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賀茂祭の謎・弐 行きか帰りか
2012/07/26(Thu)
先日賀茂斎院についてご質問をいただいた方より、「『源氏物語』の車争いの場面は、斎王御禊の帰り道での事件ではありませんか」と再度お問い合わせがありました。はて、そういえばあまり深く考えたことがありませんでしたが、言われてみれば原文には往路か復路かという記述は見当たりません。しかも困ったことに、先日ご紹介した土橋誠氏の解説にも出典は明記されていないのです。で、ひとまず自宅の本棚や図書館の参考図書等色々当たってみたのですが、ますます困ったことに『源氏』の注釈書を漁っても『延喜式』や『江家次第』等をひっくり返しても、「斎院御禊のルート」を記した史料はまったく見当たりません。かろうじて『京都の三大祭』(所功、角川選書)、『平安の都』(角田文衛編著、朝日選書)、そして『賀茂斎院と伊勢斎宮』(斎宮歴史博物館)に「一条大路を東に進んだ」という解説があり、東に向かったということはこれから鴨川へ向かう往路のことと理解していいかと思うのですが、これまた肝心の一次史料の名前はどこにもないのです。また逆に『源氏物語の鑑賞と基礎知識9 葵』(至文堂)の解説では「御禊が終わった後、斎院一行は一条大路を通って紫野の斎院に入るわけだが…」とあり、こちらは明らかに復路として書かれていますが、これまた出典はなし。…一体どっちが正しいんでしょう?
ところで、うっかり書きそびれていましたが、そもそも「斎院御禊」というのは三種類ありました。どのように違うかというと、順番に以下のとおりとなっています。
1.初度御禊~新しい斎王(斎院)が決められて初斎院(宮中の潔斎所)に入る際の御禊。
2.初斎院御禊~賀茂祭を前に、斎王が初めて紫野斎院へ入る際の御禊。
3.尋常四月御禊~紫野斎院へ入って以降の、賀茂祭を前に行う通常の御禊。
つまり、1と2は当然一度しかない御禊で、後は斎院の任にある限り3ということになります。ちなみに『源氏物語』の「葵」帖で語られる御禊は、供奉する顔ぶれ等から2の「初斎院御禊」であろうとされています。
ここでちょっと平安京の地図を頭の中に浮かべてみると、3の紫野斎院からのルートは洛北から平安京北端の一条大路へ至り、そこで左折して鴨川へ(つまり東へ)向かったと考えるのに特に矛盾はありません。(上記『京都の三大祭』の記述も、この紫野からの尋常四月御禊についての説明でした) また1の初斎院に入る時のルートは、そもそも出発点である斎王の住居の位置にもよると思われるので、ここではひとまず外します。
では「葵」帖の舞台となったと思われる、2の初斎院からのルートはどうだったのでしょう?
この場合、初斎院は言うまでもなく内裏のどこかですから、つまりは一条大路を北端とする内裏から鴨川に向かったということになります。『賀茂斎院と伊勢斎宮』によると、初斎院御禊はわざわざ特別な経費や人員を使ったといい、毎年行われる斎院御禊の中でも特別な御禊だったそうなので、それほど格式高い位置づけであれば大内裏の正門である朱雀門から出て行った可能性も考えられます。
そして朱雀門の目の前には、東西に都を貫き鴨川へ至る二条大路があります。仮に朱雀門から出発するルートだと考えた場合、斎院一行は少なくとも大宮大路までは二条大路を東へ進んだと思われますが、そこから先で北へ左折して一条大路へ向かったのか、それともそのまま二条大路を直進したのか、どちらだったのでしょうか。
参考リンク:Wikipedia大内裏地図
ちなみに『行親記』という11世紀の貴族の日記によれば、18代斎院娟子内親王が初斎院に入る際の「初度御禊」の時は「斎院御禊、<従直成朝臣宅入御右近衛府>、従二條大路東行給、還行之時自二條大路西行、従東大宮北行、従一條大路御右近衛府前」だったようです。この時は往路・復路共に二条大路ですが、応天門を通らずに大宮大路を北上して一条大路を西に進み、西大宮大路を南下して上西門か殷富門から右近衛府へ入ったことになります。(あるいは西大宮大路まで行かず、安嘉門から直接内裏へ入ったかも?) これを見る限り、少なくとも初度御禊では朱雀門を出入りすることにこだわりはなかったようですが、初斎院御禊はどうだったのでしょう。
ここでもうひとつ、『源氏物語』よりやや後の『狭衣物語』の例を見てみます。
巻三でヒロイン源氏の宮がいよいよ、宮中の初斎院から御禊の後紫野の本院(斎院)へと入ります。少し長いですが、大事な部分なので略さずご紹介します。
かねて聞きし、一条の大路、つゆの暇なく、立ち重なれる車、桟敷の多さなど、次々ならん人、頭さし出づべくもなきに、かしこう、身のならんやうも知らず、同じ上に重なりゐたるさまども、いと苦しげなり。さるべき所々、桟敷の多さも、物見車の袖口ども、げにかねて聞きしに違はず、目の輝くことのみ多かり。ほのぼのいそぎ出でつらん家々の人もいかなりつらんと見えて、よろづめでたき年の御禊なり。
河原におはしましたる御ありさまなど、例の事にも事添ひて、永き世の例にも、よろづをせさせたまへり。宮司参りて、御祓へ仕うまつるは、いと神々しく聞こゆれど、大将殿(狭衣)は昼の(ちらりと垣間見た源氏の宮の)御ありさまのみ心にかかりたまひて、
御禊[みそぎ]する八百万代の神も聞けもとより誰か思ひ初めしと
と思すは、うしろめたき御兄[せうと]の心ばへなり。
この文脈を見る限り、源氏の宮の斎院行列は一条大路の見物人の中を通り過ぎて、その後鴨川の河原で御禊に臨んだと解釈できます。この注釈に出典等があればよかったのですが、あいにく『日本古典文学全集』(小学館)の解説には何も触れられていませんでした。…残念。
というわけで、この問題はとりあえず今後の宿題ということで、引き続き追いかけてみます。
それにしても、『源氏物語』の描写を読む限りでは例の車争いは午前中(せいぜい午前10時~11時くらい)の出来事のように思われますが、『京都の三大祭』によると斎院御禊は午後に行われていたそうです。『京の葵祭展』でも「申刻に鴨川に至り、酉刻に御禊を行い、日没の頃斎院に還御した」とあるので、一条大路に詰めかけた見物客たちは随分と早い時間から場所取り合戦をしていたのですね。お祭り大好きな庶民の元気さは昔も今も変わらないようで、何だか私もまた葵祭へ行きたくなってしまいました。
参考書籍:
京都の三大祭 (角川選書) (1996/01) 所 功 商品詳細を見る |
平安の都 (朝日選書) (1994/11) 角田 文衛 商品詳細を見る |
追記:
うっかりしていましたが、『斎王の歴史と文学』(所京子、国書刊行会)のp268に、ずばり「斎王御禊路図」がありました。これによると、往路は待賢門から出て中御門大路を東へ進み、途中東洞院大路を南下して、二条大路で再び東に向かい鴨川に到着。復路は二条大路を同じく東洞院大路まで西へ進み、今度は東洞院大路を北上、一条大路に突き当たったところで西に進み、最後の大宮大路で紫野斎院へ向かうという、ちょっとジグザグなコースになっています。
ただこの図解、タイトルが「斎王御禊路図」とあるだけで、出典もなければどういう「斎院御禊」の時のものかもまったく書いていないためよく判りません。まあ前後の文から考えて、『狭衣物語』の源氏の宮初斎院御禊の想像ルートらしいのですが、でも上記のとおり、源氏の宮の場合は往路で一条大路を通っているように見えるんですよねえ…
斎王の歴史と文学 (2000/03) 所 京子 商品詳細を見る |
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