わっていないと証明してしまったではないか。つまり、原因と結果とは同じものだと考えざるを得なくなるということだ。
そうなると、その原因=結果を「縁」と考えて、それぞれの刹那にはただ縁に拠って生起されていることがわかることだろう。
それゆえに、わたしは法とは「生滅ではなく、生起だけを繰り返している」といったのである。
だから、釈迦もそういってるでしょ。生滅から脱却したのが解脱の境地だと。そういうことだ。
何もこれはわたしが勝手にいってるわけでもない。刹那刹那で因果を考えてみた先達が、「時間論的に思考すると因果は通用しなくなる」ときちんと論拠しているだけのことだ。わたしはそれを学んだだけのこと。
そしてこういうことがわかり、それを確信できれば、法のあらわれである肉体の喪失、つまり死など恐れるに足らんと思えるわけだ。病気も同じだ。コピーミスを防ぐ手立てはないのだから、受けいれればいいとわかるからだ。もちろん、コピーミスが減ったり正されるような状態を目指して医学にあやかったり健康管理をしていくことを否定するつもりはない。
で、こういうことが信じられると、死後のこともより明瞭に考えられるわけだ。
解脱しようが成仏しようが、死後に梵天とか天国という場所に、想像もできないような長いあいだいられるわけじゃないだろうことが推察されるわけだ。ただただ縁によって生起されるというなら、いつどこでどんな形態をして生命体・個体として生まれ変わるかは、神のみぞ知るともいえてくるわけだ。そして、そのように生まれ変わった場合、もちろん過去の記憶だとか業なんてものは一切なく、例え今世で血を流すように哲学を学んで真理を知り、人間として理想的な生き方をできるようになって死を迎えたとしても、生まれ変わったなら、そうしたことは全て忘れており、また一から血を流し、骨を折り、皮膚を焼きながら哲学し、理想の生き方を追い求めざるを得ないことも見えてくるわけだ。
するってーとあれかい? ニーチェ先生が『ツラトゥストラはかく語りき』でいったように「これが人生か。さらばもう一度!」というはじめからやりなおす覚悟をもって死を迎えるのが最も崇高な生き方ではないのかと思えてくるのだ。
そんな風に「さらばもう一度!」となるなら、犬とか猫のほうがいいなとか思うんだけどね。まあ、木でもミミズでも岩でもヒトでも何でもござれ! と思えるようになるしかないのだろうが。
というか、自分からして他人というのは、「もしかしたらそうなっていたかもしれない自分の可能性」なわけだ。
であるなら、それをヒトだけに限定するのはおかしな話なわけだ。したがって、われわれの目に映る森羅万象は、自分から見て「もしかしたらそうたっていたかもしれない存在」だといえるわけだ。だからヘッセなどは『シッダールタ』のなかでそういう風な解釈を述べている。
そしてそういうことが信じられば、環境保全であるとか、生物多様性を尊重すべき理由も見えてくるわけだ。
今、自分の目に映る犬は、もしかしたらそうなっていたかもしれない自分の可能性だとしたら、そういう犬を殺処分する気になるのかい? わたしはならない。自分の目に映ったトラ。そういう彼らを絶滅させるような生き方もしたくない。そうやって自分の目に映った生物・無生物が、今そうなっていたかもしれない可能性であるとしたら、未来においてもその理論は成り立つんじゃあないのかい?
であるなら、環境や生き物を傷つけたり殺したり、あるいは絶滅させるということは、未来に自分がなりえる可能性の幅を自ら狭め、破壊してることにならないのかい?
だからどんな悪人であろうと、それはそうなっていた自分の可能性であると見たなら、無慈悲なことなどふつうは出来ないのだ。敵だとか極悪だとか撲滅すべし! だとかいえるわけがないのだ。
他人が憎いからといって、その人を虐げたりすることなど、出来なくなるはずなのだ。批判や非難などする気もおきなくなるはずなのだ。現実にそれを実践するのは難しいが。
この石は石である。動物でもあり、神でもあり、仏陀でもある。私がこれをたっとび愛するのは、これがいつかあれやこれやになりうるだろうからではなく、ずっと前からそして常にいっさいであるからだ。(中略)
私はこれを愛し、その条紋やくぼみのすべての中に、黄色の中に、灰色の中に、硬さの中に、価値と意味を見る。(中略)どれもが梵である。(中略)
そのことこそ、私の意にかない、讃嘆すべく、礼拝に値するように思われる。だが、これ以上それについてことばを費やすのはやめよう。ことばは内にひそんでいる意味をそこなうものだ。
物が幻影であるとかないとか言うなら、私も幻影だ。(中略)物は私の同類だということ。それこそ、物を私にとって愛すべく、とうとぶべきものにする。だから私は物を愛することができる。(中略)
世界を透察し、説明し、けいべつすることは、偉大な思想家のすることであろう。
だが、私のひたすら念ずるのは、世界を愛しうること、世界をけいべつしないこと、世界と自分を憎まぬこと、世界と自分と万物を愛と讃嘆と畏敬をもってながめうることである。
ヘッセ『シッダールタ』
ハイデガーもいいかたは違うが、仏陀やヘッセと全くおなじようなことをいっている。
現存在は、それが存在しているかぎり、どんなときでも、可能性の方から自分を理解する。この理解は投げかけ的性格を持つが、理解がそこへむけて投げかけること、つまりさまざまな可能性自体が内容的に主題になるのではない。……理解が投げかけであるとき、それは、自分の可能性を可能性として存在しているような現存在のありかたなのだ。
『存在と時間』
わかりにくい言い回しだが、自分から見える可能性とは、現存在そのものつまり自分自身でありなおかつ世界そのものだといっているのだ。
ヘッセのいった「これがいつかあれやこれやになりうるだろうからではなく、ずっと前からそして常にいっさいであるからだ」というのと同じ意味だ。
こうなると、20世紀にも仏陀は結構な数、いたのかもしれないと思えてくるはずだ。
そんな訳で最近、超訳ではあるが、『ニーチェの言葉』なんてのを購入したりしたわけだ。
まあ、未だに宿業だとかいってる狂信者には縁もゆかりもない話だ。
というか、業なんてものは脳に記憶されたデータだから、死ねばなくなるだけのことだと知れば、宿業だ罰だ云々なんてものはお笑い草にすぎんのだ。エックハルトの言葉でいうならば、業とはペイン・ボディのことだからだ。似非仏教でいう業なんてものは、自分が何度も繰り返し思考したり行為した結果、脳に蓄積された習慣であり、何度も味わってきた状況に出会うと、湧きあがりやすい思考や情動にすぎないのだから。
して、そういう習慣を正し、湧きあがりやすい思考や情動を制御するのが仏教のおしえなのだから。
相当脱線したが、法に話題をもどそう。
いやだから諸法実相だろとか言うんだろ。馬鹿を言いなさるな。そりゃね、法とは、法のあらわれとそのあらわれの根源の双方をまとめて法というのだが、法のあらわれは諸行無常なんだから、文字にできないんだってば。そういうあらわれを日蓮は自己都合で、これは書いておいて、あれは書かないとかやってるわけ。そんなことするんだったら、法の根源である彼がいうところの「妙法蓮華経」という題字だけでいいだろってことだ。あとはまあ、多宝という記名で、諸行無常という法のあらわれには限りがないと示せばそれで済むわけだ。もちろん、四菩薩はあってもいいと思うが。それが慈悲喜捨を示すのであるならば。
しかし日蓮はそうしなかった。法の根源からあらわれる一部の方便(例えば、天照大神や愛染・不動、八幡大菩薩)を崇めて祈りの対象としてしまっているわけだ。結果、そうした方便であるところの、法のあらわれの一部であり、書き手の恣意性に満ちた本尊を崇拝することになり、それが偶像崇拝になっているのではないのかい?
ともあれ創価の安保法制への翼賛しかり、政治癒着しかり。
そういう思想が生まれてくる源泉には、日蓮の武力肯定思想があるかもしれないことを知っておくことも無意味ではないだろう。
日蓮の行動と彼のしたためた本尊の相貌云々を調べれば調べるほど、日蓮の支離滅裂さ、攻撃的であり、武力を肯定し、民衆仏法などと決して呼べず、平和主義でも何でもないことが見えてくるのだ。
もはや、わたしなど、勤行・唱題もしてませんけどね。
曼陀羅も必要ないと月々日々に思うようになっているくらいだ。
しかし、擁護派は例によって例のごとく、自己正当化の理論、すなわち「随方毘尼」による日蓮の寛大さを表わすものであるから、何の問題もないと断言している。
本当にそうだろうか?
そもそも、随方毘尼という用語の意味を曲解してはいまいか?
しているのだ。
所詮、創価教学・日蓮正宗の教学などというのは、中世に権威をもったキリスト教徒の幹部が、自己正当化のために協議を恣意的に解釈して、好き勝手したのと変わりはない。
随方毘尼とは、つまり地域による戒律の柔軟性を許すというものだ。
勤行・唱題するにあたって正座は必ずしも厳格でなくてよろしい、そういうものを随方毘尼というのだ。
したがって自己都合により、釈迦が説いたであろう(彼が覚知した本尊は諸行無常・諸法無我という縁起の法なのだから、そもそも文字にすことは不可能である)ところの法に、自己解釈で随方毘尼などという用語を言いわけにして、仏教とは縁もゆかりもない天照大神や愛染・不動、八万大菩薩などをしるすなどということは、異常な行為だということだ。
けれども釈迦だって仏教の思想を教えるために、ヴェーダやウパニシャットを持ちだしているではないか? と。
残念ながら、それには全く違った意味がある。
仏典に残るそうした説教は、これまでになかった「諸行無常・諸法無我」を説明するために、これまでにあったヴェーダやウパニシャットを引用したにすぎないからだ。
だから、釈迦自身は、ヴェーダやウパニシャットに真理を見ていたのではない。例えそれらに真理の一部があったとしても、それらの哲学をつかって彼の感得したことを説明しようとし、「ヴェーダやウパニシャット」をこう解釈するとわかりやすいかもね、という表現をしたにすぎないのだ。
が、後世の弟子たちはそういう釈迦の真意がわからず、仏教の究極の心理はアートマンとブラフマンの合一だと誤解し、歪曲してあとの世代に伝えてしまっただけのことなのだ。
したがって、解釈によってはヴェーダやウパニシャットにも価値があり、真理のすべてではないが、真理の一部ではあるというのが正しいものの見方だといっていだろう。したがって、正しく仏教を理解しようとするなら、ヴェーダやウパニシャットを全肯定も全否定もしようがないということになるのだ。
そもそも、未曾有の法を説くにあたって、これまでに説かれた既存のものを利用せずしてどうやって説けというのだ? 不可能だ。
まあ、神話、宗教、哲学の歴史を眺めてみれば、思想の発展には、必ず先達の残した典拠を利用しつつ新しい境地に辿りついていったことなど、明瞭に読みとれるのものだ。
ギリシャ哲学でいえば、ソクラテスはそれ以前の哲学者が残したものを典拠に自己の論理を刷新したのだし、プラトンもまたそうだし、アリストテレスの場合、それまでに思索されたギリシャ哲学を総まとめできる時代に生れあわせ、かつまた彼自身そういう契機を逃すことなくしかと掴まえたからこそ、彼の名声は現在にさえ轟いるわけだ。
ともあれ、本尊に自己解釈で日本でしか通用しない神をしるすなど、仏法の道理にもとるということだ。
ちなみに、八幡菩薩というのは、いわば戦の守り神であり、武家・武士が戦におもむくにあたって守護を願った神だ。
竜の口の頸の座に向かった日蓮が、鶴岡八幡に立ち寄り、諸天善神を叱咤したとあるが、あの鶴岡八幡は源氏の守護神であり、これもまた戦場に赴くときに守護を願った神だ。というか、もっとはっきりいえば鶴岡八幡というのは、鎌倉幕府とそれを支える武家の守護神、戦の神だというこだ。
つまり日蓮はこれから鎌倉幕府という権力によって処刑されそうなときに、その鎌倉幕府を守護する神に願掛けをしたということだ。ふつうに考えれば、相当に支離滅裂だ。
宗学的に考えれば、幕府に仕える人々の心中に善心を薫発させるために祈ったのだともいえるが、世界各国にある事例を見ても、これから処刑される者が、処刑する側が崇めている神に祈りを捧げるなどという奇異な行為は滅多に見られない。
穿った見方をするなら、斬首を逃れたくて、パフォーマンスとして幕府守護の八幡に祈願する姿を見せて、お慈悲を請うたともいえるわけだ。
少なくとも、こうした日蓮の態度は、「溺れる者は藁をも掴む」とそう変わり映えしないといっていいだろう。
窮地に陥ったときに人がふつうに思う、「神も仏もあるもんか!」 といった心境の現れとしか理解しえないだろう。そもれまた人間的でよろしいではないか! と似非人間主義の方は思考するのかもしれないが。
江戸時代、多くのキリシタンが踏み絵を強制されたからといって、当時の江戸幕府、あるいは各藩の大名が崇めている神に願をかけるなどしたものだろうか? 信仰とはそういうものだろうか?
熱原の法難では、強情な信徒が決して日蓮のいう信仰を捨てなかったがために斬首されたわけだが、その教祖であるところの日蓮は、頸の座に向かうにあたって、処刑する側の神に願をかけているという異様さを一体どう理解すればいいのだ?
創価の牧口がこうしたことをどう解釈したかは知らないが、少なくとも国柱会の田中智學や満州事変の首謀者・石原莞爾などは、日蓮の曼陀羅に、当時の政治権力であった武家の守護神であり戦の神の名があることから、日蓮の思想は武力によって為すことは正当であると考えただろうことは、容易に推察できる。
ともあれ、このような曼陀羅を随方毘尼などという理由づけで正当化しているのだから、恐ろしいというものだ。
日蓮ならびに彼の遵奉者がやたらに攻撃的な理由のひとつには、戦の守護神が書かれている本尊にしがみつくように祈っているからといえるかもしれない。
まあ、キツネを祈ったからといってキツネに感応して云々というのは迷信なので、戦いの神を祈ったからといって必ずしも攻撃的になるわけでないが。
ヒンドゥーの神にはシヴァという破壊と再生の神がいるのだから、仏教にだって戦の神がいたっていいじゃないか?
馬鹿を言いなさるな!! 仏教はあらゆるものに自性がない(諸行無常であり諸法無我だ)と説いているんだから、破壊とその対極にある再生という相対的な形としてあらわれる現象といったものは、あくまでも法のあらわれであって規定できない。だからどんな屁理屈をこねたところで、その働きの名前を本尊に中途半端に書きあわらすことは、書いた人間の自己都合や恣意性があるということだ。
釈迦が「車」なんてどこにあるんですか? といって王様を驚かせた説話を思い出してみるがい。
車というのは単なる概念だ。車というものは個体として存在などしない。エンジン、ギア、ミッション、車輪、車軸、座席、外板、そうした車を形作るものすべてを指して、車と呼んでるだけに過ぎない。
破壊と再生も同じだ。この世界のどこが破壊され、どこが再生されたってわかるんだ? 破壊とか再生という概念は、縁起によって起こっているあらゆる諸行無常(あらゆる場で繰り返し起こっている生滅の繰り返し)の一部だけを指して、そう呼んでるだけじゃないか。
より正確にいえば、生滅を繰り返しているのではなく、生起だけを繰り返してるのだろう。DNAが自己複写を繰り返すのと似たようなものだ。ただし、コピーを何度も繰り返せばときどき失敗もするし、しだいに複製の精度が落ちてくるだけのことだろう。そういうことで病気になり、やがて肉体が結合を維持できなくなり、いわゆる死を迎えざるを得ないだけのことだ。したがって、生滅ではなく、生起だけを繰り返しているのだから、法には永遠性があるし、法のあらわれもまた、形態は違えども永遠性をもっているといえるだろう。
だから、真理の存在論から思考すれば、破壊や再生などこの世界にはそもそも存在しないいのだ。
そういうありもしない破壊だ再生だなどを戦いの神だとか守護の神だとかいって崇めることが迷妄でなくて何だというのだ?
仏教はそんな迷妄にまみれた哲学ではない。
いいや、仏法は原因と結果の理法だとか言うのだろう。馬鹿らしい。
原因→結果→原因→結果→…………。
ふつうに思い描く因果論とはこういうものだろう。けれども、上の繰り返しをよく見てみるがいい。
原因はつぎの結果を生む原因になっていることに気づくだろう。だからこそ刹那に因果具時だと説かれてるではないかというのだろう。
では、その時間を極小まで短くして原因→結果→原因→結果→…………というのを見てみたらどうなるかな?
ある刹那に原因があわれ、次のある刹那に結果があらわれる。ほうら見たことか、ある刹那に原因と結果が同時になど備わっていないと証明してしまったではないか。つまり、原因と結果とは同じものだと考えざるを得なくなるということだ。
そうなると、その原因=結果を「縁」と考えて、それぞれの刹那にはただ縁に拠って生起されていることがわかることだろう。
それゆえに、わたしは法とは「生滅ではなく、生起だけを繰り返している」といったのである。
だから、釈迦もそういってるでしょ。生滅から脱却したのが解脱の境地だと。そういうことだ。
何もこれはわたしが勝手にいってるわけでもない。刹那刹那で因果を考えてみた先達が、「時間論的に思考すると因果は通用しなくなる」ときちんと論拠しているだけのことだ。わたしはそれを学んだだけのこと。
そしてこういうことがわかり、それを確信できれば、法のあらわれである肉体の喪失、つまり死など恐れるに足らんと思えるわけだ。病気も同じだ。コピーミスを防ぐ手立てはないのだから、受けいれればいいとわかるからだ。もちろん、コピーミスが減ったり正されるような状態を目指して医学にあやかったり健康管理をしていくことを否定するつもりはない。
で、こういうことが信じられると、死後のこともより明瞭に考えられるわけだ。
解脱しようが成仏しようが、死後に梵天とか天国という場所に、想像もできないような長いあいだいられるわけじゃないだろうことが推察されるわけだ。ただただ縁によって生起されるというなら、いつどこでどんな形態をして生命体・個体として生まれ変わるかは、神のみぞ知るともいえてくるわけだ。そして、そのように生まれ変わった場合、もちろん過去の記憶だとか業なんてものは一切なく、例え今世で血を流すように哲学を学んで真理を知り、人間として理想的な生き方をできるようになって死を迎えたとしても、生まれ変わったなら、そうしたことは全て忘れており、また一から血を流し、骨を折り、皮膚を焼きながら哲学し、理想の生き方を追い求めざるを得ないことも見えてくるわけだ。
するってーとあれかい? ニーチェ先生が『ツラトゥストラはかく語りき』でいったように「これが人生か。さらばもう一度!」というはじめからやりなおす覚悟をもって死を迎えるのが最も崇高な生き方ではないのかと思えてくるのだ。
そんな風に「さらばもう一度!」となるなら、犬とか猫のほうがいいなとか思うんだけどね。まあ、木でもミミズでも岩でもヒトでも何でもござれ! と思えるようになるしかないのだろうが。
というか、自分からして他人というのは、「もしかしたらそうなっていたかもしれない自分の可能性」なわけだ。
であるなら、それをヒトだけに限定するのはおかしな話なわけだ。したがって、われわれの目に映る森羅万象は、自分から見て「もしかしたらそうたっていたかもしれない存在」だといえるわけだ。だからヘッセなどは『シッダールタ』のなかでそういう風な解釈を述べている。
そしてそういうことが信じられば、環境保全であるとか、生物多様性を尊重すべき理由も見えてくるわけだ。
今、自分の目に映る犬は、もしかしたらそうなっていたかもしれない自分の可能性だとしたら、そういう犬を殺処分する気になるのかい? わたしはならない。自分の目に映ったトラ。そういう彼らを絶滅させるような生き方もしたくない。そうやって自分の目に映った生物・無生物が、今そうなっていたかもしれない可能性であるとしたら、未来においてもその理論は成り立つんじゃあないのかい?
であるなら、環境や生き物を傷つけたり殺したり、あるいは絶滅させるということは、未来に自分がなりえる可能性の幅を自ら狭め、破壊してることにならないのかい?
だからどんな悪人であろうと、それはそうなっていた自分の可能性であると見たなら、無慈悲なことなどふつうは出来ないのだ。敵だとか極悪だとか撲滅すべし! だとかいえるわけがないのだ。
他人が憎いからといって、その人を虐げたりすることなど、出来なくなるはずなのだ。批判や非難などする気もおきなくなるはずなのだ。現実にそれを実践するのは難しいが。
この石は石である。動物でもあり、神でもあり、仏陀でもある。私がこれをたっとび愛するのは、これがいつかあれやこれやになりうるだろうからではなく、ずっと前からそして常にいっさいであるからだ。(中略)
私はこれを愛し、その条紋やくぼみのすべての中に、黄色の中に、灰色の中に、硬さの中に、価値と意味を見る。(中略)どれもが梵である。(中略)
そのことこそ、私の意にかない、讃嘆すべく、礼拝に値するように思われる。だが、これ以上それについてことばを費やすのはやめよう。ことばは内にひそんでいる意味をそこなうものだ。
物が幻影であるとかないとか言うなら、私も幻影だ。(中略)物は私の同類だということ。それこそ、物を私にとって愛すべく、とうとぶべきものにする。だから私は物を愛することができる。(中略)
世界を透察し、説明し、けいべつすることは、偉大な思想家のすることであろう。
だが、私のひたすら念ずるのは、世界を愛しうること、世界をけいべつしないこと、世界と自分を憎まぬこと、世界と自分と万物を愛と讃嘆と畏敬をもってながめうることである。
ヘッセ『シッダールタ』
ハイデガーもいいかたは違うが、仏陀やヘッセと全くおなじようなことをいっている。
現存在は、それが存在しているかぎり、どんなときでも、可能性の方から自分を理解する。この理解は投げかけ的性格を持つが、理解がそこへむけて投げかけること、つまりさまざまな可能性自体が内容的に主題になるのではない。……理解が投げかけであるとき、それは、自分の可能性を可能性として存在しているような現存在のありかたなのだ。
『存在と時間』
わかりにくい言い回しだが、自分から見える可能性とは、現存在そのものつまり自分自身でありなおかつ世界そのものだといっているのだ。
ヘッセのいった「これがいつかあれやこれやになりうるだろうからではなく、ずっと前からそして常にいっさいであるからだ」というのと同じ意味だ。
こうなると、20世紀にも仏陀は結構な数、いたのかもしれないと思えてくるはずだ。
そんな訳で最近、超訳ではあるが、『ニーチェの言葉』なんてのを購入したりしたわけだ。
まあ、未だに宿業だとかいってる狂信者には縁もゆかりもない話だ。
というか、業なんてものは脳に記憶されたデータだから、死ねばなくなるだけのことだと知れば、宿業だ罰だ云々なんてものはお笑い草にすぎんのだ。エックハルトの言葉でいうならば、業とはペイン・ボディのことだからだ。似非仏教でいう業なんてものは、自分が何度も繰り返し思考したり行為した結果、脳に蓄積された習慣であり、何度も味わってきた状況に出会うと、湧きあがりやすい思考や情動にすぎないのだから。
して、そういう習慣を正し、湧きあがりやすい思考や情動を制御するのが仏教のおしえなのだから。
相当脱線したが、法に話題をもどそう。
いやだから諸法実相だろとか言うんだろ。馬鹿を言いなさるな。そりゃね、法とは、法のあらわれとそのあらわれの根源の双方をまとめて法というのだが、法のあらわれは諸行無常なんだから、文字にできないんだってば。そういうあらわれを日蓮は自己都合で、これは書いておいて、あれは書かないとかやってるわけ。そんなことするんだったら、法の根源である彼がいうところの「妙法蓮華経」という題字だけでいいだろってことだ。あとはまあ、多宝という記名で、諸行無常という法のあらわれには限りがないと示せばそれで済むわけだ。もちろん、四菩薩はあってもいいと思うが。それが慈悲喜捨を示すのであるならば。
しかし日蓮はそうしなかった。法の根源からあらわれる一部の方便(例えば、天照大神や愛染・不動、八幡大菩薩)を崇めて祈りの対象としてしまっているわけだ。結果、そうした方便であるところの、法のあらわれの一部であり、書き手の恣意性に満ちた本尊を崇拝することになり、それが偶像崇拝になっているのではないのかい?
ともあれ創価の安保法制への翼賛しかり、政治癒着しかり。
そういう思想が生まれてくる源泉には、日蓮の武力肯定思想があるかもしれないことを知っておくことも無意味ではないだろう。
日蓮の行動と彼のしたためた本尊の相貌云々を調べれば調べるほど、日蓮の支離滅裂さ、攻撃的であり、武力を肯定し、民衆仏法などと決して呼べず、平和主義でも何でもないことが見えてくるのだ。
もはや、わたしなど、勤行・唱題もしてませんけどね。
曼陀羅も必要ないと月々日々に思うようになっているくらいだ。