女だから言えること | 引きこもり、精神病からの生還

太ったおじさんみたいなおばあさんです。キレキャラとおふざけキャラと真面目キャラを分離する才能がないので、丸ごとの自分を出してます。

学校の先生に救われたお話

 この話を読んだ時、私は3人の先生、いや、その他複数の学校の先生を思い出した。が、まず、先に念を押しておきたい事がある。

 

医療・福祉従事者が給料以上に働く必要は感じない

 この記事でボランティアについて書いたのと同様に、教員、医師、看護師、介護師、障害者や児童施設の職員など、医療や福祉に関わる方々が、給料以上の仕事をする義理はない、と私は思っている。福祉に務める人間だからといって、他の仕事より責任は重く給料が少ないなんて納得がいかないし、そんなことだと誰もその仕事につきたがらないではないか、と思うからだ。

 それでも、私はこの話を書き残しておきたい。私が親からの虐待や、同級生からの意地悪に屈せず生き残れた理由の一つだからだ。彼らのおかげで私は人生や社会に絶望することなく、大学にまで行けた。その後、行き詰まりはしたが、ど底辺で最悪の家庭環境出身者の中では、わりと持ち直したほうだと思う。私のように-10くらいからスタートした人間は、20歳超えたくらいでやっと0に戻せれば、まだマシなほうな人生だと思う。

 

貧困・被虐待児はマイナスからの人生のスタート

 私は一番上の記事に

「中学時代に学校に払うお金(修学旅行の積立金?)を何回も「忘れた」って言って持っていかなかった。先生「俺が貸してやる」私「返せないからいい」「出世払いだ」と、その後も時々払ってたっぽい。修学旅行は不参加 」

とコメントした。

 

 まともな親の元に育った子が0からのスタートだとしたら、私の人生にはものすごいハンデがあったと言える。そこを補ってくれたのが、教員であり、友達であり、会社の仲間、上司、社長だった。本当に、人にだけは恵まれた人生だっと思う。貧乏は、生活習慣病みたいなものなので、もう一生治りそうもないが…

 

 いきなり話がそれてしまうのは私らしいが、元に戻すぞ。

 

異常事態だった当時の教育現場

 中学時代、私は学校には行ったり行かなかったりだった。行っても、遅刻したり早退したり、もうむちゃくちゃ。ある時、気が向いて3時間目くらいにフラーっと学校に行って、廊下を歩いていると体育の先生に出くわして、「おお、高円寺!お前来たのか!今、3組は数学の授業をやってるから行ってみろよ!」と言われた程度には学校に行ってなかった。

 

 小学校の頃は学校が近かったので重度の統合失調症で頻繁に父親が職員室に意味不明のクレームで怒鳴り込んでいっていた。担任もそのストレスのせいか、教師なのに私をいじめた。先生が朝、教室に入ってくると、いきなり「昨日、高円寺さんのお父さんが職員室にきて、高円寺さんが左利きなのはお前のせいだったって怒鳴られました。そんなの先生のせいじゃないのに。」と、晒し上げられるという虐め方だった。

 中学1年の時の担任は教室で皆の前で、男子生徒を2~3分に渡って引きずり回しながら、グーでボコボコに殴ったりもしていた。現在では大騒動になるようなことが起こっていた。少しだけ先生の味方をするなら、あの時代の不良は本当に悪かった。私が小学校時代に口を聞いていた同級生姉妹も、二人揃って少年院に入った。さらに悪いことに私の地域の不良はガチでその筋の方と繋がっている子もいた。本当にひどい時代と環境だった。

 

子供に気遣いをさせないように気遣う教師

 そんな中で当時50代の男性教師が私のことをとても心配してくれていた。なぜだかは分からない。学校にあまり来ないだけで見た目や素行が全く不良ではなかったこと、さすがに学校に払うお金を持ってこない上に、生活保護も受けていない特殊な家庭はウチだけだったのかもしれない。それで、学校に払うお金(子供だし育児放棄で何のお金が知らなかった。)を何回も「忘れた」って言って持っていかなかった。

 

 何回も、何回も「忘れた」と言って持っていかなかったら、

先生「俺が貸してやる」

私「返せないからいい」

先生「出世払いだ」

と、その後、ずっと?または私がお金を持って行けなかった時?(記憶が曖昧なのだが)払ってくれていたっぽい。実際に私は修学旅行に行ける状態だったっぽい。行かなかったけど。(別居の祖母や母がたまにお金をくれていたので、お金を持っていた時は払っていた。)

 

勇気を出して父と話をしに来た若い教師

 さらに、高校を受験した時に滑り止めに私立を受験するという風習があって、経済的に合格しても絶対行けるわけがないのだが、なぜか受験した。で、その手付金を工面できずに払えていなかった。

 その時も別の先生が山の上にある私の家まで汗をかきながら登ってきて、「あの私立高校に手付金を払わないと公立に落ちた時に行く高校がなくなる。」と説得してくれたのだ。

 父は重度の統合失調症で女(家族)を憎悪していたので「あの私立は、あの子の母親が行った高校だ!あの女が行ったのと同じ高校なんか、絶対に行かせない!」と怒っただけでなく、母親の悪口を怒鳴り始めたのだ。

 「あーあ、はじまったよ。先生逃げて。聞いてあげるとキリがないよ…」と、遠目にのぞいていると、「お気持ちは分かりますが、お子さんの将来が…」と食い下がるのだ。まだ、20代の若い男性教諭だった。今思いだすと涙が出そうになる。あの時、遠目に様子をうかがいながら、同じことを思っていたかもしれないが、忘れた。

 

大学に行けばお金持ちになれると思っていた

 そして、中学時代にほぼほぼ学校に行ってない私が入ったのは地域でもド底辺の高校。ただ、その高校の卒業者の進学先に某国立大学が載っていた。私はそれを見た途端に、急にやる気になった。「よし!この大学に入って、お金持ちになってやる!」と。基本的に、育児放棄すぎて世間知らずなので大学さえ卒業すればお金持ちになれると思っていたのだ。都合のいいことに、その進学実績は夜間大学だったため、余計に「私でも働きながら行けるじゃん!」と希望が湧いたのだ。

 

努力の足を引っ張るADHD

 だが、問題なのは最近発覚したADHD的な行動。多動性や集中力、注意力の欠如から、相変わらず授業は行ったり行かなかったり、遅刻したり早退したりだった。卒業間際に担任に言われたのは、あと少し出席日数が足りなかったら留年だったということ。やる気はあったが、とにかくADHD的な気性は手強い。

 勉強する気はあるし、成績も絶対に10段階で9以下は取らないと決めていたので一つでも8があったら心底がっかりしていた。さらに、私は脚が悪いので、体育の激しい授業は見学していたので体育はどうしても7が最高だった。だから、他の教科で補わざるを得ない厳しい状況だった。

 さらに悪いことに、私は典型的なカロリー過多の栄養失調という貧困特有の食生活をしていたので脚がポキポキ折れた。つまり、高校時代に5回目の骨折をして入院してしまうのだ。(多分入院費は祖母が払った。)

 

勉強したいと泣きながら懇願した

 もうねー、その時、私、

「大学に行くのが夢だから、学校を休みたくない!

 勉強しないと大学に行けないじゃん!

 大学に行ったら人生が変わると思ったから頑張ってたのに…」

と、担任の前で号泣したんですよね。

忘れてたけど、書いてたら思い出しちゃった。

 親が無職なので、働きながら行ける夜間大学一択だったんですよ。落ちてから就職先を探すのでは、就職活動が手遅れだったんじゃないかな?それも不安だったんだと思う。そもそも「親が働いてないから大学には行けない」という発想がなかったのが、ある意味で幸運だった。育児放棄で教育やしつけを受けていないからこその発想だと、大人になってから気づいた。

 

簡易トイレ設置+車で送迎+保健室で家庭教師

 そしたらね、私の家に比較的に近い(つってもそんなに近くない)先生たちが、試験期間中に交代で車で私を学校に送り迎えをしてくれて、試験を受けさせてくれたんですよ。当時トイレは和式で、ギプスだとトイレが出来ないと、保健室の先生が事務の先生に(亡くなったお母さん用の)介護用ポータブルトイレを借りて、保健室に簡易洋式トイレを用意してくれたんです。そこまでして、私に試験を受けさせてくれたんです。

 さらに、試験が午前中で終わると、その後、担任が次の日の試験科目の総ざらいを何時間もかけて教えてくれたんですよね。試験中は毎日ね。そのおかげで、その時の試験は普段どおりの点数が取れました。

 

普段から聞きに行けば教えてくれた

 その時だけではなくて、わからないことのある教科は試験前に教科室に聞きに行けば、どの先生も熱心に教えてくれました。理解できていなければ、長時間かけて基本から教えてくれました。授業中に将棋をしたり化粧をしている子のほうが多い、ド底辺高校だったので、そこまでしてもらえたのかもしれません。そういった意味では幸運でした。そして、その先生方のおかげで今の私があります。

 さらに、修学旅行に行かないとゴネたた時も、音楽の先生が「修学旅行は高校時代の思い出になるから絶対に行け!カネか!カネの問題なら、先生たちでカンパしてなんとかしてやるから絶対に行け!」と興奮しながら言ってくれました。私は、なぜだか涙を流しながら「行かない」と言ったのを覚えています。

 

こんなこと出来ないのが当たり前

 また、長くなってきたし、思い出したら泣けてきたので急に終わりますけど、先生たち、本当にありがとうございました。そして、今、現場で頑張ってくださっている先生方も本当にありがとうございます。私のような底辺のクズにでも優しくしてくれる人がいたのは、本当に救いでした。

 でも、みながみな、そこまでできる訳ではないし、そこまでしなければならない理由もありません。特に現代は、私の時代よりは親子とも、学校に昔より多くの事を求めるようになってしまったし、指導内容も変わっている(増えてる?)と思います。

 ですから、誰もここまでやる必要はありません。ただ、私は奇特な人たちに囲まれていたというお話です。

 

おわり。

 

【追記】発達障害のお子さんをお持ちの親御さんは、この話を読んで「ADHDでも大学に行けるのか!」と感じるのだろうか?それとも、大学までは行けても、その後で行き詰まるのか…と感じるのかが、ちょっと気になる。

 

◆中学の修学旅行に行けなかった理由はこちら

 

◆音楽の先生との交流については、ちらっとこちらで書いてます。

 

 ちなみに、昔だったからか、私、担任の家にも、音楽の先生の家にも行ったことがあるんですよね。それくらい、先生たちと距離が近かったんです。大人になってからは、人との距離をいっきに縮めるのは私の特殊能力だと良く言われてます。