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拉孟(ラモウ)
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拉孟(ラモウ)というのは、ビルマと支那の国境付近にある小さな村です。
中国名を「松山」といいますが、昭和17(1942)年当時は廃村だったそうです。
位置は、怒川という川の西側です。海抜2000メートルの山上です。
東は怒川の大峡谷です。向かいには、鉢巻山という高山があります。
北と南は怒川の二つの支流です。そこには深い渓谷があり、西側にビルマから支那へ抜ける道があります。
気候は日本とすこし似ています。四季の変化に富んでいて、とくに秋は美しかったそうです。
拉孟は、英米連合軍が支那の蒋介石への援助物資を送り込むためのルート上にありました。
昭和17(1942)年5月、日本は援蒋ルートの阻止のため、ここに第56師団を送り込んで、拉孟(ラモウ)を占領します。
そして歩兵第113連隊が、ここに堅固な陣地を築きました。
どうしても拉孟を奪い返したい米支連合軍は、昭和18(1943)年の中期以降、雲南遠征軍を徹底的に鍛え上げるとともに、空から拉孟陣地を攻撃するようになります。
拉孟にいた守備隊は、ここに約100日分の武器弾薬食料を集積して長期戦に備える。
一方、日本軍のいるところ、必ずできたのが民間人による売店や慰安所です。
拉孟の陣地にも、それができていきます。
昭和19(1944)年3月、いよいよ支那国民党の精鋭軍である雲南遠征軍がやってきます。
守備隊を指揮していた松山連隊長は、2コ大隊に砲工兵の一部を率いて紅木樹方面(拉孟北方)に出撃し、怒江の水際でこれを破っています。
そして平戞(へいかつ、拉孟より40キロ南)へ出撃し、6月5日には、全軍を騰越に集結させています。
つまりこの時点で、拉孟(ラモウ)には、わずか1280名の守備隊しか残っていなかったのです。
ところが、是が非でも拉孟を奪いたい米軍は、ジョセフ・スティルウェル米陸軍大将に命じて、蒋介石揮下にある精鋭部隊を鍛え上げ、20万の兵力を持つ雲南遠征軍(指揮衛立煌将軍)を組成します。
この雲南遠征軍は、最新鋭の米軍装備を持つ、蒋介石の直下の最強軍です。
そして雲南遠征軍は、日本の拉孟守備隊との戦いのため、なんと4万8千人の大部隊を、拉孟に派遣し、これを包囲したのです。
対する拉孟守備隊の兵力はわずか1280名だったのです。
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金光隊長
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このとき、拉孟守備隊は、野砲兵第56連隊第3大隊長の金光恵次郎少佐が指揮していました。
しかもその中の300名は、各地の転戦から敵の包囲網をかろうじて突破して陣地に帰還した傷病兵です。ほかに15名の女性たち(売春婦)がいました。
傷病兵や女性たちを頭数にいれても、彼我の兵員数の差は30倍です。
拉孟は、健常者の兵員数だけみれば45倍もの兵力差がある壮絶な戦いとなったのです。
加えて絶対的な火力差です。補給力も違う。航空兵力の有無まで考えあわせたら、その戦力比は、天地ほどの開きがありました。
圧倒的な兵力の差です。しかし拉孟(らもう)に立て篭もっていた日本の兵士たちは、福岡の連隊です。彼らは日本陸軍最強を自認し、自らを「龍兵団」と呼んでいた。
敵が幾万ありとても、戦えば俺たちが必ず勝つ。「龍兵団」は、ものすごく高い若い日本兵たちの集まりです。
指揮を任せられた金光隊長は、現場叩き上げの少佐で、このとき49歳です。
決して若くない。
貧農の息子で、小学校しか出ていません。
けれど彼は、徴兵された後に猛勉強をして、陸軍士官学校を卒業しています。
学者肌の温厚で誠実な人柄です。決して剛毅果断な性格ではない。こわもての風貌でもない。部下を怒鳴ったり、叱ったりすることもない。
無口で弁舌も不得意、地味な男です。
部下の若い精鋭の龍兵団の兵士たちは、龍兵団の屋台骨を支えるたくましい、元気いっぱいの若き兵士たちです。
その部下たちに、戦いが始まる前、金光隊長は、肉体の限界を超えるような重労働を課しました。
敵襲に備えての、防御陣地の構築です。
敵のいかなる砲撃にも耐えうる陣地を作らねばならない。
古来、穴掘りというのは、もっともきつくて苦しい労働です。
しかも場所は険しい山岳中です。
加えてトラックもブルドーザーもない。すべて人力での作業です。
若い兵たちから、当然のように不満の声があがった。
しかし金光隊長は、何も言わず、五十歳近い身で、のこぎりを引き、つるはしやシャベルをふるい、丸太やもっこを担ぎ、土嚢やドラム缶を積み、一心に働いたそうです。
そして金光隊長が仕事を終えるのは、いつも最後の一兵が仕事を終え兵舎に入るのを見届けてからだった。
やるべきことは、やらねばならないのです。
そして彼は、隊長として、それをみんなにやらさなければならない。
けれど彼は、口下手で叱咤激励できるような柄ではありません。
だから何事においても、常に率先垂範・有言実行に徹しようとしたのです。
上官風を吹かせるようなことも金輪際しなかった。
公私ともに陰日向なく、誰に対しても公平であろうとした。
金光隊長は、口舌ではなく背中で兵士たちに語って聞かせたのです。
最初のころ、重労働に不平不満を漏らしていた兵士たちも、そんな金光隊長の背中見て、以後一切、不満の声は上がらなくなったそうです。
さすがは日本男児たちです。
いつしか守備隊の中には、金光隊長のもとでなら頑張れる、やれる、やってやろう!という気迫までもがみなぎったといいます。
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はじまった総攻撃
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昭和19(1944)年4月ごろから、頻繁に小競り合いが起こりだします。
6月2日の午後、敵、雲南遠征軍は、第一回の総攻撃を仕掛けてきました。
凄まじい砲爆撃が、一斉に開始された。
間断なく撃ち込まれる巨弾は、大地を揺るがします。
山の形までが変ってしまうほどの猛烈な砲撃です。
しかし守備隊員が必死で作った陣地は、頑強です。
敵の猛烈な砲撃にも、まるで壊れない。
守備隊の将兵は、陣地の中に身を隠し、息を殺して逆襲のチャンスを待ちます。
いつ果てるともない砲撃が続きます。
敵弾が着弾するたびに、壕の中は頭の上から土砂がこぼれてきます。
落盤すれば命はない。
恐怖の中にあって、兵士達はすぐにでも飛び出したい衝動さえ駆られます。
けれど金光隊長の反撃命令は出ません。
隊員たちはじっと命令を待ち続けた。
砲兵将校である金光隊長は、限られた火力しかない守備隊がむやみに撃ち返して、虎の子の砲の位置を敵に教える愚策、砲弾の無駄、を知っていたのです。
夜になって、ようやく弾雨がやみます。
けれど、ほっとしたのもつかの間、翌朝未明には再び敵の砲撃が開始される。
あらゆる砲種の砲弾が、唸りをあげて落ちてきます。
爆風が土砂を、鉄片を、木片を巻き上げ、硝煙が舞い、昼間だというのに薄暗く、視界さえ利きません。
けれど相変わらず、金光隊長は動かない。
撃たれっ放しです。やられっぱなしです。
それでも彼は動かない。
恐怖の中で、兵士達にあるのは金光少佐への信頼だけです。
全員が隊長の反撃命令を待って、じっと耐えます。
夜、弾雨がやみます。
翌、6月4日の朝、またもや敵の砲撃が開始されます。
ただ、この日は、いつもと様子が違いました。
あれほど猛り狂った砲撃が、ペースダウンしたのです。
敵の観測用飛行機が陣地上空を低空で飛ぶ。
守備隊の陣形、兵の配置などを無線で報告しているようです。
時間が経つにつれ、砲撃の確度が上がりだす。
それまで、むやみやたらな砲撃だったものが、目標物に対する狙い撃ちに変ったのです。
これを見た金光隊長は、敵の歩兵部隊の侵入が近いことを予期します。
そして全将兵に戦闘準備を命じた。
金光隊長の予想は的中します。
雲南遠征軍の先鋒を務める、李士奇師長が率いる新編二八師の歩兵一個団(一個連隊)3000人が、沈黙したまま反抗しない日本軍を侮って、北を12時に見て4時の方向にある上松林陣地に向け、喚声をあげて押し寄せてきたのです。
金光少佐がじっと待ち続けていたのは、まさに、このときでした。
彼の命令一下、掩体壕(えんたいごう・砲撃から身を守るための壕)に潜んでいた守備隊の虎の子の砲が、地上ににゅうと顔を出します。
そして、一斉射撃を開始した。
それまでじっと耐え忍んだのです。
日本の砲撃は、まるでそれまでの憤懣を、激情のままにぶつけるかのような猛射です。
しかも鍛え抜かれた一発必中の猛射です。
狙う。撃つ。
密集して押し寄せる敵兵は、次々になぎ倒され、大混乱に陥る。
敵が逃げ惑います。
砲撃をくぐり抜けて陣地内に迫った敵兵には、歩兵が小銃弾の連射を浴びせます。
あるいは手榴弾を見舞い、撃破する。
それをも突破し肉薄して来た敵兵には、抜刀した、あるいは銃剣をふるった歩兵が次々と襲いかかります。
大日本帝国陸軍中にその名を知られた、九州福岡の「龍兵団」の精兵たちです。強い。強い。
守備隊の熾烈な猛反撃に敵一個連隊は、またたく間に壊滅してしまいます。残兵は遁走した。
そして敵が敗走したのを見届けるや、守備隊の砲はまた忽然と掩体壕に隠れます。
あたりが静まり返る。
6月7日、三日前に手痛い敗北を喫した李士奇師長は、今度こそとばかり自ら新編二八師の主力の7000人を率いて、総力攻撃をしかけてきます。
新たな目標は、守備隊の本道陣地です。
しかし守備隊の反撃はまたしても彼らを上回り、激闘数時間、ついに数倍する敵を粉砕し、敵司令官李士奇さえも戦死させてしまいます。
拉孟守備隊の壮絶な反抗の前に、精鋭新編二八師団7,000名の大軍は、殲滅されてしまったのです。
こうして、緒戦は守備隊の完勝となった。
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真鍋大尉の合流
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6月12日夜、転戦中の松井連隊の傷病兵300名が、負傷した真鍋邦人大尉に率いられ、夜陰に乗じて敵の囲いを突破し、拉孟陣地に帰還、合流しました。
数ヶ月ぶりの戦友との再会に、皆、疲れを忘れて喜び、これからのお互いの健闘を誓い合います。
実は、金光隊長と真鍋大尉は、連隊主力の出撃前、次のような会話を交わしていたのです。
「隊長、大変失礼な言い方ではありますが、女たちは、隊長より、ここでは先輩であります。もう、拉孟を第二の故郷と思っていますから、もし、どこかへ移そうとなさると、噛み付かれますよ。」
ユーモラスな口調で、真鍋は、婦女子の気持ちをいろいろ話してくれ、女たちは、ここで死ぬことさえ、ひそかに望んでいるのだ、真鍋大尉は言いました。
ある兵士が、何かのはずみに女性の一人をつかまえて、おまえは道具じゃないかと罵ったというのです。
その女性は柳眉を逆立て、その兵士が、いくら金を払うと言ってもそばへも寄せ付けなかった。
彼女たちは、すべてここの将兵の妻であり、ときには姉、妹、母であり、家族の気持ちになっているというのです。
負傷して帰還した真鍋大尉を迎えたとき、金光隊長と二人のつもる話のなかで、女性たちのことが再び話題になった。真鍋大尉は言います。
「過日も申し上げましたように、女たちはもうここの守備隊の家族と同様のものです。それに帰れと言ってみましたが、逆に、あたしたちを殺す気ですかと、大変な剣幕で食って掛かるのです。」
たしかに、帰れないことはないのです。
しかし帰すにしても、女たちに十分な護衛をつけてやる余力はありません。
死の危険は、ここにいるよりもむしろ高いのかもしれないのです。
とはいえ、ここにいたら、絶対に生きて帰ることはできない。
続けて真鍋は、「隊長、無理に帰そうとすれば、女たちはかえって薄情だと怨むでしょう。彼女たちは守備隊の一員と考えているのです。女たちが、これから起こってくる戦闘の恐ろしさを知らないから、その場になって、恐怖のあまり狂乱する者がいてはと心配されているのではありませんか? その心配ならご無用です。あれでみな、しっかり者です。非常の際は、女の方がどうかすると男よりしっかりしています。それより隊長、実は申し上げておきたいことがあります。」
「何かね?」
「このようなことを私から言うのは、茶坊主のようでいやですが、陣内のすべて、全部で1,280名、いま隊長どのが心配されていた婦女子を加えて1,300名、隊長のためなら、いつでも笑って死ねる、という気持ちを持っております。」
それを聞いた金光は、はにかんだ笑いを浮かべ、照れくさそうに
「そんなことを言うものじゃないよ。」と言い、しばらくたって、「なあ真鍋君、私はまったくいたらない人間なんだよ。」
金光隊長は、どこまでも謙虚で誠実な人柄だったのです。
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幽鬼か、鬼神の集団か?
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6月14日、先に壊滅した新編二八師団のあとを受け、新編三九師団第百十七団が、拉孟(らもう)陣地の真北にある松山、横股陣地を攻略すべく、猛攻を仕掛けてきます。
金光隊長は、ここでも頭上雨あられと降り注ぐ猛爆をじっと耐えます。
そして、敵の大軍団が防御線ぎりぎりにまで迫ったのを見届けるや、一斉に砲撃の火蓋を切った。
金光隊長直伝の、一糸乱れぬ正確な集中砲火です。兵が斃れる。逃走する。
それでも立ち向かってくる敵兵に対しては、守備隊歩兵が勇躍突撃して阿修羅の如く白兵戦を闘う。
敵味方が入り乱れ、近接戦闘を繰りひろげるのが「白兵戦」です。
そして「白兵戦」は、古来より日本軍の十八番です。
新編三九師第百十七団は予想以上の大打撃を蒙り、またしても敗退します。
ここに至って雲南遠征軍は、拉孟陣地に立てこもる、実数わずか一個大隊程度、吹けば飛ぶような日本軍守備隊の、信じがたい闘志・恐るべき戦闘力をいやというほど思い知らされた。
悔し紛れか、敵・雲南遠征軍は、前にも増して砲弾の雨を降らせ続ける。空からは、シェンノート少将率いる米空軍第十四爆撃隊による機銃掃射、爆弾投下が続きます。
そして雲南遠征軍は、とうとう、国民党主席蒋介石直系の李密師長率いる最精鋭師団、栄誉第一師を前面に押し出してきたのです。
栄誉第一師は、米軍装備で、米軍に鍛え上げられた最新鋭装備、国民党最強の軍団です。
栄誉第一師は、日本兵が話には聞いていても、見たことのなかった新兵器、ロケット砲を投入してきた。その威力は凄まじい。
さらに、ロケット砲による攻撃をやり過ごすため壕にもぐっていると、敵は火炎放射器を使い、壕の中の守備兵を焼き殺そうとする。
膨大な鉄量の爆弾を叩き込み、続いて大規模な強襲をかける。この波状攻撃は11日間も続きます。
そのたびに守備隊も必死に抵抗し、一進一退の攻防が続いた。
そして比較にならぬ寡兵でありながら、日本軍守備隊は栄誉第一師の総力を挙げた猛攻撃を、またもや凌ぎ切ってしまったのです。
蒋介石自慢の栄誉第一師も、新編二十八師、新編三十九師にも劣らぬ犠牲を払いながら、拉孟陣地の一角すら奪うことができなかった。
日本軍の堅塁も傷み、崩れている。援軍も補給も許していない。武器・弾薬・水・食糧も、もう底をついているはずです。
彼らみな疲れきっているはずです。戦死者、負傷者も少なくないはずです。
拉孟(ラモウ)の日本軍守備隊は、もはや半身不随となってもいるはずなのに、何故、破ることができないのか。
彼ら日本兵は人間なのか? 幽鬼か、鬼神の集団か?
雲南遠征軍は、将軍から兵卒に至るまで、対峙する日本兵に戦慄し、恐怖を覚えはじめます。
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小林中尉
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このころ、金光隊長が司令部宛に打った報告電文があります。
「今までの戦死250名、負傷450名。片手、片足、片眼の傷兵は皆第一線にありて戦闘中。士気極めて旺盛につきご安心を乞う」
絶え間ない砲爆撃、肉弾相討つ白兵戦が、いつ果てるともなく続いたのです。
手を失った兵、足を失って這うしかない兵、眼を失った兵、普通であれば野戦病院行きの重篤な負傷者たち。それでも拉孟(ラモウ)守備隊は、みんなが戦い抜いた。
無理矢理やらされているのではありません。いやいやながらやっているのでもない。軍医が止めても、聞かなかったといいます。
戦友だけを戦わせるわけにはいかない。寝ている暇ななんかねえよ。オレもすぐに行かなければ・・・
夜、砲爆撃が止み、敵が休んでいても、守備隊の兵たちに休息の時はありません。
怪我をして血にまみれていても、死ぬほど疲れていても、傷んだ陣地を一刻も早く補修しておかなければ、次の戦闘で敵に付け入る隙をあたえてしまうのです。
20名の女たちも、それぞれに兵隊服を着て、ある者は男たちの作業を手伝い、ある者は炊事婦として働き、またある者は看護婦として負傷兵を手当てしました。
彼女たちも、いまや拉孟守備隊の欠かせぬ一員となって「戦って」いたのです。
6月28日、垂れ込める沈鬱な雨雲のなかから、4機の戦闘機が姿を現します。
近付いてくる機影を見上げていた日本兵の一人が、甲高い声で叫んだ。
「友軍機だッ!友軍機が来たぞ!」
壕を飛び出した兵たちは、翼に輝く日の丸を見て、手に持った日の丸の小旗を、力いっぱい振りました。
清水千波中尉率いる4機の戦闘機は、敵高射砲の咆哮をものともせず、危険を冒して低空飛行を敢行し、梱包した弾薬を投下した。
そして、別れを惜しむかのように翼を振り、雲の彼方に消えていった。
友軍機が、命がけで運んでくれた弾薬の包みを抱いて、兵たちは、声をあげて泣いたそうです。
このときの守備隊の感激は、筆舌に尽くしがたいものだった。
数度にわたり実施された空中投下の都度、金光隊長は第三三軍司令部にあてて感謝の電文を送っています。
「今日も空投を感謝す。手榴弾約百発、小銃弾約二千発受領、将兵は一発一発の手榴弾に合掌して感謝し、攻め寄せる敵を粉砕しあり。」
7月24日、実際に拉孟陣地への空輸を担当した第三三軍配属飛行班長小林憲一中尉の記録があります。
この日、軍偵察機3機と戦闘機隼12機を一団として、50キロの弾薬筒を各軍偵に2個、隼に各1個、計18個吊し、空輸した。15機は、一団となって飛び続け、拉孟(ラモウ)を目指した。
やがて拉孟(ラモウ)陣地上空付近に達すると、敵戦闘機P38、P51が、迎撃のため襲い掛かってきた。
隼は空中戦に突入します。
敵高射砲陣地からは、続けざまに高射砲が放たれる。
そして、弾薬筒を投下するため、目標を定めようと眼下を見下ろしたとき、小林中尉は、想像絶する光景を見ます。
拉孟(ラモウ)陣地の周囲が、全部、敵の陣地と敵兵により、びっしりと埋め尽くされているのです。
小林中尉は手記に、次のように記しています。
「松山陣地から兵隊が飛び出してきた。上半身裸体の皮膚は赤土色。T型布板を敷くため、一生懸命に動いている。スコールのあとでもあり、ベタベタになって布板の設置に懸命の姿を見て、私は心から手を合わせ拝みたい気持ちに駆られた」
そして、友軍機の爆音を聞いて二人、三人と壕を飛び出してきた兵隊達の言いようのない感激の表情が、小林中尉の心をえぐります。
「その時、私の印象に深く残ったものに、モンペ姿の女性が混じって白い布地を振っている姿があった。思うに慰安婦としてここに来た者であろうか、やりきれない哀しさが胸を塞いだ」
兵隊たちも女たちも、一心に、手をちぎれるほども振り、声を上げ、感謝している。
小林中尉の眼は、熱いものが溢れてかすみ、手袋をぬいでいくら眼をこすっても眼が見えなくなったそうです。
小林機は、低空から2個の弾薬筒を無事投下しました。
そして小林中尉は、涙をぬぐった眼でしっかりと、この何分か、何十分後かに戦死しているかもしれない戦友の顔を刻み込もうと、飛行機から身を乗り出すようにするのだけれど、あとからあとから溢れるもので眼はかすみ、どうにもならなかったそうです。
激情に駆られた小林中尉は、弾薬筒を投下後直ちに戦場を離脱すべしとの軍命令にもかかわらず、敵高射砲の弾幕をくぐって急降下します。そして意地の銃弾を、猛然と敵陣地に向け叩き込んだ。
敵弾が愛機の機体を貫きました。
敵の弾が自らの体もかすめた。
それでも小林中尉は、まなじりを決して、弾倉が空になるまで、あらん限りの銃弾を撃ち続けています。
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蒋介石の督戦
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この頃、敵の雲南遠征軍の将兵たちは、打ち続く挫折と莫大な損害に焦燥していました。
国民政府の主席を務める最高指導者蒋介石もあせった。相手の数十倍の兵力を投下し、しかもその兵力は、国民党の最精鋭部隊です。
膨大な物資援助、資金援助、技術指導、戦術指導を受けている米英に対し、いくら手強いとはいえごく僅かな日本兵を相手にこの有様では顔向けできません。
たまりかねた蒋介石は、全軍の将帥たちに向けて、激しい叱咤の声明を発しました。
そしてこの声明を伝える無電は、同時に日本軍にも傍受され、解読されます。
蒋介石の無電です。
「戦局の全般は有利に展開し、勝利の光は前途に輝いているが彼岸に達するまでの荊の道はなお遥かに遠い。各方面における戦績を見ると、予の期待にそわないものが非常に多い。
ビルマの日本軍を模範にせよ。
ミイトキーナにおいて、拉孟(ラモウ)において、騰越(トウエツ)において、日本軍の発揮した善戦健闘に比べてわが軍の戦績がどんなに見劣りするか。
予は甚だ遺憾に堪えない。
将兵一同、さらに士気を振起し、訓練を重ね、戦法を改め、苦難欠乏を甘受克服して大敵の打倒に邁進せんことを望む」
拉孟(ラモウ)において、騰越(トウエツ)において、ミイトキーナにおいて、その実勢力に比して、信じがたいほどの反発力を日本軍守備隊は示しました。
実際に最前線で日本軍と戦っている将兵にとっても、日本の陸軍士官学校OB(卒業してはいない)である蒋介石にとっても、日本軍の極めて高い士気、恐るべき戦闘力、頑強さは、想像を絶していたのです。
なかでも拉孟(ラモウ)を取り囲んでいる雲南遠征軍は、米軍から訓練を受け、質・量ともに万全な支援を受けた軍隊です。
決して弱い軍隊ではない。
その彼らが暴風のような猛攻を幾度繰り返しても、怪我人や婦女子を含む少人数がたてこもる孤立無援の拉孟陣地は、いまだ陥ちないのです。陥ちないどころか、わずかな一角さえ奪うことすらできていない。
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戸山伍長の結婚
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雲南遠征軍は、雲南省昆明付近の守備についていた第八十三師、第百三師を抽出して拉孟に配置し直し、拉孟陣地に対する第三次総攻撃の準備をしました。
そして7月20日、過去最大の集中砲火を行った。
拉孟(ラモウ)守備隊の頭上には、ありとあらゆる砲弾、鉄塊が無数に撃ち込みました。
舞い上がる砂塵と土煙、硝煙であたりは薄暮となったほどです。
轟音の中を、壕に潜む守備隊将兵は、湿気と暑熱のなかで、じっと耐えます。
遠巻きにしていた敵は、徐々に包囲網を狭めてくる。
すきあらば、と突撃の好機を窺う。
そして一気に拉孟陣地を喰らい尽くそうと、大兵を動員して押し寄せました。
拉孟(らもう)守備隊の抵抗はここでも頑強です。
寡兵ながら敵の巨大戦力の侵攻を、あくまで食い止め、ついには撃退してしまいます。
雲南遠征軍は、陣地上空から日本兵に対し、投降を勧告するビラをばらまきます。
精神的ダメージを日本兵に与えようとしたのです。
けれど一読した守備隊の将兵は、腹を抱えて大笑いしています。
8月になりました。
拉孟(ラモウ)守備隊の兵員は、もはや負傷兵を加えても、300人に満たない情況です。
彼我の攻防が本格化してから、すでに二ヶ月経っているのです。
守備隊の兵力は4分の1以下にまで減少している。
以前のように拉孟陣地全体を固め続けることがむずかしくなっています。
そして敢闘空しく、ついに本道陣地まで敵の手に陥ちてしまいます。
金光隊長は、意気軒昂な29名の精鋭を選抜し、7班の砲兵挺身破壊班を組織します。
彼らは雲南遠征軍の軍服や便衣(支那人の私服)を着て、夜陰にまぎれて敵陣内に潜行し破壊活動を行うのです。
最後は必ず見つかることは、わかっています。生還などできない。
彼らは金光隊長と別れの水盃を交わし、勇躍、出発します。
その夜、遅くのことです。
金光の部屋の戸を叩く者がいました。
入ってきたのは、真鍋邦人大尉です。
大尉の後ろ、扉のところには、熊本県天草から慰安婦としてここ拉孟にやってきた菅昭子、そして両眼を負傷し包帯を巻いた戸山伍長が立っています。
「真鍋大尉、隊長に個人的なお願いがあって参りました。」
「何だろう?」
「実は、この二人の結婚を許してやっていただきたいのです。」
「!」
「過日、私が道具云々という件をお話したのを覚えておられますか?その時の兵が戸山伍長で、相手がこの菅昭子です。」
「・・・・・・。」
ここ拉孟陣地にいる人間は、遅かれ早かれ約束された死を迎えます。
そのとき菅昭子は、慰安婦としての自身の歴史に終止符を打ち、人の妻として死にたいという、女としてのただひとつの願望をかけたのです。
一方、戸山伍長は奮戦中爆風を浴びて両眼を失っています。
それでも彼は戦っていた。
その彼を看病し、彼の眼の代わりになって助けているのが、菅昭子だったのです。
たとえ今日結婚しても、もはや夫婦の契りを結ぶことはできません。
幸せな家庭も、小さな赤ちゃんも、二人にはありません。
けれどもし来世があるのなら、その世界で心も肉体も真実の夫婦となりたい。
二人は真鍋大尉にそう話したそうです。
そして三人で金光のもとへやってきたのです。
金光は、真鍋大尉の話を、おだやかな顔で聞きました。
「隊長どの、ここではあなたが父であり、兄です。戸山伍長と菅君の結婚のことを、認めてやっていただけませんか。」
金光隊長は多くを語る人ではありません。
その隊長が、ほのぼのとした表情で二人の結婚を許しました。
そして、三々九度の御神酒がないから、と言って、先ほど決死隊を見送る際に使った盃に水を注ぎ、結婚式の盃の使い方を二人に教えてから、まず戸山伍長の手を取り盃を握らせました。
数日後、戦場に戸山伍長とそばに寄り添う妻昭子の姿がありました。
全盲の戸山伍長の眼になって、手榴弾投擲の方向と距離を目測し、伝えていたのです。
その日の、第三波の敵が来襲します。
甲高い喚声を聞いた戸山伍長は「少年兵?」と昭子に聞いた。
そして手榴弾の信管を抜こうとした手を一瞬止めます。
砲弾が唸る中、昭子は「十五、六の少年兵ばかり」と叫びます。
敵兵とはいえ、年端もいかぬ子供を攻撃することに、戸山伍長は一瞬躊躇します。
そのとき、敵少年兵の投げた手榴弾が夫婦の足元に転がってきた。
昭子は凍りつきます。
次の瞬間、手榴弾は轟音とともに炸裂しました。
戸山伍長、昭子夫妻はともに壮烈な戦死を遂げます。
知らせはその夜、真鍋大尉から金光隊長に伝えられました。
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砲兵挺身破壊班
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七班の砲兵挺身破壊班は、敵の懐深く忍び込み、8月10日の定刻24時を期して敵の諸施設、幾多の砲を爆破します。
敵は大混乱に陥り、明け方まで照明弾を打ち上げ続け厳戒体制をとっている様子が、守備隊からも望見できたそうです。
翌朝、敵が復讐心をたぎらせて猛然と砲撃してきました。
そして、機を見て歩兵が殺到してくる。
白兵戦は、古来より日本軍の得意とするところです。
銃剣で敵を刺す者、ツルハシを振るって敵を叩き伏せる者、戦死した将校の軍刀を武蔵のように両手に握って敵を斬り倒す者、その凄絶な日本軍人の姿は、まさに鬼神の集団だったといいます。
やがて、敵は敗退する。
七班の砲兵挺身破壊班は、8月12日までに27名が帰還しました。
大きな戦果を挙げたものの、全29名のうち、百戦錬磨の武人二人、所軍曹と吉田上等兵が戦死し、還らぬ人となりました。
二人は、見事任務を遂行したのち敵に発見され、部下を逃がすため追いすがる敵の前に敢然と立ちふさがったのです。
覚悟の戦死でした。
この頃から、敵は、地上、空からの攻撃だけでは到底拉孟の堅塁を抜くのは難しいと考え始めました。
日本軍陣地を足元から破壊しようと地下坑道を掘り進み、大量のTNT火薬を仕掛けて爆発させようと計画したのです。
8月20日午前11時、一瞬聴覚が麻痺するほどの大音響とともに、関山陣地は大爆発を起こします。
関山陣地を死守していた辻大尉以下の将兵はことごとく戦死し、陣地が敵の手に陥ちる。
金光隊長は、なんとかして陣地を奪還しようと、夜襲をかけます。
そして一時は奪回に成功しました。
けれど、足元から爆破され掩体が吹き飛ばされた陣地は裸も同然です。
奪回したものの守兵が身を隠す場所がない。
敵の傲然たる砲撃や圧倒的な人海戦術に、なすすべがなかったのです。
金光隊長は、涙を呑んで撤退を命じます。
――――――――――
金光隊長の電文
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8月23日午後5時の、金光隊長から司令部宛の電文が残っています。
「19日以来、敵の猛攻に対し死守敢闘せるも、大部の守備兵は不具者となり、また関山を爆破せられました。
2回にわたり夜襲し、これを奪回確保したのですが、敵兵の集中砲撃により百名以上が戦死し、兵力の寡少の関係上、戦線を横股、檜山、音部山、裏山半部、連隊長官舎南方高地、東北高地を連ねる線に整理しました。
その守兵は、片手片足の者が大部分です。
しかし、全力を奮って死守敢闘該線を確保しあり」
同じ8月23日、事態が急迫しつつあるのを感じた金光隊長は、さらに次の電文を送ります。
「最悪の場合、各種報告のため、砲兵隊木下昌巳中尉を脱出させ報告に向かわせます。木下中尉は守備隊本部にあって戦闘参加し、戦況を熟知しています。そして彼は、唯一の無傷の年少気鋭の将校です」
この時点で、もはや守備隊には満足な弾薬はありません。
水も、食糧もない。
百名に満たない不具の将兵が、不眠不休で戦闘を続けているという、眼をそむけたくなるような、悲愴な光景です。
8月26日、この日、蒋介石は雲南省の省都昆明にいました。
そして拉孟、騰越、ミイトキーナを包囲攻撃している自軍に向け、督励の訓電を発します。
「騰越(トウエツ)および拉孟(ラモウ)においては、わが優秀近代化の国軍をもってしても、日本軍守備隊は、なお孤塁を死守している。これでは国民党軍の名誉を失墜するのみならず、中国の世界的地位をも疑わわれてしまう。
ミイトキーナ、拉孟(ラモウ)、騰越(トウエツ)を死守している日本軍人精神は、東洋民族の誇りであることを学び、これを模範としてわが国軍の名誉を失墜させないことを望む」
8月30日、金光隊長からの司令部宛電文。
「三ヶ月余の戦闘と28日以来、敵の総攻撃により守備兵の健康者は負傷し、更に、長期の戦闘により歩兵砲兵とも、小隊長死傷し皆無となり、守備兵は不具者のみにて音部山の一角及び砲兵隊兵舎西山横股の線に縮小死守、危機の状況なり。
又、弾薬欠乏し、白兵のみの戦闘なるも、突撃し得る健康者なきをもって、兵団の戦況之を許せば、挺身隊を編成し拉孟の確保方依頼す」
弾薬も残りわずかになりました。
銃剣を、あるいは軍刀を振るって白兵戦を闘い、突撃できる兵も、今や数えるほどしかいません。
この状況では、今後この場所を支え続けることはむずかしい。
もはや任務を果たすことが至難となった、という電文です。
決して弱音を吐くことのなかった金光隊長が、自分たち守備隊が玉砕した後、なんとか後事を託すため、挺身隊を組織して派遣していただくことはできないか、と願ったのです。
しかし、この時点で、三三軍司令部にも師団司令部にも、もうその余力も時間もありません。
昭和19年9月5日、金光隊長より司令部宛電文。
「通信途絶を顧慮し、あらかじめ状況を申し上げたく。
四囲の状況急迫し、屢次の戦闘状況報告の如く、全員弾薬糧秣欠乏し、如何とも致し難く、
最後の秋(とき)迫る。
将兵一同死生を超越し、命令を厳守確行、
全力を揮って勇戦し死守敢闘せるも、小官の指揮拙劣と無力のためご期待に沿う迄死守し得ず、
誠に申し訳なし。
謹みて、聖寿の無窮皇軍の隆昌と兵団長閣下始め御一同の御武運長久を祈る」
これが、拉孟守備隊金光隊長の最後の電文となりました。
電文を打った直後、金光隊長は無線機を破壊します。
そして暗号書、機密文書等のすべてを焼却した。
――――――――――
木下昌巳中尉
――――――――――
金光隊長が最後の電文を打った二日前のことです。
金光隊長は、木下昌巳中尉を呼びました。
そしてかねて計画していた通り、連絡将校として密かに陣地を脱出し、敵の重囲を突破して、守備隊の戦闘日誌、功績名簿などの重要な報告書を司令部に届けるよう命じます。
指名を受けた木下中尉は、「自分も隊長と一緒に死なせてください」と懇願したといいます。
けれど金光隊長は言った。
「君の気持ちはよくわかる。しかし、全員がここで死んでしまったら、この戦闘の様子は誰が伝えるのだ。師団司令部や軍にとって、この戦闘日誌は、爾後の戦いの貴重な資料だ。
そればかりではない。
将兵の遺族の方々にも、拉孟の守備隊はこのようにして戦った、ということを知ってもらえることになる。それが散華した部下に対する私の責任であり、償いでもある。
いまの私にできることといえば、それしかない。
わかるな?」
兵や、兵たちの遺族の上にまで、深い思いやりを寄せている金光隊長の心情に接し、木下中尉は熱いものがこみ上げてくるのを抑えようもなかったそうです。
「隊長、わかりました。木下はどんなことがあっても必ず、目的を果たすことをお約束いたします。」
この時点で生存者は、重傷者をいれて80名。
9月6日、降り止まぬ雨のもと、敵の砲撃はますます激しさを増してきます。
敵の迫撃砲弾が陣地周辺に集中し、死傷者が続出する。
金光隊長は鞘を捨てた軍刀を握りしめ、戦闘の陣頭指揮にあたっていました。
午後5時、一発の迫撃砲弾が金光隊長のそばに着弾し、炸裂します。
金光隊長は、腹部と大腿部に致命傷を負い、泥土のなかに倒れます。
付近にいた兵たちが、隊長を安全なところに隠そうとするけれど、もう、隠せる場所すらありません。
金光隊長は、深傷を負いながらも、なお毅然と指揮をとり続けようとします。
けれど午後七時、ついに戦火の中で息を引き取りました。享年49歳でした。
この時点で拉孟守備隊は、重傷者をいれても、もはや50名に満たない状態です。
金光隊長戦死のあと、指揮権は真鍋大尉が引き継ぎます。
その夜、真鍋大尉は、護り続けてきた歩兵第百十三連隊の軍旗を焼きました。
彼ら生き残っている将兵の周りには、既に息絶えた戦友たちが累々と横たわっています。
そして動くことのできない重傷兵は、炎に包まれて焼け落ちる軍旗をじっと見つめ、声も上げずに泣きました。
9月7日未明、真鍋大尉は、木下中尉を呼んで、最後の命令を下しました。
拉孟脱出指令です。
木下は、敵兵の死体から剥ぎ取った服をまとい、夜の闇にまぎれ、孤立無援の落ち武者となり、なにがあろうと絶対に生き抜いて、拉孟守備隊かく戦えり、の報を司令部に伝えなければなりません。
真鍋大尉は、木下中尉の持つ公文書に、自らしたためた短い手記を添えました。
「拉孟(ラモウ)の将兵はよく軍旗を護り、連隊長殿が帰られることを信じ、最後の一兵まで血戦を続けます。
小雀はチューチューと鳴いて親雀の帰りを待っております。
私共はどんなことがあっても連隊の名を汚すようなことはいたしません」
死を覚悟した中にあって、彼は残る自分たちを子雀(すずめ)にたとえました。
真鍋大尉は、壮絶な戦いの中にあってさえ、情緒を忘れない人だった。
木下昌巳中尉には、山本熊造伍長と窪山俊作上等兵が同行しました。
3人は真鍋邦人大尉ら生き残りの将兵に見送られ、是が非でも生き抜いて任務を完遂するためにと、闇の向こうに広がる死地に、飛び込みます。
――――――――――
最後のとき
――――――――――
朝日が昇りました。
この日いちにち、残った将兵は必死に戦いました。
もう、弾薬はすべて撃ちつくしています。
手榴弾も、もうありません。
軍刀も銃剣も、ほとんどが折れたり大きく刃こぼれしています。
これまで、鬼気迫る闘いを続けていたが、どうやら最期のときが訪れました。
昭和19年9月7日、午後5時、真鍋大尉は、最後の突撃を決断します。
彼は残った全員を集めて訓示した。
「諸君!、長い間ごくろうであった。ほんとによくやってくれた。亡き金光隊長にかわって、あらためて礼をいう。」
そう言うと真鍋大尉は、軍刀を抜き放ち、
「男らしく、立派に死のうではないか!」と、怒号します。
「いざ!」
先頭に、真鍋大尉。
その後ろに連隊旗手黒川中尉が続きました。
その後ろを、かろうじて動ける兵たちが、一塊になって追いました。
意識のない兵、手も足も動かせぬ重傷兵は、戦友がとどめを刺して殺しました。
自力で歩けない兵たちは、互いに刺し違えて自決しています。
このとき、天草からやってきた女たちは、何よりも大切にしていた晴着の和服に着替えたそうです。そして戦場のすすで汚れた顔に、最後の化粧として口紅をひき、全員、次々に青酸カリをあおりました。
この日まで、喜びも悲しみも共有してきたのです。
辛さも苦しさも分け合ってきた。
その彼女たちは、ともに戦い続けた男たちの運命に殉じ、あとを追ったのです。
そして、
真鍋大尉以下の最後の日本兵たちは、雲南遠征軍の大集団のなかに消えていきました。
この物語には、後日談があります。
玉砕の当日、命令を受けた木下中尉が決死の脱出を試み、奇跡としか言いようのない生還を果たしたのです。
木下中尉は、辛うじて味方の第56師団の前線に辿り着きました。
そして戦闘の様相を克明に報告します。
重傷の兵が片手片足で野戦病院を這い出して第一線につく有様。
空中投下された手榴弾に手を合わせ、一発必中の威力を祈願する場面。
弾薬が尽きて敵陣に盗みに行く者。
取り残された邦人女性約15名が臨時の看護婦となり、弾運びに、傷病兵の看護に、または炊事にと健気に働く姿などなど。
報告を受ける56師団も、語る木下中尉も、ただ涙あるばかりであったといいます。
松井少将も、部下を救い得なかった無念の思いで、暫し悲憤の落涙を禁ずることができなかったそうです。
【編集後記】
いかがでしたか?
拉孟(ラモウ)には、特要員と呼ばれた女性が20名いました。
熊本県天草出身が15名、朝鮮半島出身者が5名です。
特要員というのは、要するに売春婦です。
戦いが始まる前に、金光隊長は、彼女たちに拉孟(ラモウ)からの脱出を命じました。
しかし、日本人女性15人は、拉孟に残ると言って聞かない。
脱出したのは、朝鮮人女性5人だけでした。
その中の一人が後年、NHKと朝日のやらせの「女性国際戦犯法廷」で、後年、「日本兵の自決の巻き添えになるのを恐れ、逃げ出した」、「私たちは置き去りにされた」と証言しました。
このことについて、この戦いの記事を靖国神社の会報に寄稿した桜林美佐さんは、次のように書いています。
~~~~~~~
「逃げた」のか、「逃した」のか、その論議はあまりにも虚しい。
ただ、彼女たちを死なせなかった元「慰安婦」を含む守備隊兵士たちの「優しさ」に敬意を表するのみであり、また彼等の慈悲を踏みにじるような所業には、怒りを通り越し、憐れみすら感じてしまう。
守備隊と共に戦い、玉砕した女性たちは、そのとき既に「慰安婦」としてではなく、まさに「兵士」として最期を迎えたのであり、彼女たちは靖国に祀られたいと願ったのではないか、という思いが頭をよぎる」
そして、桜林美佐さんは、さらに次のように続けます。
「『この戦闘の様子は誰が伝えるのだ』この金光隊長の言葉が六十年を過ぎた今でも、私には聞こえるような気がするのである。
遠く雲南省の果てに、今なお守備隊兵士は孤立し、残されたままだ。
金光は、この拉孟守備隊の真実を「遺族」に伝えることを望んだが、それはまさに私たちを指しているに他ならない。
何故なら一億二千万の国民全てが「遺族」であると、私は考えているからだ。
彼等が戦いぶりを「伝え」「残したい」と熱望した、「遺族」である我々日本人の頭の中に、「拉孟」の「ら」の字もあるだろうか。
私たちは骨も拾わず、感謝もせず、ただ忘れるばかりの日本人ではなかったか。
『古い上着』の内ポケットに忘れてきた『最も大切なもの』は、『英霊への想い』なのではないかと、私は思うのである。」
桜林美佐さんの言葉にある「金光はこの拉孟守備隊の真実を遺族に伝えることを望んだが、それはまさに私たちを指しているに他ならない」という言葉は、重く私たちにのしかかります。
金光隊長たちは、いったい何のために、そこまでして戦ったのか。
それは東亜の平和のため、私たち日本人を守るためではなかったか。
この歴史こそ、後世に生きる私たちが「常識」として知っておかなければならない事柄なのではないか。
※この記事は2009年12月の記事のリニューアルです。
お読みいただき、ありがとうございました。
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