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伊勢斎宮の謎
2012/12/19(Wed)
本日、賀茂斎院サイトに「歴代斎院候補」をアップしました。これは斎院サイトを作ろうと決めた時から既に企画していたのですが、何しろ対象があまりに多くさすがに大変で、なかなか踏み切れずにいたものです。しかしこのままではいつまで経ってもできそうにないと思い、まずは内親王だけを対象に絞ることにして、どうにか完成に漕ぎ着けました。(ただし9世紀の皇女たちは色々調査不足につき、後から修正するところもぼろぼろ出てきそうです…苦笑)
ところでこの斎院候補のリストを作成していてひとつ、今まで気づかなかった重大な発見がありました。
賀茂斎院候補となる皇女たちは、即ち伊勢斎宮候補でもあるわけで、斎院卜定時に斎宮であったのが誰かというのも当然重要なデータです。そこで歴代斎宮についてもピックアップしていったところ、仁平元年(1151)に近衛天皇の斎宮に卜定された喜子内親王のデータを見てあれ?と思いました。
この喜子内親王という女性、堀河天皇の皇女でありながら生没年も生母もまったく不明なのです。実は院政期になると、生母の身分が低い皇子女が増えてくるため、こうした例は多く見られます。おかげで喜子内親王も何歳で斎宮になったか判らないばかりか、そもそも伊勢斎宮になっていなかったら歴史に埋もれてその存在すら忘れられてしまったかもしれません。
ただしこの喜子内親王の場合は、年齢を知るための重要な手掛かりがありました。
喜子内親王の父であるとされる堀河天皇は、30に満たない若さで亡くなった天皇です。親の没年、とりわけそれが若くしての死であったことが判っている皇子女は、逆に言えば少なくとも何年までに生まれたかを割り出すことが可能なので、年齢もある程度まで絞り込むことができるのです。
そこで、では堀河天皇は何年に亡くなったのかと早速調べたまではいいのですが、その結果に驚きました。
何と、堀河天皇が亡くなったのは嘉承2年(1107)年で、喜子内親王が斎宮となるより44年も前だったのです。
堀河天皇の崩御は7月19日のことで、仮に喜子内親王の生母が懐妊したのがぎりぎり1107年4月頃と考えた場合、喜子内親王の誕生はやっと1108年になるかどうかです。ということは、1151年当時喜子内親王は既に数え44歳以上であったのは確実なわけです。
しかし確実に年齢の判っている斎宮・斎院の中で、これほど高齢に達してから卜定された例は他にはありません。(ちなみに最高齢とされているのは鎌倉時代の利子内親王で、卜定当時30歳) よって千尋も、斎王に卜定される年齢の上限は30程度だろうと考えてきたのですが、この喜子内親王の例は今回初めて気がついたので本当にびっくりしました。
それにしても、30代半ばくらいまでならまだしも、40過ぎといえば当時としては既に初老と言ってもいい年齢です。もっとも、卜定されたのは若くても長年勤めている間におばあちゃん(失礼)になってしまった斎王もいますから、40代の斎王が必ずしもおかしいわけではありません。
とはいえ、早い例では7か月の赤ちゃん(!)で卜定された斎王もいるというのに、始めからおばあちゃんの斎王ではさすがに無理がありすぎる話です。これはいくら何でも何かの間違いではないのかと首を傾げ、改めて史料をを調べ直してみたところ、ほぼ同時代の記録が二つ残っていることが判りました。
というわけで、まず藤原頼長の日記『台記』を見てみます。
『台記』仁平元年三月二日条(『増補史料大成』より)
今日伊勢斎内親王<故堀川院女、名喜子>、先被親王宣旨。
以上の通り、はっきりと「故堀川院女、名喜子」との記述がありました。これは当時の貴族の日記、しかも著者は今年の大河でも活躍したあの頼長となると、史料としての信憑性も高いと思ってよさそうです。
もっとも残念ながら現存する『台記』は写本のみですが、仮に天皇の名前に写し間違いがあったとしても、「故」とあるからには当時存命の鳥羽院や崇徳院ではありえません。これはやっぱり本当に堀河天皇の娘だったのだろうか、と一度は思ったのですが、そこでふとまた待てよ、と思いました。
もしこの「故堀川院」が、「故白川院」の誤りであったとしたらどうでしょう?
白川院、つまり白河天皇が亡くなったのは大治4年(1129)7月7日のことでした。もちろん喜子内親王卜定の1151年当時には既にこの世にいない人ですが、それでも息子である堀河天皇の死から20年以上も後のことだったのです。
ちなみに白河院は身分低い女性にも多くの子を産ませ、しかも本人もはっきりと判らないまま打ち捨てていた子女さえ幾人もいたと言われています。しかも、そうした皇女たちの中から真偽のあやふやなまま斎宮・斎院に選ばれた人もいたので、白河院の没後20年以上経ってから忘れられていた遺児が見いだされる可能性は充分考えられます。
もし喜子が白河院晩年(1120年代)の皇女であったとすれば、1151年当時20代半ばから30近くということになります。これでもかなり年長ではありますが、亡き堀河天皇の娘が40代半ばで斎宮に卜定されたというよりはずっと無理がないでしょう。
何より、もし喜子が堀河天皇の娘であったなら、何故長承元年(1132)の29代禧子内親王と、翌長承2年(1133)の30代怡子内親王の卜定の時に彼女が選ばれなかったのでしょうか。
特に禧子内親王は鳥羽院最愛の長女であり、斎院として手放すのを非常に惜しんだと記録にも残っているくらいですから、鳥羽院に当時20代半ばの異母妹がいると判っていれば間違いなくそちらを斎院にさせたことでしょう。しかし喜子が白河院の娘で、生まれた後もその存在すら世間に知られることなく埋もれていたのだとすれば、鳥羽院が最愛の長女をやむなく斎院としたのもさほど不思議なことではありません。
ところでここでもうひとつ、喜子内親王卜定を記録した別な史料を見てみます。
『本朝世紀』仁平元年三月二日条(『國史大系』より)
有斎宮卜定事。先蔵人頭右大弁藤原朝隆朝臣進膝突下内親王宣旨。<喜子。今日被卜定斎宮>
この『本朝世紀』もこれまた今年の大河に登場した一人、信西が編纂したことで知られる歴史書です。しかしこちらには何故か、喜子内親王が誰の娘であったのかという記述はありません。
とはいえ『本朝世紀』の編纂が始まったのは久安六年(1150)で、まさしく喜子内親王が斎宮の任にあった頃にぴったり重なっているのです。それなのに、当時現任の斎宮の父の名が記されていないというのは妙ではないでしょうか。(ちなみに喜子の前任者である妍子内親王については、『本朝世紀』は鳥羽院皇女であることを明記しています) ましてその父が臣下に慕われその早世を悲しまれた堀河天皇であったなら、その名を記すことに不都合があったとは思えないので、これはもしかして敢えて白河院の娘であることを書かなかった(書きたくなかった)のか?とも勘ぐれます。
一方でこの『本朝世紀』、皮肉にもというべきか、喜子内親王の卜定から群行までについてはなかなか詳しい記録が残っています。特に仁平二年九月二五日条には「今日可有御禊之由先日奏下了。而斎王有御月事。仍延引。」とあり、野宮入に際しての御禊が斎王(喜子)の月経のため延期されたということも判ります。もっとも平安時代にも44歳で出産した源倫子(道長室)のような例もあるので、残念ながらこれだけでは喜子の生年を特定する根拠にはならないですね。(少なくとも10歳以上であったことは確かでしょうけれど)
というわけで、結局明確な結論は出なかったものの、やはり喜子内親王が堀河天皇の皇女であったかどうかはもうちょっと疑ってみてもいいのではないかと思います。仮に本当に堀河天皇の娘だったとしたら、斎王の年齢の上限がこれまで考えられてきたものとは大幅に変わることになりますが、一体どちらだったのでしょうね?
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