小林さんちのアインズ様   作:タッパ・タッパ
<< 前の話 次の話 >>

4 / 10
 エルマが小林を呼ぶときの呼び名は、会社に就職したばかりの頃が『小林先輩』で、その後は『小林さん』なんですが、会話文でエルマの発言と分かりやすくするために『小林先輩』で統一しようと思います。

2017/8/2 いくつかのアラビア数字を漢数字に変更しました


第4話 お役に立ててますか?

 陽光を浴びて輝く白い砂浜に、寄せては返す白波。

 

 きらめく水面(みなも)のかなたに広がる水平線に冒険心をくすぐられ、すこし沖へとボートで漕ぎだしてみれば、透き通るような海は視線を遮ることなく、そこに泳ぐ極彩色の魚や不思議な形をしたサンゴに覆われた海底の様子まで、はっきりと目にすることが出来る。

 ふと、元来た陸地の方へと目を向ければ、砂浜の向こうに広がるのは人の手など加えられていない豊かな森林。

 風が吹くたび、森の木の葉が揺れ、互いにこすれ合う音が億万の自然の交響曲として響き渡る。

 そこには車のエンジン音やスピーカーから垂れ流される音など人工のものは一切ない。それどころか人の話し声すら皆無である。

 

 耳に届くのは森の奏でる葉擦れの音と、際限なく続く波の音、そして名も知らぬ鳥たちのさえずり声のみ。

 

 太陽ははるか頭上で燦燦(さんさん)と輝き、この地上の楽園を照らし出していた。

 

 

 

 そんな南国の浜辺。

 サンゴのかけらで作られた白い砂浜の上には、場違いのように据えられた一脚のビーチチェア。

 その上に横たわる人影は、優雅にその足を組み替える。

 

 

 じりじりと照り付ける灼熱の太陽にさらされてもなおその足は白く、ほっそりとしたその形はまるで人の手になる芸術品のよう。

 申し訳程度にきわどい水着のみで覆われたその体は、無駄な贅肉というものが一切ない完璧な身体であった。

 

 

 頭の下で組んでいた手をほどき、黒曜石からそのまま削りだしたかのようなワンレンズのサングラスをわずかに持ち上げる。

 

 見たものの心を捕らえ、意識そのものを引きずり込むかのように神秘的な輝きを放つ、その漆黒のシェードの奥に見えたもの。

 それは爛々と輝く、生ある者を妬み、憎む死者の怨念を思わせるような深紅の灯り。

 

 

 

 アインズであった。

 

 

 

 ここは日本からはるか南に数千キロ。

 東南アジア某国の無人島である。

 

 数千キロと言われると、とんでもない距離に感じるかもしれないが、アインズは〈転移門(ゲート)〉という距離無限、転移失敗率0%の魔法が使えるのである。

 正直、近所のコンビニまで歩いていくより早くて楽なのだ。

 

 

 

 それにしても、実に南国の景色には似合わない男――いや、アンデッドである。

 (はた)から見ると、誰もいない無人島の浜辺に放置されたビーチチェアの上に一体の白骨死体が転がっているようにしか見えない。

 もし、航空写真なりでその光景が撮られでもしたら、ミステリーの題材となって、しばしの間ネットをにぎわすであろうことは間違いない。

 アインズに似あっているのは、燦燦と光り輝く太陽の下にいるより、海辺の洞窟の中に隠された宝箱の上に横たわっている方である。 

 

 ともあれ、そんな美しい大自然に紛れ込んだ自分の異質さなど気にも留めずに、アインズはバカンスを楽しんでいた。

 今日はいつものグレート・モモンガ・ローブすら脱ぎ捨て、ブーメランパンツ一丁で南国の日差しと向き合っている。

 いや、お前の身体のどこに隠す要素があるんだよとも言いたくなるが、それはさすがに全裸は気恥ずかしいという人間としての残滓が働いたためである。

 

 

 

 しかし、こうして真昼間にリラックスしているアインズの様子に、おやと思う方もいるかもしれない。

 前回の話において、アインズはニートからパチンカスへと見事ジョブチェンジを果たしたはずである。 

 そのはずなのに、どういうわけだか今、アインズの姿はパチンコ屋にはなく、こんな無人島の浜辺にあるのだ。

 

 ここは日本からはるか遠く離れた南国ではあるが、あいにくとこの場所は緯度はともかく経度は日本の兵庫県明石市とさほど離れていない所である。時差といってもせいぜい1時間程度であり、こうしている現在も日本ではお天道様(てんとさま)が上空に鎮座していらっしゃる時間帯である。

 

 一体なぜ、昼日中だというのにアインズはパチンコ屋にも行かず、こうしているのかというと、それには長く深い訳があるのである。

 

 

 

 アインズはこの世界での資金調達の手段としてパチンコを選んだ。

 そうして、日々、パチンコ屋の開店と同時に出勤しては、労働に(いそ)しんだわけではあるが、そこに落とし穴があった。

 

 労働環境の改善が話題となる昨今、一度台についたら食事にもトイレにも立たずに大当たりを出し続ける猛烈社員のアインズに待ったがかかった。

 不正をしているのではないかと疑いの目を向けられ、アインズが店に入ると同時に店員のチェックが入るようになったのである。

 

 盗賊職は取ってはいないものの、100レベルキャラとしての能力値の高さから、自分に監視の目が向けられている事に気がついたアインズ。

 ならば、と自分の身体を包む幻覚をそのたびに変えることで、監視の目を誤魔化し、店に通い続けた。

 

 だが、その結果、いかさまをしているのは1人の男ではなく、なんらかの集団が組織的に不正行為を働いているらしいと思われてしまった。さらには、その噂が近隣の店舗にまで流れ、何やらとんでもない大ごとへと発展してしまったのだ。

 

 すでに近隣のパチンコ店では、店に入った客一人一人の顔を確かめ、遊戯中もひっきりなく店員が後ろを通り抜けつつ店中を見て回り、どこかで連チャンが回り始めたら、すかさず店員が張り付き不正がないか監視するという有様である。なんだかもう店舗中にギスギスとした空気が流れており、そんな空気の中、段々と他の客たちも居心地の悪さから足が遠のき始めていた。

 そして、さすがにアインズもそんな監視の中、ばれぬように魔法で球の動きを操作するなどのいかさまをするのも面倒になってしまっていた。

 

 

 そこで、アインズはパチンコに執着することなく、さっさと見切りをつけた。

 

 アインズの胸には、こうしてちまちまパチンコで稼ぐ事にしがみつく他に、すでに新たなるビジョンがあったのだ。

 

 

 それは世界。

 

 そう、海外にある本物のカジノへ遠征に行こうという計画である。

 

 

 

 日本から外国へ行くのは、いささかハードルが高い。

 パスポートだの、ビザだの、あれこれ申請だのと手続きが煩雑であるというのもさることながら、日本において外国の事を海外と称するように、四方を海で囲まれた島国である日本から他国へ行くには、海を渡らなくてはならない。とくにアメリカとの間には広大なパシフィック・オーシャンが横たわっており、飛行機で飛ぶ、船で渡る、もしくは太平洋を泳いで渡るなどの手段を講じなくては行くことは出来ない。

 

 

 普通の人間にとっては。

 

 

 だが、普通の人間ではないアインズの前には、そんな些事など問題では無い。

 アインズは〈転移門(ゲート)〉の魔法に〈遠隔視の鏡(ミラー・オブ・リモートビューイング)〉を組み合わせることで、地球上のどこへだろうと瞬く間に移動することが出来るのだ。

 

 そうしてやって来たのはカジノの殿堂にして本場、アメリカはラスベガスである。

 おのぼりさんらしく辺りをきょろきょろと見回したくなる衝動を抑え、アインズはネットの情報と本屋での立ち読みとで得た知識を武器に、意気揚々と一軒のホテルに併設されたカジノへと足を踏み入れた。

 

 

 

 はてさて、結果はどうなったのかということである。

 

 まあ、ラスベガスに行ったはずのアインズが、こうして南の島の海辺で一人、ビーチチェアに寝そべり、「あああぁぁー」とおっさんくさい声をあげて伸びをしていることからも想像は出来るだろう。

 

 端的に言うと、失敗であった。

 

 

  

 自動ドアをくぐってカジノに入店し、何気ない顔でそれとなく周囲を見回し観察するアインズ。

 ウエイトレスの女性がサービスドリンクの注文を聞きに来たときも、彼は動じることは無かった。

 素の鈴木悟なら、見目麗(みめうるわ)しい白人女性が自分の方へと歩み寄ってきでもしたら、確実に平静ではいられなかっただろう。キョドってしまったであろうことは間違いない。

 

 だが、今の彼は以前とは違い、ナザリックの支配者として鍛えられた身。

 相手は一目で美人と知れる外見であるが、なに、ナザリックのメイドに比べればなんという事はないなと落ち着き払い、堂々たる態度を堅持していた。

 

 

 

 だが、その次の瞬間、アインズは凍り付いてしまった。

 

 

 

 アインズはすっかり忘れていたのだ。

 

 ここは向こうの世界とは異なり、国や地域によって言葉が異なるという事を。

 

 

 向こうの世界ではどういう訳だか、口から発せられた言葉は自動的に日本語に翻訳されて聞こえていた。そのため、どんな相手であろうと、どこに行こうと会話が出来た。

 

 だが、現実では違うのである。

 

 

 鈴木悟は小卒であり、英会話など出来ない。

 必要なかったからである。

 

 彼の時代では、誰もが持ち歩く携帯端末に翻訳アプリをダウンロードさえすれば、それで英語を話す人間とも意思疎通が出来た。そのため、それなりの上流階級でもない限り、外国語の学習などしなかった。

 そして、アインズの知っている英単語といえば巻物(スクロール)爆発(エクスプロージョン)呪い(カース)魔法(マジック)ハゲワシ(ヴァルチャー)等々、およそ実生活で使う事などまるでないものばかりである。

 ちなみに、かっこいいと思って勉強したドイツ語も、各種単語や決め台詞や慣用句などを丸暗記して憶えただけで、ドイツ語で会話できるほどではない。

 

 

 

 とにかく言語の壁という、バベルの塔を築き、身の程知らずにも神の許へと辿りつこうとした愚かなる人間に下された罰の前に、アインズは完膚なきまで敗北を喫し、()()うの(てい)で逃げ帰るより他になかった。

 

 

 ついでに言うと、アインズの持っていた通貨は日本円であり、アメリカで使用されているドルの持ち合わせがなかったことも原因の一つである。

 

 

 

 そうした失敗の結果、アインズは全ての事から逃げ出し、こうして人っ子一人いない南の島で気分転換をしているという訳である。

 

 今の彼の姿は、世間的に見て、無能な者の愚かな逃走に見えるかもしれない。

 人間だれしも人生において、失敗は避けられない。一つの失敗にへこたれず、失敗を成功の糧として新たなることにチャレンジしていくのが人間であり、それを積み重ねて成長し、一人前の人間へと位階を進めていくのである。

 

 一つ失敗するごとにバックレてしまっていては、何も成長しない。

 

 

 だが、しかし待ってほしい。

 いったい成長することが良い事だなどと誰が決めたのだ?

 

 

 ブルー・プラネットの言によれば、かつて海の中にいた巻貝は淡水の川へと進出してタニシとなり、陸上へと棲息圏を広げてカタツムリとなり、そしてさらに狭いところへも容易と侵入出来るようナメクジへと進化したのだという。

 殻を背中にしょったカタツムリの人気たるや、子供からロイコクロリディウムに至るまで種族を問わずモテモテであるが、一方、ナメクジの不人気さといえば、もはや口にする必要すらないほどである。

 もし、()の生物がナメクジまで進化せず、カタツムリのままでいたのならば、今でも人気者のままでいられたのではないか? 見た目が気持ち悪いと言われ、作物の苗を食べるなどの実際の害以上に蛇蝎のごとく――いや、蛇も蝎も見たことがない人も増える昨今、それらよりも嫌われ、駆除される羽目にはならなかったのではないだろうか?

 

 かかる一件を持ってしても、必ずしも成長、進化が良い事とは言えぬであろうというのが、アインズの結論であった。

 

 

 それにアインズはニートと面罵され、(いや)しめられたのであるが、そもそもな話、ニートで何が悪いというのであろうか?

 

 『働かざるもの食うべからず』

 

 現代日本においても広く語られ、労働という重荷を背負わない人間を当て擦るための凶器として使われる言葉である。

 だが、タブラ・スマラグディナによると、これはもともとキリスト教における新約聖書の言葉であるのだが、この言葉を現代の世に解き放ったのは誰であろう、共産主義の下にソビエトを作ったレーニンである。

 なぜ、資本主義の現代日本において、1%もいないキリスト教の言葉を、そして共産主義者の言葉を金科玉条のごとくに扱わねばならないのか?

 宗教は麻薬だとか言う類いの人間が、その宗教の言葉を利用しているなど、片腹痛い。そんな詭弁に惑わされる道理など欠片も存在しない。

 

 

 しかし、それでも反論しようとする者はいるであろう。

 この日本には三つの義務がある、と。

 だから、その義務を果たしていないアインズは罵倒されても仕方がないのだ、と。

 

 日本国民の三大義務。

 学校で習うが、すなわち『納税』・『勤労』・『教育』の義務である。

 なるほど、確かにアインズはそれらの義務を果たしてはいない。一応、果たしているのは買い物をするとき、消費税を払うくらいだ。

 

 

 だが――。

 だがしかし、それはあくまで日本国民の義務である。

 

 アインズは日本国民ではないのだ。

 

 一応、未来では日本国民かもしれないが、法の非遡及の原則に基づき、現段階においては日本国民とはみなされないはずである。

 

 

 アインズが所属するのは、日本ではなくアインズ・ウール・ゴウン魔導国。

 それも彼は国王である。

 

 王。

 英語でキング。

 ドイツ語でケーニヒ。

 イタリア語でレ。レレレのレッ! である。

 

 王たる者のすべきことは節制に励むことではなく、自分のもとに集められた富をあまねく民衆にばらまき、金を循環させる事である。

 アインズが暇を持て余して読んだ多くのネット小説でも、そう言っていた。

 そう考えれば、今のアインズは経済を廻している良い存在と言えよう。

 

 そう、アインズが本気を出して稼いでしまうと、この世の富が彼の下にすべて集まってしまう事になるのだ。それは拙いのである。

 アインズは本当はやれば出来る子なのであるが、本気を出していないだけなのだ。アインズはこの世界の者達に対し、ハンディキャップとして手加減をしてあげているのだ。

 だから、こうしてアインズがのんべんだらりと何もせずに過ごしている事は、世界的に見れば決して悪い事ではないのである。

 

 

 

 そんな詭弁のゆりかごに揺られ、途切れることなく耳に響く波の音を聞いていたアインズであったが、そんな彼の頭にピキーンと表現するしかない信号のようなものが走った。

 

 創造者であるアインズと彼が作り出したアンデッドとの間には、意識的なつながりがある。

 そして今、連絡用にと小林の部屋に残してきた百足状の骸骨(スケルトン・センチュピート)――試しに作ってみたら、その巨大さから無駄にスペースを取ってしまい、すこぶる不評だった――から、至急の合図があった。

 

 

 アインズはビーチチェアからゆらりと立ち上がると、一人でいつもの服に着替えるという事に少々手間取りつつも身支度を整え、そして〈転移門(ゲート)〉の魔法によって、小林の家へと戻った。

 アインズの姿が消えると、〈上位道具創造(クリエイト・グレーター・アイテム)〉で作られたビーチチェアは掻き消す様に消滅し、その場には先ほどまで誰かいたという痕跡は欠片も残らず、ただ潮騒の音だけが響いていた。

 

 

  

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

「じゃあ、お先に失礼しまーす」

 

 そう言って同僚たちが事務所を出ていった。

 「お疲れー」という小林の言葉の後に残ったのは滝谷、そして新人としてこの会社に就職したドラゴンであるエルマの三人のみである。

 

 

 バタンと扉が閉まり、しばし後、玄関の扉が閉められた音を聞いてから、ようやく小林は安堵の息を吐き、背もたれに体重を預けた。

 そして、女性としてとても平坦な胸のポケットから、水滴型のイヤリングを取り出すと、つまみあげたそれに向かって声をかける。

 

「もしもし。ええと、聞こえる、アインズさん? 皆、いなくなったよ」

 

 

 その声と時を同じく、人影のいなくなった事務所に揺らめく暗黒が現れたかと思うと、そこからホワイトブリムを頭につけたメイド、そして漆黒のローブを身につけた骸骨が出てきた。

 

 

 言わずと知れたトール、そしてアインズである。

 

 

 幾度か認識阻害を使い、小林の職場を訪れた事のあるトールと違い、アインズはこの時代の職場というものは初めてである。物珍し気に、辺りを見回した。

 そんなアインズは置いておき、小林はトールに確認する。

 

「トール、カンナちゃんは?」

「カンナなら、もうベッドで眠ってますよ」

 

 その答えに満足そうに頷き、小林はまだきょろきょろとしているアインズに声をかけた。

 

「じゃあ、悪いんだけど、アインズさん。よろしくね」

 

 アインズは、その背にかけられた言葉に居ずまいを正し、言った。

 

「ああ、任せておくがいい」

 

 

 

 事の発端は昨日のことである。

 苛酷なデスマの間ながら、偶然にも彼女一人だけぽっかりと時間が空いたため、これ幸いと早めに帰宅し、ソファーに突っ伏して体を休めていた小林の許へ、学校から帰って来たカンナが一枚の紙を持ってきたのだ。

 

 そこには授業参観のご案内と書いてあった。

 

 だが、今日は偶々早く帰れたものの、明日以降もぎっちり仕事が詰まっている。一日休んで、授業参観に行くことなど出来ようはずもない。

 

 そこで断ろうとした小林と、どうしても彼女に来てほしいカンナの間ですったもんだがあり、最終的に小林は会社に無理を言って、その日一日休みをもらったのだ。

 

 

 だが、それに対して会社側は一つの条件を突きつけた。

 それは、小林が休む一日分の仕事を前もってこなしておくように、というものであった。

 

 

 普通に考えれば、そんな事出来ようはずもない。

 そもそも、時間に比してやらねばならぬ仕事量が多すぎるから、デスマなどという労働基準監督署に睨まれそうな状態が放置されているのだ。そんな状況下において、さらに一日分、作業を進めろなどというのは狂気の沙汰。はっきり言って断らせるための口実でしかない。

 

 だが、小林は敢えてその条件をのんだ。

 大方の事情を聞いたアインズが協力を約束したからである。

 

 

 そして、今晩中に一日分の仕事を前もって終わらせるべく、こうして滝谷やエルマにも手伝ってもらい、他の者達が皆帰った会社に集合したという訳だ。

 

 

「ごめんね、滝谷君。つき合わせちゃって」

「ははは、別にいいって。カンナちゃんの為なんでしょ」

 

 頭を下げる小林に、さわやかに笑ってかえす滝谷。そんな彼をトールは、親の仇を見るような目で睨みつけている。

 

「エルマもごめん」

 

 言われたエルマは、その豊満な胸を張った。

 

「まあ、構わんとも。小林先輩の頼みだからな」

「後で駅前のストロベリークレープ奢ってあげるね」

「クレープ?!」

 

 とたんに、そのメガネをかけた理知的な顔が緩む。口の中いっぱいに広がるクレープの甘さを想像し、その口元からよだれがじゅるりと垂れる。

 

 幸せな妄想に浸っている彼女にはそれ以上構わず、小林はもう一度アインズに声をかけた。

 

「よし、じゃあ、始めようか。それでアインズさん、昨日言ってたこと本当にできるの?」

「もちろんだとも。私にとっては容易い事だ」

 

 

 やる事は実に単純だ。

 問題となっているのは、割り当てられている作業量に対して、それに取り掛かる作業時間が圧倒的に少ないことである。

 

 ならば、手っ取り早い解決方法として、作業に費やせる時間を増やしてしまえばいい。

 

 

 アインズは魔法によって時間を止めることが出来る。

 一回一回の効果時間はそれほど長くは持たないが、魔法職を極め、膨大なMP量を誇るアインズはそれを幾度も掛けることが可能なのだ。それの連続使用によって、現実の時間をほとんど経過させずに、作業時間を確保しようという計画であった。

 

 さすがに何度も使えば、アインズのMPもやがては尽きてはしまうが、たとえ一旦MPが無くなってしまっても、およそ六時間ほども休めば全快する。今、深夜であるから、ここで使いきっても早朝にはもう一度MPが満タンまで戻る計算である。つまり、二度にわたって時間停止による引き延ばしを試みることが可能なのだ。

 おそらく、それくらい使えば、かなりの作業時間を確保できるはずであり、なおかつ三人で作業すれば、小林の仕事一日分程度は消化できるだろうという目算であった。

 

 

 

「では、先ず一度使ってみるとしよう。準備はいいか?」

 

 その問いに、小林らはこくりと頷く。

 それを確認したアインズは魔法を唱えた。

 

 

「〈時間停止(タイム・ストップ)〉」

 

 

 そして――瞬間、時が止まる。

 

 ほんの一瞬前まで、建物の外からひっきりなく聞こえていた車の排気音もピタリと止まり、辺りは耳が痛いほどの静寂に包まれた。

 

 

「おお、本当に時間が止まってますねえ。それで、これってどれくらいの時間止まるんですか?」

「だいたい10秒くらいだな。効果時間を伸ばすことも出来るが、まあ、それでも一回で数十秒程度かな。だが、何度でも使う事が出来るから、実質かなりの時間を停止させ続けることが出来るぞ」

 

 トールの問いに、やや自慢げに返すアインズ。

 だが、そんな彼の背にかけられたのは、エルマからの困惑の声であった。

 

「なあ、アインズさん」

「ん? なんだ?」

「いや……小林先輩と滝谷先輩も動かないんだが……」

 

 見ると彼らの目の前で、小林と滝谷の2人は止まった時間の中、凍り付いたようにピクリともしなかった。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

「え? 今、時間止まってたの?」

 

 小林は不思議そうに首を傾げた。

 トールはこくりと頷く。

 

「いやあ、全然気づかなかったなあ」

「時間の停止は、普通の人間が感知できる認識の範囲外での事だからな」

 

 和やかに笑う滝谷にエルマがそう説明してやる。

 それを聞いたアインズは、ふと思った。

 

「そう言えば、トールやエルマは停止した時間の中でも普通に動いていたな」

「そりゃもうドラゴンですから。いちいちアイテムとかであれこれ対策をしなくちゃならない劣等種とは違いますよ」

 

 ケラケラと笑って言うトールをエルマが補足する。

 

「ドラゴンは基本的に大抵の状態異常に対して耐性を持つからな。時間の他に睡眠、即死、毒、病気、麻痺なども無効化するぞ」

「あれ? そうなのか?」

 

 うーんと思い返してみるが、記憶にあるヘジンマールの父親は〈心臓掌握(グラスプ・ハート)〉であっさり死んでいた気がする。

 

「まあ、ドラゴンと一口に言っても、その種類は多岐にわたるし例外もいる。種族的に睡眠や酩酊に弱いとかな。それにドラゴンは基本的に年を経るごとに力を増していくから、年の若いドラゴンはそういった耐性を持たない者もいる。私やトール、それにファフニール殿やルコア殿はともかく、おそらくカンナはまだ時間に対する耐性は持っていないだろうな」

 

 その解説を聞いてなるほどと思った。

 ゲームであったユグドラシルでのドラゴンは、ほぼ確実に〈心臓掌握(グラスプ・ハート)〉一発では死なず、ほんの一瞬、副次効果である朦朧状態になる程度であった。だが、ドワーフの都市を占拠していたあれらは弱い個体ばかりであったので、抵抗すら出来ずに即死したのだろう。魔法もせいぜい第三位階までしか使えないと言っていたから、納得である。

 

 

「まあ、すこし待て。時間対策のアイテムならある」

 

 そう言うとアインズは、アイテムボックス内へ手を突っ込んだ。

 時間停止対策を施していなければ、小林らまで止まってしまうというのであれば、彼女らに時間停止に対するアイテムを渡せばいいだけの話である。

 

 時間系に対しては自身、そしてギルメンたちも含めて、かなり昔に対策を講じてしまっていた。そのため、もはや使う機会などなく、すでにそんな類いのアイテムは無用の長物と化していたのだが、そんなものとて捨てられないタイプのアインズである。

 アイテムボックスの奥の、そのまた更に奥へ放り込んでおいたはずのアイテムを探し、半ば空間内に体を突っ込みながらゴソゴソしていると、事務所内にピロピロと、何やら鞭を持った大学教授が世界中で古代遺跡の宝をめぐって冒険を繰り広げそうな軽快な電子音が響き渡った。

 

 なんだろうと全員の目が集まる中、滝谷は懐からスマホを取り出す。

 

「あ、はい、もしもし……ああ、ファフ君? どうしたの? ……え? 時間停止? うん、今、アインズさんが魔法で……あ、そうなんだ。うん、分かった。伝えておくよ」

 

 そう言って、ピッと通話を切った。

 小林が聞く。

 

「ファフニールさんから? どうしたの?」

「いやあ……」

 

 聞かれた滝谷は、頭を掻きつつ、苦笑して答えた。

 

「……ゲームのコンボが途切れるから、時間を止めるなって」

 

 その場にいた皆は、やれやれといった表情を浮かべた。

 ファフニールは最もドラゴンが人間と接することに忌避感を口にしていたというのに、ある意味、最も人間に染まってしまっている。

 

 

 だがしかし、困ったことになった。

 

 アインズが時間を止めると、それはファフニールがやっているゲームに差し障りがでる。

 それでも構わず時を止めようものなら、彼を怒らせることに繋がるだろう。

 

 こちらにはトールとエルマ、そしてアインズがいるとはいえ、ドラゴン達が本気で戦いでもしたら、大きな被害が出る。下手をしたら付近一帯が吹き飛びかねない。

 結果としてカンナの学校には行けるようになるかもしれないが、会社が無くなってしまっては今後の生活に支障が出る。

 

 

 小林は大きくため息をついた。

 

「はあ、じゃあ仕方ないね。今晩、これから三人で地道にやろうか」

 

 結局のところ、そういう結論になってしまった。

 滝谷は気にしないでと笑ってみせ、エルマは任せておけと胸を叩いた。

 

 

 そんな彼らに、アインズは手のひらを差し出した。

 

「そうだな……では、とりあえず、これをつけるといい」

 

 皆の視線が集まる、その手の平には赤、青、そしてエメラルドグリーンという三色の小さな宝石が嵌め込まれた銀色の指輪が三つ転がっていた。

 なんだろうと首をひねる彼女らに、アインズは説明してやる。

 

「これはバッドステータスを防止するアイテムだ。これをつけていれば疲労、睡眠、空腹などの影響を受けることはないはずだ」

「へえ、それは助かるよ」

 

 明るい声で指輪をつまみ上げる小林。

 人間の指にはめるには、いささか大きすぎる感もあるその輪を自分の指に近づけると、シュッという音と共に自動でサイズが調整され、それぞれの指にジャストフィットして装着された。

 そして、試しにそれを取り外そうとすると、先ほどとは逆戻しのようになり、また少し大きめの指輪へと戻る。

 滝谷とエルマもまた、アインズの出した指輪を手にとり、着けたり外したりを繰り返してみる。

 

「へえ、これは凄いね」

 

 感心して声をあげる滝谷。

 アインズは満足そうに頷いた。

 

「ああ、取り外しも簡単にできるようでよかった。昔は、一度つけたらそうそう外せなかったからなあ」

 

 その言葉に顔を引きつらせる小林。

 

「え? ……いや、もし取り外せなかったらどうしてたの?」

「……まあ……指を切り落とせば外れるだろうし……」

「指を切り落とす?!」

「あ、いや、大丈夫! 一度、切断してもマジックアイテムで再生できるから! ちゃんと傷跡も残らないし!」

「そういう問題?!」

 

 興奮して声をあげる小林、そして慌てて言い繕うアインズ。

 

 そうして、ひとしきり騒いだ後、小林らはようやく作業に取り掛かった。

 各々パソコンを立ち上げ、傍らに置いた資料を見ながら、入力を開始する。

 

 

 彼女らがそうやって入力をやり始めるとアインズ、そしてトールにできることはなにも無い。

 

 アインズはゲームのキャラクターとして魔法が使える他は営業畑の人間である。こういったプログラミングに関しての知識は無い。

 かつてユグドラシルでのゲーム中に、その時代の現役であったヘロヘロらはプログラミングについての話をあれこれと語っていた。そしてアインズはそれをさんざん聞きはしていた。

 だが、かといって、それだけでプログラミングが理解出来ようはずもない。

 そもそも、聞かされていたのは、苦労して作成したのに、いきなり仕様が変更されたとか、クライアントのイメージと違ったとかで全部やり直しになったなどという愚痴ばかりであり、そこに役に立つような情報は何もなかった

 

 

 事務所内にただカタカタとキーボードを打つ音が響く。

 集中してモニターを睨み、記号の羅列と格闘している社員三人を前に、残る二人はただひたすらボーっと突っ立っているしかなかった。

 

 

 

 ――うーん。拙いな。

 このままだと、とくに役に立てないまま、終わってしまう。

 

 

 アインズは秘かに、口の中でぼやいた。

 

 実のところ、アインズとしては、なんとかこの機会に小林の役に立っておきたいという思惑があったのだ。

 

 

 アインズは当初、パチンコでの資金調達計画を思いついたものの、そちらは何やら大ごとになってしまい、思わしくない結果となってしまっていた。

 そして、それに代わるものとして計画した海外のカジノ進出もまた頓挫してしまっていた。

 

 つまるところ、金を稼ぐことが出来なくなってしまい、ニートに逆戻りしてしまったのである。

 それに対する言い訳として、自分は王であるから、これでいいのだなどと考えはしたものの、そう言って堂々と開き直れるほど、アインズの面の皮は厚くなかった。死の支配者(オーバーロード)であるアインズの頭部は頭蓋骨そのままであって、顔に皮などは無いのである。

 

 

 そんなときに降ってわいたのが、今回の一件。

 これは彼にとって、まさに渡りに船であったのだ。

 

 金を稼げないのならば、別の事で小林家の役に立てば、そこに自分の存在価値が生まれるはず。 そう、ひそかに意気込んでいたのである。

 

 

 だが、絶対の自信をもっていた〈時間停止(タイム・ストップ)〉の連続使用による作業時間の確保は、思いもかけぬところからの伏兵――ファフニールからの中止要請により、取りやめとなってしまった。

 

 これでは、せっかくの失地回復の機会が失われかねない。

 状態異常防止の指輪は貸したものの、それだけでは自分の株をあげるにはまだ足りない。

 

 

 

 他に何かないかとアインズは必死で思考を巡らせた。

 

 だが、起死回生となる案など全く思いつかない。

 そもそも今、小林らが行っている仕事について、いったい何をやっているのか詳しい事はアインズにはさっぱり分からないのである。せいぜいが一般にIT土方と呼ばれるような地道な作業の繰り返しであるという事を何となく理解できた程度だ。

 

 

 ――ある程度の知識がある人間が多くいれば、何とかできるのだろうがな。手伝いの人間を増やせれば……。

 

 そう思いつつも、アインズでは全く役に立たない。

 この世界においてアインズは頼れる伝手など持ち合わせてはおらず、アインズ自身にもプログラミングのリアルスキルなどはなく、ゲームでの特殊技術(スキル)等も持ち合わせてはいなかった。

 

 当然であるが、ユグドラシルは剣と魔法のファンタジータイプのゲームであり、各種武器を振るったり、魔法を使ったりというものはあっても、SFもののようにプログラミングの特殊技術(スキル)やそれを扱う職業(クラス)は存在しないのだ。

 したがって、アインズが召喚や創造できる怪物(モンスター)達の中にも、そういった特殊技術(スキル)を保有している者などいようはずがない。

 

 

 

 だが、そこまで考えたところで、アインズの頭に引っ掛かるものがあった。

 

 

 ――ん? 待てよ。

 別に持っている必要はない。使えさえすればいいのか……。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 カタカタカタカタ。

 カタカタカタカタ。

 カタカタカタカタ。

 

 深夜の事務所内に、キーボードの音が途切れることのないさざ波のように響く。

 今、事務所の中では大勢の人間が一斉にパソコンへと向かい、その手を一心不乱に動かしていた。

 

 それだけならば特段なんの変哲もない光景に思える。

 ごく普通の仕事場の風景だ。

 

 だが今、まったくの第三者で、この現況を見る者がいたら、眼前に広がるあまりの異様さに凍り付いたことであろう。

 

 

 すぐ手前の席に座り、キーボードを叩く人物。

 頭の後ろで無造作にまとめた髪。オーバルタイプの眼鏡。華奢な身体。一見、男性かと見紛う胸部の持ち主である彼女は小林である。

 

 その向こうの席に腰かけ、手をあげて指示を求めた人物。

 彼女もまた小林である。

 

 そして、手をあげた小林の許へ歩み寄り、モニターを覗き込んで指示をする彼女もまた小林であった。

 

 

 小林。小林。小林。小林。小林。小林。

 小林。小林。小林。小林。小林。小林。

 小林。小林。小林。小林。小林。小林。

 小林。小林。小林。小林。小林。小林……。

 

 

 今、この地獄巡システムエンジニアリングのオフィス内は、大量の小林で溢れ返っていた。

 

 

 

 何故、こんなにも小林がいるのか?

 小林は実は多胎児だったというわけでもなければ、忍びの技術を受け継ぐ者で分身の術を使ったわけでもない。タイムマシンで過去や未来の時間軸から集まって来たわけでもないし、はたまた小林にバイバインをかけたわけでもない。

 

 

 この大量の小林。

 彼女らは小林に擬態した二重の影(ドッペルゲンガー)である。

 

 

 二重の影(ドッペルゲンガー)

 ユグドラシルにおける異形種の一つである。

 

 種族であるため、その強さは千差万別にして、様々な亜種も多いのだが、そのうち30レベル程度のものを、第五位階の〈怪物召喚(サモン・モンスター)〉で呼び出すことが可能であった。

 

 その最大にして特徴的な能力、それは他者の姿を真似る事、そして対象となった者の能力をコピーし、再現することである。

 

 

 とは言え、あくまでその魔法で呼べるのは怪物(モンスター)の一種として召喚できる程度のものでしかなく、同じ二重の影(ドッペルゲンガー)でも、100レベルの拠点NPCとして作られたパンドラズ・アクターとは比べ物にならない。

 

 パンドラは45もの外装を記憶しておき、さらにそうして姿を変えることが出来るそれぞれの100レベルキャラクター、その能力をオリジナルの80%ほどまで再現することが可能であった。

 

 対して、この二重の影(ドッペルゲンガー)の再現度は、30レベル程度の怪物(モンスター)ということもあり、それより圧倒的に劣る。

 複数の姿を記憶しておくことなど出来ず、目の前にいる一人の姿をとり、その能力や特殊技術(スキル)を――模写する相手のレベルにもよるが――せいぜい半分程度、再現する程度でしかない。

 

 

 だが、その程度であっても、この世界の現代人が持ちえる技術、知識をコピーし、扱えるというのは実に有用な能力であった。

 

 

 アインズは〈怪物召喚(サモン・モンスター)〉を連続使用して、大量の二重の影(ドッペルゲンガー)を召喚し、彼らに小林の擬態を命じたのだ。

 そうして〈上位道具創造(クリエイト・グレーター・アイテム)〉で作成したモニター一体型のPCとキーボードを並べ、彼らに入力作業をさせたのである。

 

 もちろん、そいつらの能力は小林本人には劣る。

 こうして見ていても、オリジナル小林の流れるようなブラインドタッチとは異なり、キーボードを叩く音もたどたどしく、時折テンポが狂ったりする。

 しかしそれでも、アインズらには出来ない入力やプログラミングが出来る小林の姿をまねた二重の影(ドッペルゲンガー)たちは貴重な戦力であり、多少の手際の悪さはその数で補えた。

 

 

 それに、ここにいるのはそんな小林のコピー軍団だけではなく、本物の小林や滝谷もいるのだ。

 小林軍団に比較的簡単な作業を任せ、小林や滝谷は彼女らのフォロー、監督をしつつ、彼女らに任せるには少々難しいと思われる作業は自分たちでやることで、作業効率は飛躍的に上昇した。

 

 見る見るうちに仕事の山が片付いていく。

 これならば、ほどなくして小林が一日休む分の作業は終わらせることができそうだった。

 

 

 

 そばでエルマが、「私、これ憶えるの、けっこう頑張ったのにな……」、と何の勉強もなしに作業が出来る二重の影(ドッペルゲンガー)らの様子にショックを受け、虚ろな表情を浮かべていたが、そちらに関しては完全に無視した。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

「お疲れ様、カンナちゃん」

 

 授業参観も無事終わり、学校からの帰り道、ガードレールで車道と仕切られた一メートルほどの歩道を歩く二人。

 小林の腕に抱きつくカンナは、にこにことその顔に笑みを浮かべている。

 

「コバヤシ、来てくれてありがとう。お仕事、大丈夫だった?」

「なあに、これくらい、なんてことないよ」

 

 そう言って、小林はカンナの頭を撫でてやる。

 カンナは嬉しそうに目を細めた。

 

 

 この笑顔が見れたのだから、無理した甲斐はある。

 なあに、大したことは無い。

 今日の授業参観におけるお母さんへの感謝の気持ちという作文の朗読で、飲酒した時の事やメイド好きな事をばらされたのも、些末な事だ。

 どうせほとんど会うこともない他人ばかりだから、気にすることもない。

 

 小林は胸の内に残る多少のわだかまりを、大人の諦観で飲み込んだ。

 

 

 

「ただいまー」

「ただいま、トール様」

 

 帰宅の挨拶をして、マンションの扉を開ける小林とカンナ。

 彼女らを出迎えたのは、トールの笑顔。

 

 

「「「「「おかえりなさい、小林さん」」」」」

 

 耳に響く多重音声。

 玄関を開けた二人の目に飛び込んできたもの、それは五人のトールの笑顔であった。

 

 

 

 呆気にとられる小林。

 すると――。

 

 

「おかえりなさい」、「おかえりなさい」、「おかえりなさい」、「おかえりなさい」、「おかえりなさい」、「小林さん」、「おかえりなさい」、「おかえりなさい」、「小林さん」、「小林さん」、「おかえりなさい」、「小林さん」、「小林さん」、「小林さん」

 

 玄関付近にいたトールらの声を聞きつけたのか、リビングの方からさらに何人ものトールたちが顔をのぞかせ、一斉に出迎えの挨拶をした。

 まるで洞窟内で無限に反響する音のように、寸分たがわぬ高さと音量の声が幾重にも小林の耳に突き刺さる。

 

 

 

「ちょ、ちょっと待って!」

 

 小林は耳を抑え、トールの人ごみを掻き分け、リビングへと足を進める。

 そこでソファーに腰かけていた、この事態の元凶、アインズへと声をかけた。

 

「いや、アインズさん! なに、この状況!」

「ふふふ。なに、昨日の件でふと考えてな」

 

 そう言うと、アインズは格好良くローブの裾を払った。周囲のトールらにぶつからないようコンパクトな動きで。

 さすがは元社会人、周りへの気遣いもばっちりである。

 

二重の影(ドッペルゲンガー)を使った人員の増員。これで小林家の家事一般をこなすトールを量産してやればいいと思ってな」

 

 

 そう、金を稼げないなら小林家の役に立つことで、自らの存在価値を生み出そうという計画。

 アインズはまだそれを継続していたのだ。

 

 たしかに、昨日の突貫作業においては二重の影(ドッペルゲンガー)のコピーは役に立った。

 だが、アレは所詮一回のみの単発作業である。この(のち)、同じような事態はそうそう起こるまい。

 そこで、恒常的に役に立つ行為、二重の影(ドッペルゲンガー)によって小林家のメイドであるトールのコピーを大量に作り出すことで、小林家の日常生活の向上に寄与しようという目論みであった。

 

 

「見るがいい。この大量のトールを! これだけのトールがいれば、いかなる家事も瞬く間に終わるだろう」

 

 堂々たる態度で宣言するアインズ。

 だが、それに対して、小林は呆れ顔であった。

 

「いや、うちマンションの一室なのに、こんなにいてもしょうがないっての」

 

 




【おまけ】


「いや、こんなに大量にトールを複製して、どうするのさ?」

 呆れ顔の小林。
 彼女の言う事はもっともである。

 部屋いっぱいにひしめくトールの群れ。
 一見すると恐ろしいが、しかし実際のところ、トールは強大な力を持つドラゴンであり、召喚されたのは30レベル程度の二重の影(ドッペルゲンガー)である。
 そのため、昨日、一般人の小林をコピーした時とは異なり、トールの凄まじい力のほとんどは再現できておらず、その能力はごく普通の人間と変わりはない。
 こんなにたくさんいるが、出来る事といえば、せいぜいある程度の家事が出来るくらいでしかない。


「掃除も瞬く間に終わるぞ」
「だから、うちはマンションの一室だけなんだから、そんなに掃除する場所もないって」
「料理とかも分担してできる」
「そんなに大人数が立てるほど、台所広くないよ」
「洗濯とか……」
「うちに洗濯機は一つしかない」
「……スーパーの1人1個までの特売品を何個も買える……」
「同じ顔の人間がたくさんいたら、大騒ぎになるって。うちにトールは1人で十分だよ」

「そうですよね!」

 ひしめくトール軍団の中から、ハッという声と共に1人のトールが飛び上がり、空中でくるくると回転して小林の前に飛び降りる。

「この家に、メイドは私一人で十分。こんな蟻んこのごとき有象無象がいくらいようと、何の足しにもなりません。小林さんの隣に立ち、小林さんの愛を一身に受けるのは私一人で十分です!」

 そう言って、びしっと親指を立てるトールA。
 おそらくあれがオリジナルのトールなのだろう。


 何はともあれ、部屋の中が狭くてしょうがない。
 とにかく右も左もトールなのである。
 あちらこちらで頭の両脇から伸びた角が引っ掛かり合って酷い状態になっている。


 召喚したアインズに、このトールに化けた二重の影(ドッペルゲンガー)たちを還すように言おうと小林が口を開きかけたとき――玄関のチャイムが鳴った。

 そこにいたのはお隣の主婦、笹木部さんであった。

「ええと、すみません。なんだか、大勢で騒ぐ声が聞こえたんですけど、一体何が……きゃああぁぁっ!」

 扉を開けたところにいた大量のトールの姿を見て、声を上げる笹木部さん。
 
「ど、どうしたんだ! ……って、うわああぁぁっ!」

 悲鳴を聞きつけ飛び出てきたデスメタル風の格好をした谷菜さんもまた、気絶した笹木部さんを囲むトールの群れに悲鳴をあげた。
 悲鳴はデスボイスではなかったが、さすがに趣味とは言え、歌をやっているだけあってその声量は大したものであり、マンション中にその悲鳴が響いた。
 その声を聞き、また別の住人が、いったい何があったと顔をのぞかせ……。

「ちょ、ちょっと、まって! 落ち着いて! みんな中に入って!」


 そうして、マンション中が大騒ぎとなってしまい、一連の騒動が治まるのにはかなりの時間を要した。
 とりあえず、全員を魔法で眠らせた上で記憶を操作し、事なきを得たが、せっかく先日の件で上がったはずのアインズの株はすっかり下がってしまったそうな。








感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に
感想を投稿する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。