小林さんちのアインズ様 作:タッパ・タッパ
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一歩踏み出すたびに、足が乾いた土の中にめり込み、掻きだされる形となった土が斜面を滑り落ちていく。そんな脆い足場の急
ほどなくして、彼は頂きにたどり着いた。
その高地の
すると踏みしめられた地面にひび割れが生じた。
それを見て取り、彼は数歩後ずさる。重力に耐え兼ねた崖の端が周囲を巻き込むように崩れ落ち、幾度か岩壁にぶつかりながら、はるか脚下へと落ちていった。
その崩落の
そこに広がるのは起伏に満ちた、赤茶けた色の大地。
ただひたすらまったいらな平地が広がったかと思うと、不意に断崖絶壁によってその行く手を阻まれる。およそ数キロから数十キロ、あるいはそれ以上はあろうかという巨大なクレーターが所々にある大地には、人間の頭ほどから野球場を優に超える大きさのものまで、大小さまざまな岩石が転がり、礫砂漠を形作っている。
視線の届く限り、この地に動物、植物問わず生命の気配はない。
そして、赤い地平線のわずか上には、今、ゆっくりと沈みゆく太陽がある。
およそ46億年もの間、絶えず発生し続ける熱核融合の光と熱を分け与えてくれていたその姿は普段、屋上で日向ぼっこをするときに見る、直視すら躊躇われるような灼熱の塊より、わずかであるが弱々しく見えた。
アインズははるか上空を見上げた。
遮るものもない天空。
日の光がまだあるため、いささか視認しにくいが、それは確かにそこにあった。
そのはるか高きに鎮座している、青く輝く惑星。
地球。
アインズが今、踏みしめている、この荒涼たる世界。
およそ現代、21世紀初頭において、生命の確認されている唯一の星である地球をはるか頭上に臨む、ここはどこかというと――。
――太陽系第4惑星、すなわち火星である。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
一体なぜアインズがこんな地球をはるかに離れた地に足を踏み入れたかと言うと、それには深い理由があるのである。
ここ最近のことであるが、アインズの居候する小林家において、ささやかどころではない変化があった。
新たなるドラゴン、イルルが加わったことである。
当初は人化の術も上手く使えぬまま爪や尻尾が出っぱなしであったり、また現代社会の常識にもとんと疎かった彼女であったが、他のドラゴンや周辺の人間たちとの関わりを通じ、段々と人間の世界にもなじんでいった。
だが、それは同時にアインズの地位を脅かすものであった。
小林家における、それぞれのポジションはと言うと――。
大黒柱にして家主たる小林。
家事一般を取り仕切るメイドであるトール。
扶養家族のカンナ。
そして、ペットのアインズである。
各々、家庭内での自分の役割を果たす中で、アインズもまた癒し系ペットとして、日々の仕事に疲れる小林に癒しと安らぎを与えていた。小林の風呂上がりに〈
そうして小林家は一種の安定した関係を築いていたのである。
だが、そこに加わったイルルという存在。
当初は小林の家で何をするでもなく日々を過ごしていたのであるが、トールからの叱責をきっかけに自分のやるべきことを探した結果、年で体のきつくなったおばあさんに代わって駄菓子屋の店員をするというジョブを得るに至ったのである。
これに焦ったのはアインズであった。
これまでは同じ無職仲間であっても、各種魔法で小林の役に立っている自分の方が立場が上であるという自負があったのだ。
だが、ここにきてイルルが働いて賃金を稼ぐようになってしまった。
つまり、新参のはずのイルルが一足飛びに、小林と並んで、一家に資金をもたらす存在になったのである。
小林家において、トールは自身で金を稼ぐ事はないとはいえ、彼女は家の中の全てを取り仕切っている。カンナは、特に仕事もしていないのだが、子供である彼女と張り合うのは大人として間違っていると言わざるを得ない、ということはアインズとて容易に分かる。
「自分より大丈夫じゃない人間を見て、自分はまだ大丈夫と思うのは、実は全然大丈夫じゃない」というのは、とある漫画の台詞であったが、それはまさに、とりたてて何もしていないイルルを見て、安心していたアインズそのものにぴったりとくる台詞であった。
とにかく、アインズは慌てに慌てた。
なんとかして、自分も金を稼がねばと、特に意味もない対抗心に囚われてしまっていた。
そんなとき、点けっぱなしだった居間のテレビが映していた光景。
それは火星に送り込まれた探査機が、地球をはるか離れた現地において調査をするイメージ映像であった。
その瞬間、アインズの脳に天啓が走った。
――火星から希少なものを持ち帰れば、それは高く売れるのではないか?
幸いにしてアインズは〈
これならば、火星にだって行けるはずだ。
しかし懸念もある。
それまでアインズはそんな長距離転移はやったことがなかった。
これまで〈
現代世界に来てから、色々と実験はしてみたものの、それでもそのうちで最も長い距離はせいぜいが12,756キロメートル。
つまり、この地球上において直線距離で最も遠い場所――赤道付近において地球の反対側まで行ってみた程度である。
それに比べて、他の惑星である火星に行くというのは、文字通り桁が違う。
十年に一度ほどのもっとも地球に近い場合の最接近時でも、その距離はおよそ54,000,000キロメートルは離れているのだ。これは、およそこれまでアインズが
そして、逆に最も離れた場合の距離に至っては、およそ313,000倍。ざっと400,000,000キロメートルにもなる。
いくら設定上、移動できる距離は無限であるとはされていても、そんな気の遠くなるほどの距離――まさに天文学的数字である――を、しかも惑星間の移動など、〈
出来たのである。
試しにやってみたら、実にあっさりと成功した。
拍子抜けするほどであった。
今、世界中で目も眩むほどの予算をかけて火星を目指している研究者たちが知ったら、泡を吹いて卒倒しそうな話であるが、とにかくそうしてアインズは、さっくり火星の土を踏んだのである。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
見渡す限りの赤い大地を眺めるアインズ。
その光景は圧巻としか言いようがない。
この壮大なパノラマをカメラ越しではなく、生で眺めるのはおよそ地球の人類として、アインズが初めてであろう。
そんな人類初の偉業を達成し、かくも偉大な大宇宙の作りし造形、そしておよそ人類の想像しうる限度を超えた絶景を前にして、アインズはつぶやいた。
「飽きたなあ……」
火星に来てから早や数時間。
アインズはあちらこちらを見て回った。
だが、当然であるが、何もないのである。
行けども行けども、ひたすら同じ光景が続いているだけなのである。
まだ地球の砂漠などならば、一見なにもいないように見えても、実はあちらこちらに隠れ潜んだ生物がいるし、また砂漠のどこかにはちょっとしたオアシスがあったり、砂の中に埋まった古代遺跡などというロマンをかきたてるものもあるだろう。
だが、ここは火星である。
川や池もなければ、草木が生えているわけでも、野生動物がいるわけでもない。ましてや、古代文明の遺跡や、噂となった運河などがあろうはずもない。
あるのは、ただ荒涼とした赤い大地に岩が転がる風景と、ときおり吹き荒れる砂嵐程度だ。
地質学者や天文学者ならば、その辺の土や岩にも大喜びしたであろうが、そんな専門知識のないアインズにとってはただの石ころでしかない。
勢い込んで来たものの、とくに見るべきものもない光景に当初のやる気も失せ、なんだか意気消沈してきたアインズ。
なげやりな気分で辺りを見回していると、ふとその視界の端に、なにやら光る物が見えた。
とにかく、暇を飽かしていたアインズは、そこに何があるかと行ってみることにした。
アインズは〈
最初は地球の四割程度しかない火星の重力の下、歩いたり飛び跳ねたりするのも楽しかったのであるが、もはやそれも飽きてしまっていた。
そして、アインズは魔法の力によって、先ほどの光が見えたところへ、文字通り飛んでいった。
「ふむ……これは……」
ふわりと着地したアインズの目に前にあったもの。それは奇妙な、虫にも似た機械であった。
およそ軽自動車よりわずかに小さい程度の大きさであったが、昆虫の足のようなその先にはタイヤがついている。そして、平たい身体の向かって左側からぴょこんと生き物の頭部のように金属のパイプの上に取り付けられたカメラ。
火星に来てから、何も面白そうなものがなかったアインズの心境として、砂漠にオアシスを見つけ出したようなものであった。
その銀色のボディを指先でツンツンしてみる。
冷たい金属の感触。
今度は大胆にあちらこちらを触りながら、これならば持ち帰る価値はあるんじゃないか、と考えた。
だが、ふとその脳裏をよぎったものがある。
それはアインズが火星に行こうと思ったきっかけ。
テレビでやっていた火星探査の様子。
たしか、その映像で映し出されていたのが、今、目の前にあるこの不思議なロボットであったような気がする。
――あー……となると、これを持って帰るのは拙いか。
ちょっと……いやかなりの問題になるな。
……仕方ない。諦めるか。
そう結論付けたアインズは、ないはずの後ろ髪を引かれる思いながら、自走型火星探査機キュオリシティのそばを離れた。
再び〈
だが、その視界の範囲内には、他に何か興味深そうなものなど存在しない。
このまま〈
何もない虚空が一瞬歪んだかと思うと、そこから戦闘機ほどもある巨大な骨の竜が忽然と姿を現す。
アインズはその背にまたがると、はるか火星の空の向こうへと飛んでいった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ゆっくりと火星の大地に日が沈んでいく。
地球と比べて太陽から遠いうえ、大気も薄く、海もない火星の空気はすでにひりひりする感覚を覚えるほどに冷えきっているが、冷気に対する耐性を持つアインズにとっては全く問題はない。
あれからアインズは、スケリトル・ドラゴンの背に乗り、旅をつづけていた。
すでに小一時間ほど飛び続けているのだが、その間に変わったことといえば、沈みかけた太陽に背を向け飛び続けたため、火星の自転速度よりも早く、宵闇の世界へとたどり着いたくらいである。
はるか上空を飛ぶその眼下に広がるのは、相も変わらず、所々に大小さまざまな岩が転がる大地。あちらこちらでは猛烈な砂嵐が巻き起こり、起伏に富んだ地形を削り、そこを新たな障害物だらけの地へと作り替えている。
行けども行けども代わり映えのしない光景に、いささかうんざりしたアインズは自らが呼び出したスケリトル・ドラゴンの上に寝そべった。
意外と器用に、竜の背骨部分に体を固定し、そこで仰向けに寝転がる。
頭の下で腕を組み、アインズは火星から見える星空を眺めながら、ぼんやり風を切る音だけを聞いていた。
不意に――その骨だけの竜の体が激しく揺らいだ。
突然のことに、すでにないはずの心臓がビクンと跳ね上がるかと思うほどに驚き、アインズはスケリトル・ドラゴンの上で、その身を起こす。
再度、衝撃。
優雅に火星の空を飛び続けていたスケリトル・ドラゴン。
その身体が大きく
何が起こったのか、思念で問うより先にアインズの目に飛び込んできたのは、黒く炭化したスケリトル・ドラゴンの骨の翼であった。
その眼前を白い稲妻にも似た光が閃く。
――下!
竜の骨の隙間から脚下を見下ろすと、初めてこの地に足を踏み入れたのはアインズであり、彼以外は誰もいないはずの火星の大地、そこに2つの人影があった。
その姿を視認したと思った瞬間、再び彼らの許より謎の稲妻が飛来し、宙を舞うスケリトル・ドラゴンの身体を捉えた。
その身に受けた多大なダメージにより、肉体を構成することが出来なくなったスケリトル・ドラゴンの身体がぼろぼろと崩れていく。
騎乗していた竜を失ったアインズは〈
降り注いでは掻き消す様に消えていく、その白い雪のようなスケリトル・ドラゴンの破片が降り注ぐ中、両者は対峙した。
銀色の宇宙服のようなものを身にまとった、その姿。
それを目の当たりにしたアインズは思わずつぶやいた。
「……火星人?!」