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賀茂祭の謎
2012/07/20(Fri)
本日、賀茂斎院のサイトについてお問い合わせをいただきました。せっかくですので、こちらでお答えさせていただこうと思います。Q1.斎王御禊の解説で「一条大路を東に進んで申刻に鴨川に至り~」というのは、出典は何か
参考文献にもあげている『京の葵祭展』(京都文化博物館)より、土橋誠氏の「概説・京の葵祭」という解説を参考にさせていただきました。なお『源氏物語』原文にも、「一条の大路、所なく、むくつけきまで騒ぎたり」と書かれており、その後車争いの騒動が起こっていることから、この事件が斎王御禊の途中であったと考えられています。
参考リンク:「源氏物語の世界」様
Q2.「花宴」の右大臣家の宴は女一宮・女三宮の裳着の祝宴とあるが、これは違うのではないか
はい、これは千尋の勘違いでした。右大臣邸について、少し前の文に「新しう造りたまへる殿を、宮たちの御裳着の日、磨きしつらはれたり」とあったことから、藤の宴を裳着当日と思い込んでしまったようです。ご指摘ありがとうございました。
ただこの裳着の式そのものも、「新しう造りたまへる~」という描写から見て、恐らくそれほど前のことではないだろうと考えます。姉妹が共に裳着の式を挙げる例は歴史上にもありますし(やや時代は下りますが、臣下では藤原道隆や藤原教通の娘達がそうでした)、もちろん皇族でも兄弟姉妹が同日に元服・裳着をあげた記録が残っています。よって「花宴」の記述も「宮たちの御裳着」とあることから、素直に二人同時であったろうと思います。
また女一宮・女三宮の年齢について、ご指摘のとおり「桐壺」で光源氏7歳の時に初めて「女皇女たち二ところ」と彼女たちの名が上がっていますが、「花宴」の頃に裳着をしたとなると、どちらも源氏より年上とは考えられません。(20歳以上の裳着はさすがに異例でしょう)
では年下だとすると一体どのくらいかということになりますが、上記の「桐壺」から少なくとも最大で6歳差なのは間違いなく、しかも同腹の姉妹で「女一宮・女三宮」ということは双子でもありません。よって、妹の女三宮は最も若く見て「花宴」当時14歳ということになります。
さて、『源氏物語』の冒頭は醍醐天皇の頃を想定して書かれたという説が有力ですが、醍醐天皇の内親王たちで裳着の年齢が判っている例は、以下のとおりです。(※名前の後のカッコ内の数字は生没年です)
・歓子内親王(899-?) 914年裳着(15歳)
・慶子内親王(903-923) 916年裳着(14歳) 同日、克明親王(14歳)元服
・勤子内親王(904-938) 918年裳着(15歳)
・普子内親王(909-947) 925年裳着(17歳) 同日、時明親王(14歳)・長明親王(13歳)元服
・康子内親王(919-957) 933年裳着(15歳)
・英子内親王(921-946) 938年裳着(19歳)
この中で皇后所生の皇女は康子内親王のみですが、このデータから見て大体14~16歳くらいが当時の内親王たちの平均的な裳着年齢と思われます。皇族以外はちょっと調べられませんでしたが、当時はまだ内親王と臣下との婚姻例は殆どなく、よって結婚を考えての裳着ではなかったはずなので、またちょっと違うかもしれません。
なおその後の時代の内親王たちの裳着年齢についても、参考までにあげておきます。
朱雀天皇皇女
・昌子内親王(950-999) 961年裳着(12歳)
村上天皇皇女
・保子内親王(949-987) 962年裳着(14歳)
・規子内親王(949-986) 964年裳着(16歳)
・盛子内親王(951-998) 965年裳着(15歳)
・楽子内親王(952-998) 965年裳着(14歳)
・輔子内親王(953-992) 965年裳着(13歳)
・資子内親王(955-1015) 968年裳着(14歳)
・選子内親王(964-1035) 974年裳着(11歳)
中には11歳・12歳という例もありますが、全体的に見てこちらも大体13歳~16歳ですね。こうした例から見て、「花宴」の女一宮・女三宮も大体14歳~16歳程度と考えていいかと思われます。
(※なお冷泉天皇の皇女たちはいずれも裳着年齢は不明で、円融天皇・花山天皇は皇女がいないことから割愛しました)
それにしてもこういう資料というのは意外に一覧表等がなくて、改めて調べると結構大変でしたが、同時にとても面白かったです。内親王といえども年齢のはっきりしない人物もいるので、全部の完璧なデータが揃うわけではないのですが、今度こうしたデータもまとめてみたいですね。
ともあれ、今回は貴重なご質問ありがとうございました。何分素人でまだまだ勉強中の管理人ですが、何か他にも気になった点などあれば可能な限りお答えしたいと思いますので、今後もどうぞよろしくお願いします。
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