ブラインドタッチと、いいキーボードと、発表する場所。
それが揃えば文章を書くこと自体がストレス解消になるので、
140字以上打ちてえええええという欲求がせり上がってくる。
インドやブラジルの人が自然と体が踊り出す(偏見)のと同じで、表現と一体化するのはそれ自体が人間の本能なのではないか。鳥がぴいぴいと歌い、クジャクがうりゃっと羽を広げるように。
そんなわけで、サヴァスロと関係ないことも書けるブログ2を解説してみた。
あまり更新する気はない。
どうしても書きたくなったときだけ書く。
今回、友人のすすめで「ゲンロン8」という雑誌を読んでみた。
ゲームについて深い議論がなされているからよろしければ読んでみて~と。
この第一回ブログは、それについての感想……の前置きになる。
ゲンロン8の内容自体についての感想は次回に書きます。
それを期待する人は、読まないでいいやつです。
まずはじめに、ゲンロン8を買いに行ったら、本屋二つで置いていなかった。
繁華街にある大きな本屋に行って、検索マシンで検索をかければ、専門書フロアの「思想・哲学」の棚にあるという。
(ひええ……わし、そういう属性ないけど大丈夫かなあ……)
かなりびびった。
謙遜でもなんでもなく、正直、哲学とか批評の文化とは「積極的に距離を取ってきた」。嘘つくな、いつも批判精神のキッズ、勝手に悩んでるキッズしてるだろと思われるかも知れないが、ちょうどいいから誤解を解いておきたい。
私にとって批評は「自分の創作に生かすために有効だからやる」だけだし、哲学めいた思考は「勝手に生まれてくるぶんは取り入れている」だけなのだ。
批評それ自体を自分の属性に取り入れたいとは全く思っていないし、哲学を学ぶようなことは絶対にしたくないと思っている。
批評や哲学を専門的に学んで、言葉を弄して「人間以上の人間」みたいにならんとすることにもの凄い忌避感があるのだ。
形而上の学問にも素晴らしいものは多々あるのだろうが、私は努めて意識的に「形而下だけの人間であらん」と、そういう思想や体系的な哲学から逃げまくってきたのだ。
大学の頃は、サークルの部室に文学部(哲学科や美術史科)の先輩たちがいる日は(かーっ、めんどくせえ人たちがいるぜ)とそそくさと退散していた。あの人たちの現実に働きかけない高尚な議論は、地べたをフルで這いずり回って、納品日を睨みながら作品を作っていた私を大いに傷つけるからだ。
私は出発点がクリエイターなのだ。なんか恥ずかしいけど、そうと言うしかない。
クリエイターにもざっくりと二種類いて、例えば絵を描いているときに
A:自分は絵を描いているだけだ、と思う人
B:自分は芸術をやっているのである、と思う人
の二種類がいる。
前者は「紙に絵の具を思い通りに乗せるの、上手くなりたい」みたいな連中で、
後者は「動物的ではない、精神性の世界にダイブしているのだ私は」みたいな連中。
このまま行けば、Aは手が動き続ける職人に、Bは舌が動き続ける芸術家を標榜する。
Aは視覚に訴える上手い作品を作り上げることが全てだ。無言で相手に気に入られない作品ができたら、失敗。敗北。作品力で殴るタイプ。
だがBは作品のデキはあまり気にしていない。初心者同然の作品を仕上げた後でも、言葉の力でめちゃ凄い作品に思い込ませることに情熱を傾ける。そここそ勝負と思っている。壺とか売るのに向いてそう。
わたしはコテコテのA、極A派で、自分の作品について解説したり弁解したりすることが、とにかく好きではないのだ。一つ作品を出したのなら、もうそこにあるのが全て、それで受け取られた印象や感想が真実であり今の実力、それを「構想15年……」とか「このテーマを書く勇気が出るまで3年かかった……」とか「心が折れそうな時に死んだ本好きの爺ちゃんが現われて、『完成させろ』と言って消えた……」とか、そういう『本体に関係ないこと』を口外して、作品を作品以上に、自分を自分以上に、ただのものつくり趣味でしかない己を人間以上に見せたくないタイプの人間なのだ。
なんでそんな人間になっちゃったの?
と言えば、たぶんデビューが同人誌即売会だったから。
高1で何週間もかけて友人らと頑張って作ったコピー本は、身内を除けば捌けたのは1部。列をブルドーザーしてくれるお兄さんが買ってってくれただけである。
即売会に出た人なら経験がある人も多いと思うが、朝の10時から夕方の4時まで、お祭ムードの中で6時間座っていて誰も買っていかない(足を止めないのではない。立ち読みした上で、申し訳なさそうに去って行く)というのはなかなか辛い。めっちゃ辛い。即売会参加者の半分近くはそんなものだが。
時間もたっぷり使った。
頑張って漫画を描いた。
様々な工夫も凝らした。
全力を出し切った。
『でも、下手だから誰も足を止めないんだ』。
これが15歳の私にゾゾゾと埋め込まれた、第一の背骨である。
高校一年生でサークル参加なんて凄いね! 初参加、よく頑張ったね! 一生懸命描いたんだね!……そんな風に「応援して」または「同情して」買ってくれる人は、一人もいなかった。ゼロ人だ。
『作品は、黙って作品力で殴りきるしかない』
ものすごいマッチョな世界観。
私が最初に立った大人の地平は、そういうものだった。
幸か不幸か。
私が所属していた高校の美術部に、そういう『作品クオリティの暴力』で11大会中11の大会で優秀賞~最優秀賞を取るという怪物がいた。だいたい最優秀賞で、賞金を稼いでいた。出場した大会全てである。彼女は本州のとある美大を主席合格し(入試で描いたデッサンは大学のトップページに、翌年度を超えても飾られた)、pixivでは「描けば評価20000」というデイリーランキングの常連であり、「絵はー 好きなことが好きに描けるから楽しいんだよー。仕事にはしない」と事務職のOLになった。私のサークル名『MQ文庫』は『Mに並ぶクオリティを』という意味だが、そのMである。
彼女は喋りが得意な人間ではなく、だがその作品は雄弁であった。美術の、クオリティの暴力。見る者に有無を言わせない作品力での殴打。「あれは、釘バットで後ろから殴るようなもん」とは他の女子部員の言だ。B1サイズの新作が階段の踊り場に飾られれば、美術なんぞに興味のない脳筋男子女子たちですら目を疑って、朝から足を止めた。「これ、Mが描いたの?」「CGってやつ?」「美術の授業で使ってる、アクリル絵の具らしいよ」
彼女の作品は、自分を自分以上に、作品を作品以上に見せる言葉など、本当に必要がなかった。私がみすぼらしい作品を作って、焦って舌で弁護しようとすると、彼女は目を細めて(くっだらなー超うけるー)という微笑で応じたものだ。無論、彼女は仲のいい人にしかそういうことをしない。「……糸魚川くん。そういうことをしても無駄じゃない?」と彼女に窘められたときに、きっと私の人生が決まったのである。
そんなわけで私は常に「言葉で盛るより、実力で殴れ」なのだ。
ぶっちゃけ、小説の「あとがきで作品の深みを述べる商業小説」や「あとがきでいい話をして小説の不出来を隠す商業小説」とかは大嫌いだし(けっこうあるぞ)、「あとがきで意味深なことを呟いて作品を作品以上にしようと頑張っている商業小説」も嫌悪の対象としている。他には、作品を出した後にツイッターでぽろぽろ後付け設定を語ったりするのも好きではない。今の時流としては、それが正しいのかもしれないが……
そんな、創作的筋肉主義を極めた「絶対の解」であるMが多感な時期に一緒にいたものだから、私も当然そっちに影響されている。
あとやっぱり、大学の体験だなあ……
上京して右も左もわからない私はとりあえずグラフィックデザインサークルと、古美術めぐりのサークルに入ったのだが、どちらも……腕はぴたりとも動かず、舌と空のグラスとピッチャーばかりが回るサークルだった。古美術は、腕が動かないのは仕方ないけど。
しかし私が「形而上嫌い」になった原因はどちらかというと古美術めぐりのサークルの方だ。
そのサークルには哲学科や美術史科の先輩が多く在籍していた。私は当時から印刷屋でバイトをしながら、フォトショップやイラストレーターで自分のポートフォリオを作っており、その新作を見せることもあった。するとそういった科の先輩たちは皆揃って、「……?」という反応しかできなかった。
つまり、図説に載っているような西洋美術や東洋美術についてはめちゃくちゃ語るが、現代の美術の現場にいるクリエイターたちの今生まれた作品に対しては何も語れないのだ。絵は絵という感覚が、無い。すでに大家というブランドがついたものだけを絵だと見ている。延長上の同じものと見られないから、意見や感想が持てないようだった。
そしてその先輩たちが語る、大家に対する深く意味深な美術批評は、現場で絵を描いたことがある人からすると「絶対、そこまで考えてないよ。無意識の領域を含めても」という具合に的外れの連続に思えた。「批評」という文化との出会いが、私は最悪に不幸な形だったのである。
もし私があなたの描いた絵について「この主線のブレは、作者の現代に対する馴染めない心理的な圧迫が投影されていて~」とか言ってたらウケるでしょ? 描いてる途中に、猫にタックルされたとか、地震が起きただけかもしれないのに。
あと哲学への忌避感は……
「そんな、どうにもならんこと考えてもどうにもならんでしょ」と言うしかない、自身への嘆きがあると思う。
一切の後ろ盾を持たない上京者のペーペー小僧からすると、とにかく現実に働きかけて足場の優位を拡大していかないといけない。考えなくちゃいけないことはしっかり考えるが、考えてもどうにもならなそうなことに耽溺するのは破滅を招く。極論、そういうことを考えるぐらいなら、寝て体力と思考力を回復させた方がいい。
さらに私は物自体のクオリティで勝負する実践家であったので、しかも商学部であったので、アイデンティティを失いかけた大学生で流行る「悩んでいるだけ」現象に懐疑的になっていった。
自分らしさなんて探すなよ、探してもきっと見つからないよ。だってたぶん無いから。
だから作りたい自分らしさを目指して作るしかないんだよ、さっさと動いて作った方がいいよ、きっと楽だよ……
拙作『魔道絵師学院ドミナリアの資質』なんて、そんなことばかり書いた気がする。
そんな風な、とことん形而下の上に、ちょっぴりの形而上の余地があるスタイル。
動け、考えてもいいけど動きながら考えろ、考えるために考えるな……
ちょうどそんなところに、塾講師のバイトをしていた時に解くことになった現国の問題があった。なんか、有名らしい日本の哲学者の先生の評論だった。
『哲学をしよう、哲学を学ぼうとして哲学科に入ってくる学生さんが、心配です。哲学って、学ぼうとして学べるものではありません。生きていたら、楽しいことや辛いことがたくさんあります。その局面で、あるときフッと降りてくるもの……そういうのが、「哲学をする」ということです』
みたいなの。『哲学入門』みたいな出典だったと思う。
それを見た時に私は「あ、やっぱりそれでいいんだ」とひどく落ち着いた。アリストテレスとか、ベーコンとかデカルトとか、ニーチェとか、そういう偉人の思想は高校の現社で表面を覗いたぐらで全然詳しくない私だったが、何かの折りに「どういうことなんだ……? 友情と恋愛は、多くの人にとって別腹なのか……?」「なんで離婚したのに、底に見え隠れするのは自慢なんだ……?」ぐらいのことを考えることは好きだったので「自分哲学、やってもいいんだなあ」と、随分と楽しみを肯定してもらえた気になった。言葉が人の人生観を救ったというのなら、これ自体が十分すでに哲学の効用なのだけど。
というか、私は今なお哲学をやろうと思ってやってなんていない。人間ってこういうときにこういうことあるよね、みたいに体験から抽出した大まかな法則・概観を口にすると「哲学的だね」とか言われるのだ。私にはそれで十分。それ以上は、生命線である動きが鈍る。
……みたいな極・形而下思想の人間が、初めて「思想・哲学」のコーナーに言ったのである。
ひいい~ 影響されて難解な人間になっちゃったらどうしよう……
私はとことん、現実を見ないといけないのに
まだずっと、プレイヤーでいないといけないのに
7月も現実に働きかけて、売れそうな商品を作っていかないといけないのに……
あった……ゲンロン8……2400円……高っ……
Sガストの朝定食なら、ごはん特盛り納豆海苔味噌汁お新香で8回食えるやん……
あ、なんやこれ
ゲーム×文化史の、普通の本やん
次回、やっと感想。