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天皇譲位と斎院退下
2013/12/16(Mon)
以前、源氏物語に登場する斎院についての考察の中で、「天皇譲位で斎院は退下するか」という疑問点に遭遇しました。これについては、既に堀口悟氏が「斎院交替制と平安朝後期文芸作品」(『古代文化』31巻10号, 1979)にて、斎院退下の条件は「父の喪、母の喪、自身の死、斎院の任に耐え得ないと判断された病」の4つのみとし、天皇譲位は含まれないとしています。一方で『平安時代史事典』を見ると、2代時子女王(当時父仁明天皇はまだ皇太子でした)、26代官子内親王については「当帝の譲位」とされていますが、この2人はいずれも退下の正確な年月日ははっきりしていません。ただし時期的に見ると、確かに次の斎院が卜定されたのと天皇譲位・新帝即位が同年で、「譲位による退下」を完全に否定できないのも事実です。(なお18代娟子も『一代要記』では父後朱雀天皇の譲位で退下したとされますが、後朱雀天皇は譲位からわずか2日後に崩御しており、当時の記録がないため退下理由が譲位・崩御のいずれかは断定できません)
ともあれ、2代時子はごく初期の斎院であるため、斎院制度自体がはっきりと定まっていなかった可能性もありますが、問題は26代官子です。
この人も例によって、仮にも内親王でありながら困ったことにとにかく情報が少なく、本人の生没年も不明なら母親の生没年も同じく不明、おまけに退下の年月日までわからないという、ちょっと研究者泣かせな斎院です。彼女が斎院を退下したと思われる保安4年(1123)は鳥羽天皇が譲位し崇徳天皇が即位した年で、歴史上でも重要な時期のはずなのですが、運の悪いことにこの年の記事は現存の『本朝世紀』や『中右記』には入っていません。どちらも非常に詳細な記事で知られる史料ですから、保安4年の部分が残っていれば必ず斎院退下の事情も記されていたはずだけに、何とも残念です。
とはいえ、幸いにして官子の次の斎院となったソウ子内親王(ソウ=りっしん偏に宗、堀河天皇皇女)については、保安4年(1123)8月28日に卜定されたことがはっきりしています。鳥羽天皇が譲位したのは同じ年の1月28日で、ソウ子の卜定はその7ヶ月後ですから、このタイミングであれば恐らく先代の斎院官子が退下したのは鳥羽天皇の譲位によるものだろう、と考えるのは当然でしょう。
ところが、歴代の斎院の退下事情をよく調べてみると、ちょっと話は違ってきます。
斎院が退下した後、次の斎院が卜定されるまでの期間は退下理由によって当然異なります。特に天皇崩御または天皇の父上皇の崩御の時期に斎院退下が重なると、諒闇が空けるまでは斎宮・斎院の卜定も延期されますから、父天皇の崩御で斎院が退下した場合になると、次の斎院が卜定されるのはほぼ確実に1年以上先の事になります。(1回だけ例外がありますが、ここでは省略します)
一方で、斎院の母親の喪や、斎院自身の病または死による退下の場合は、次の斎院候補が服喪中でない限り影響はありません。よって、こうした時には大体退下から3~5ヶ月の間に次の斎院が卜定されています。(稀に選定でもめたり、候補者が幼すぎて延期したりしたと思われるケースもありますが、これは例外と見ていいでしょう)
そうした歴代の卜定例と比較すると、この26代斎院官子が鳥羽天皇譲位で退下したと仮定した場合、次の27代斎院ソウ子の卜定までにかかった7ヶ月という期間は、いささか長すぎるのです。
当時ソウ子内親王は25歳、斎院候補としてはやや年長ですがちょうどいい年齢で、しかも他に候補となりうる内親王は鳥羽天皇の長女禧子内親王(2歳)しかいませんでした。2歳の斎院卜定は10世紀にも前例がありますが、禧子は当時の鳥羽天皇にとってとりわけ鍾愛の皇女であったことが記録からも知られており、しかも今でいえばようやく満1歳という幼さで斎院にするなど論外だったでしょう。従って、この時の卜定は最初からソウ子以外考えられなかったと思われ、選定にもめる余地などなかったはずです。
さらにもう一点、新帝即位となると、当然伊勢斎宮も新たに卜定されます。
崇徳天皇が即位した保安4年(1123)、斎宮に選ばれたのは白河院の弟輔仁親王の娘・守子女王でした。崇徳天皇から見れば、祖父堀河天皇の従姉妹にあたる皇女で、血縁としてはいささか離れています。とはいえ既に述べたように、当時は他に該当する内親王も殆どおらず、女王でも記録に残っているのは守子の姉妹の怡子(後の30代斎院)だけでした。
ともあれそうして卜定された斎宮守子ですが、ここで問題となるのが、この斎宮卜定の時期です。
守子が卜定されたのは、保安4年(1123)6月9日でした。斎院ソウ子の卜定は8月28日でしたから、それに比べて斎宮卜定は3ヶ月近くも早いのです。通常であれば、新帝即位に伴う新斎宮・斎院の卜定は同日のことも多く、ずれてもせいぜい10日前後くらいしか違いません。なのにこの時は3ヶ月近くも離れているというのは、何だか変ではないでしょうか?
こうしたいくつかの疑問点を見ると、斎院官子の退下は本当に鳥羽天皇譲位が理由だったのだろうか、という疑惑が湧いてきます。
しかしながら、何しろこの年の記録は当時の史料には一切残っていないので、どこかから埋もれていた新史料の発見でもないことにはどうしようもありません。それは何度も確認してよくわかっているものの、何だかやっぱり諦めきれなくて『中右記』を何となく見ていたら、思いがけないものを発見しました。
大治元年(1126)7月25日、27代斎院ソウ子は母の死去によりわずか3年で斎院を退下します。そして翌大治2年(1127)4月6日、鳥羽天皇の第二皇女恂子(後の上西門院統子)が28代斎院に卜定されました。
この時の斎院卜定について、『中右記』の記事に「斎院次第」として、初代有智子内親王から始まる歴代斎院の名と奉仕した時期の天皇の名の一覧があります。そしてこの中で、24代令子から26代官子までの3人の斎院について、以下のように記載されていたのです。(実際はすべて一行の中に書かれていますが、ブログではフォントで配置が崩れるので三行に分けました)
<堀川院>
令子、<本院三女>
<同>
禎子、<同第四女>
<新院、今上>
宮子、<同女>
ここでの「本院」は白河院、「新院」は鳥羽院、「今上」は崇徳天皇を意味します。つまり、令子は白河院三女で堀川院の斎院、禎子は白河院四女で同じく堀川院の斎院、そして宮子(=官子)も白河院女で鳥羽院と崇徳天皇の斎院である、と書いているわけです。
ということは、官子は鳥羽天皇と崇徳天皇の二代にわたる斎院であり、鳥羽天皇の譲位では退下していなかったということになります。(!)
いやはや、正直言ってこれは見た瞬間びっくり仰天、一瞬我が目を疑いました。官子内親王が「崇徳天皇の斎院」であった、と明記した史料、それも崇徳天皇即位からわずか4年後のまさに当時の記録が存在していたとは盲点でしたね。しかも記載されていたのが官子本人ではなく、2代後の斎院恂子(統子)の卜定記事の中というのも、完全に予想外でした。
もっともこの『中右記』は残念ながら原本は存在せず後世の写本ではありますが、とはいえ同時代の記録としてこれは見逃せない記述です。この記事を信頼するなら、官子が斎院を退下したのは崇徳天皇の即位後であったと見て間違いないでしょう。またもしかすると、斎宮守子の卜定よりもさらに後で、恐らくは病により退下し、その後急遽新たな斎院が卜定されたのかもしれません。
ともあれ、今回千尋が確認したのは『増補史料大成』収録分のみですが、機会があれば他の『中右記』も確認してみようと思います。『大日本古記録』は残念ながらまだここまで発行されてはいないようですが、影印本でこの記事が入っているものがあればぜひ見たいですね。
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